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07.婚礼の蟲毒(一)
しおりを挟む最高に縁起のいい八月の天赦日。
二条の大納言邸では、前夜から権威ある寺の僧侶たちが庭に陣を構えて夜通し護摩の火を焚き、空が白む前から女房たちが慌ただしく動き回っている。
運命の一日は夜明け前、厳かなる沐浴で幕を開けた。人肌と同じ温度の微温湯を、木綿の湯帷子を着たまま浴びる。先の吉日に洗った髪を濡らしてはいけないので、女房たちが数人がかりで沙那の髪を持った。
沐浴を終えると、清めた体に婚礼の衣装を纏う番だ。
婚礼の衣装は特別にあつらえた十二単で、単衣に左右どちらの腕から袖を通すかに始まって、留め紐の結び方、色の重ね、そのほかにも事細かく決められた通りに着つけなくてはならない。
面倒だし手間も時間もかかる。しかし、いくら万良しの天赦日であっても、万物に宿る神々の祐けを得て不吉を遠ざけるためには、全ての手順を誤りなくやり終えなくてはならない。
十二単を着たら、次は顔に化粧が施された。長く大納言邸に仕えているベテランの女房が取り仕切って、着々と晴れの日の装いが仕上がっていく。
最後に僧侶が厄を祓った後、先立って八条宮家より届けられていた真新しい柘植の櫛で、小梅が腰まである沙那の黒髪を丁寧に梳いた。
「いよいよでございますね、姫様」
「うん」
小梅が、いつになく緊張した面持ちで沙那の頭頂の髪を結って、金に輝く宝冠を慎重に載せる。あとは、父親と挨拶を交わして八条院へ向かうのみだ。
沙那の支度が終わったとの知らせを聞き、大納言が西の対屋にやってきたのは、日が高くのぼった刻のこと。大納言は、きらびやかな婚礼の衣装に身を包んだ愛娘を見るや否や、「これはこれは……」と息をのんだ。
沙那が八条院に通っていたと知ったときは、気絶しそうなほど驚いた。八条宮が帰ったあとに沙那と小梅を部屋に呼びつけて、なんということをしでかしてくれたのかと説教までたれた。
しかし、やはり大納言も娘を愛する一介の父親である。娘の晴れ姿に、万感胸に迫る思いがする。好いた男に嫁ぐのは、沙那にとって最上の幸せなのだろう。
親とは子の幸せを心から願うものなのだと、大納言は安堵のため息をつく。大納言は上座に腰をおろして、お雛様のようにしおらしく座る沙那に慈愛のまなざしを向けた。
「無事に今日を迎えて、なによりだな」
「ありがとうございます、父上」
「八条宮様はつかめぬところがおありになる。お前が悲しい思いをせねばよいが。そればかりが気がかりだ」
「父上、心配しないでくださいませ。宮様のようにおおらかで優しい方はいないわ。きっと、幸せになります」
にっこりと笑う沙那に、大納言は「そうであるな」としばし目頭をおさえる。沙那が手元を離れる実感に迫られて、つい寂しい気持ちが込みあげてしまった。
沙那が大納言と話をしていると、八条宮家より迎えの者と網代車が到着したと女房が知らせにきた。八条へ向かうに良しとされる時刻になり、大納言と親しんだ女房たちが見守る中、沙那は小梅と共に八条宮家の牛車に乗り込んだ。
華やかな慶事の装飾がなされた網代車が、八条宮家の従者や女房を従えて、二条の小路から都大路へ向かう。八条宮より同行を許された大納言邸の女房は、小梅一人だけだった。
灼熱の太陽にじりじりと焼かれた都大路が、陽炎に揺れる。百花の王と称賛される牡丹でさえ、しょんぼりと頭を垂れて萎れてしまうほど暑い。
じっとしていても、じんわりと額に浮かぶ小さな汗の粒。沙那は、ごとごとと揺れる牛車の中でそれを小梅に拭ってもらった。きれいに施された化粧が崩れないように、小梅が慎重に手巾でぽんぽんと沙那の肌を軽くはたく。
「ああ、早く八条院に着かないかしら。いつもはこんなに遠く感じないのに」
あまりの暑さに、つい弱音が口をついてしまう。無理もない。頭にはしゃらしゃらと豪華な飾りが垂れた重たい金の宝冠をつけて、五衣に唐衣、裳ときっちりとした正装をしているのだ。沙那の小柄な体は、絢爛な衣装の重さと真夏の暑さに悲鳴をあげていた。
「ここは……、東市の辺りでございましょうか。もうしばらくの辛抱でございますよ、姫様」
前御簾の脇から外を覗いた小梅が、にこやかに笑いながら沙那を励ます。小梅は沙那の乳母の娘で、二人は乳姉妹という間柄だ。年も一つしか違わないから、本当の姉妹のように育った。
「ねぇ、小梅。お化粧、崩れてない?」
「大丈夫ですよ」
「本当?」
「小梅は、姫様に嘘は言いません」
「うん、それは分かっているけれど……。宮様に、みっともない顔をお見せしたくないの」
「ご心配なさらなくても、今日の姫様はとてもお美しいですよ」
「そう……、かな」
小梅が身を乗り出すようにして、沙那のほつれた横髪を指先で整える。
日光の当たらない牛車の中でも艶めく沙那の髪は、まさに濡れ羽色の柳髪だ。白粉をはたかなくとも雪のように白い肌に、くりっとしたつぶらな二重の目。少し低い鼻筋と柔らかそうな紅くて小さな唇。
全体の雰囲気がかわいらしくて、成人の証である楕円の殿上眉を堂々と描いていても、沙那は十八歳という実年齢よりもちょっと年下に見える。それを本人が日頃から気にしているので、小梅はあえて美しいという言葉を選んだのだった。
「着いたようですわ」
八条院の門をくぐった牛車が、主寝殿南側の階に寄せられて御簾があげられた。先に小梅が牛車をおりて、沙那に手を差し出す。沙那は小梅ではなく、その背後に立つ人物を見て動きを止めた。
「宮様」
礼服の黒い束帯に身を包んで右手に象牙の笏を持つ八条宮の姿に、宮中で彼の透き影に心と感性を奪われたあの日を思い出す。
――わたし、本当に宮様の妻になるんだ……。
あんなに夢見て、今日を心待ちにしていたのに、どうしてかしら実感がない。
「どうぞ姫様、おりてくださいませ」
しびれを切らした小梅が、沙那に催促する。しかし、沙那は八条宮の姿に目を奪われて微動だにできなかった。
「姫様、八条宮様がお待ちでございますよ」
「う、うん。宮様の凛々しいお姿にこっ……、腰が抜けちゃって」
あはは、と恥ずかしさを誤魔化すように乾いた笑いを漏らす沙那。そんな沙那に、小梅を押しのけて八条宮が手をさしのべる。
「まったく。足をひねったり腰を抜かしたり、手のかかる姫君だな。ほら、早くおりて」
八条宮は沙那の手を引っ張って立たせると、腰を抜かした小柄な体を支えるように背と腰に手を回した。
「あ、ありがとうございます」
「先日のように担いでやりたいのは山々だが、悪いな。生憎、俺には正装した女性を抱きかかえる体力がない」
「今はそのお気持ちだけで充分です、宮様」
「今は?」
かの有名な物語に出てくる光る君は、降嫁なされた女三宮様を抱きかかえてお邸にお迎えになったそうな。ここは一つ、光る君のように颯爽とお姫様抱っこしてほしいのが本心だけれど、それはまぁ追々。とにかく今は、幸せ過ぎて地に足がつかない心地がする。
「宮様。わたしを八条院へ迎えてくださったこと、心から感謝しています」
「俺はただ、あなたとの約束を守っただけだよ」
「十四日もおまけしてくださいました」
「その前に、俺を待ち伏せしていただろう。俺は、百夜どころか一年近くあなたにつきまとわれたんだ。忘れたの?」
「あっ、そうでしたね」
はにかみながら八条宮を見上げて、沙那はかわいらしい唇から舌先をちょこっと出した。
ちりん、ちりん。
鈴の音が近づいてくる。沙那が八条宮の背後に目をやると、首に小さな鈴をつけた黒猫がすぐそこまで来ていた。
「宮様、あの猫は?」
沙那が尋ねると、八条宮は沙那から手を放して黒猫を腕に抱いた。
「あなたに怪我をさせた犯人だよ」
黒猫の小さな額をなでながら「俺の妻を迎えにきたの?」と猫に話しかける八条宮の表情に、沙那はどきっとして言葉を失う。まるで親しい、いや愛おしい者に接するような顔をしていたからだ。
――そういえば、特別な子だっておっしゃっていたわね。
八条宮が、沙那に近づいて猫を見せる。艶のある黒い毛並みに大きな金色の目。「みやぁ」と甘えるような声は、まぎれもなく足を痛める原因となった黒猫のものだ。
「名前はあるのですか?」
「ナギと呼んでいる」
沙那が八条宮の真似をして頭をなでると、ナギは「みやぁお」と気持ちよさそうに目を細めた。
「かわいい」
「大人しくて人懐こい子だから、嚙みついたり引っかいたりはしないと思うが、慣れるまでは用心しておいてくれ」
「はい、分かりました」
「では、こちらへ。女房たちがあなたを待っている」
広大な八条院の敷地はいくつかに区切られていて、沙那が八条宮に案内されたのは春の邸と呼ばれる所だった。八条院の中心である主寝殿のほかに、東の対屋と西の対屋、そして沙那が住む北の対屋と釣り殿がある。
廊下から一望できる庭には、春に花をつける木が造形的に植えられて、大きな池では錦鯉が優雅に水の中を泳ぎ回っていた。御座へ続く渡殿という廊下を進みながら、沙那は庭に淡い色の花が咲き乱れる春の風景を想像する。
「足元に気をつけて」
ナギを抱いた八条宮が、沙那に向かって手を差し出す。足元を見ると、うっかりつまずいてしまいそうな段差があった。八条宮の気遣いに、沙那の胸は一層幸福で満たされる。
――ほら、やっぱり宮様の心の中には、優しいお気持ちがたくさん詰まっているのよ。
うっすらと頬を染める沙那の手を引いて、八条宮が廂から御座に入る。
じりじりと鼓膜を焦がすような忙しいセミの声。熱い風が、沙那の頭に載った宝冠の垂れ飾りを揺らした。
❖◇❖
正一品の親王である八条宮の結婚は、そこいらの貴族のそれとはまったく異なる。三夜続けて妻の邸に通うこともないし、三日夜の餅を共に食すこともない。内裏に入内するのと同じように三献の儀を厳かに執り行ったのち、共寝して婚儀とす。
主寝殿の御座で二人が三献酌み交わした神酒は、先帝が直々に神々へ祈りを捧げてお寄越しになられたものらしい。
先帝は、譲位後に八条宮の生母である藤壺女御を連れて御所を出て、今は左京の小高い山に庵を結んでひっそりとお暮しになっている。
八条宮が先帝の庵を訪ねたのは、婚姻の申し入れからわずか三日後だった。八条宮が大納言家の姫を正妻にすると伝えると、先帝は帝とそっくりな優しい目元にしわを寄せて「大変よろしい」と穏やかに頷かれた。
長く近侍した沙那の父と先帝には若いころからの縁があり、二人の間には勤めや身分を超えた絆がある。先帝は帝位にあったころも今も、愚直で誠実な大納言に絶対の信頼を寄せておいでだ。
八条宮は、向かい合って座る沙那を見た。
乳臭いガキだという噂は、右大臣の息子に言われるずっと前から小耳に挟んでいた。しかし、噂があるばかりで、公達たちの恋の話に沙那が出てきたことは一度もなく、誰もその姿を知る者はいなかった。
噂とは恐ろしいもので、皆「乳臭いガキ」を敬遠して手を出さなかったのだろう。だから、初めて八条院の前で待ち伏せされた夜に、怪しい者ではない、二条の大納言の娘だと言われて正直驚いた。
「宮様、ナギは女の子ですか?」
沙那が、首に下げた鈴を鳴らしながらすり寄るナギを膝に乗せて黒い毛並みをなでている。ナギはすっかり沙那を気に入った様子で、なされるがまま「みゃぁ」と三日月のように目を細めて身を任せていた。
宮中で俺を見初めたのだと、沙那は言った。だが、大納言が宮中に娘を連れて来ていたとは知らなかった。
年頃の娘がいれば、普通はそれなりに匂わすものなのに……。大納言はなぜ、沙那を後生大事に隠すような真似をしていたのだろうか。
「宮様?」
ナギの鈴と沙那の宝冠の垂れ飾りの音が、風鈴のように涼しげな和音を奏でる。八条宮は、沙那のすぐ隣に座り直してナギをさらった。
「どうして雌だと思うの?」
「鈴の紐が赤いからです」
「ナギは雄だよ。体が真っ黒だから、目立つように赤を選んだんだ」
「そうでしたか」
沙那が、バツの悪そうな顔をする。
八条宮は、ナギを沙那の膝に戻して顔を覗き込んだ。額を隠すように眉の辺りで切りそろえられた前髪のせいで幼く見えるのは確かだが、乳臭くはないしガキでもない。いかにも朗らかな、かわいらしい顔立ちをしていると思う。
「沙那」
「はい、宮様」
「俺を宮様と呼ぶのは、やめないか?」
「でも、宮様は宮様ですよ」
「他人ならそうだが、あなたは俺の妻なのだから」
沙那は色白の頬をほんのりと染めて、騒ぐ心を落ち着かせるように、膝の上でくつろぐナギを指先でわしゃわしゃとくすぐった。
「では、なんとお呼びすればよろしいですか?」
「俺は、依言という名なんだ」
ええ、知っています!
とっくに存じあげております!
沙那の体中の細胞が、一斉に雄叫びのような大きい歓声をあげる。早速、「依言様」と鼻息荒く呼ぼうとする沙那を、ナギの「にゃぁ」という猫なで声がはばむ。八条宮の優しい表情がナギに向いて、沙那はせっかくの機会を逃してしまった。
「北の方様」
八条院の女房の一人が、そろそろと沙那に近づいて退出を促す。夜の支度をする時間になったようだ。
沙那は八条宮に向かって深々と一礼すると、女房に先導されて主寝殿から北の対屋へ向かった。北の対屋に仕えるのは、母親と同じ年頃の女房が五人と沙那より少し年上の若い女房が十人ほど。気前のいい者ばかりで、小梅もすぐに打ち解けた様子だ。
北の対屋に用意された祝いの膳を食べ終わると、ようやく重たい十二単から解放された。
初夜の支度は、婚礼のそれとは違って実にあっさりとしている。
水に浸した新しいさらしで体を隅々まで清めて、新調された真っ白な絹の夜着に着替える。その上に実家から着てきた婚礼用の蘇芳の袿を羽織って、お香を焚きながらきれいに髪を梳く。あとは女房たちが御帳台に寝具を用意して、背の君のお越しを待てばいい。
沙那は、少し緊張した面持ちで女房たちが御帳台に床をしつらえる様子を眺めた。
男女の交わりについては、初めて月の障りを迎えたときに一応は教わった。けれども、それについてはさらりと図で示された程度で、閨では逆らわず殿方に身を任せるべしと、心得に重点を置いた講義を受けたに過ぎない。
――逆らう気は毛頭ないけれど、ただ黙って寝床に転がっていればいいのかしら。
でもそれだと、人形みたいで嫌じゃないのかなぁ。かといって、なにをどうするかなんて詳しくは知らないし……。
沙那が初夜についてあれこれ考えを巡らせている間に、御帳台の準備を終えた女房たちが静々と北の対屋を出ていった。
――くうっ、緊張してきちゃった。
沙那は、心ここにあらずで菓子置きの盆に手を伸ばす。指先に触れた菓子を手探りで握って、それをかじって奥歯で噛みしめると、甘葛煎のほのかな甘さが口いっぱいに広がった。
ふと、半分かじった菓子を顔に近づけて凝視する。もちもちとした真っ白な外観に、中に包まれた餡の甘味。二口で食べられそうな大きさのそれは、まぎれもなく冬の銘菓、椿餅だ。
「ねぇ、小梅」
「いかがなさいました?」
「葉っぱに包まれてないだけで、これって椿餅よね?」
「椿餅? そんなはずは……。椿餅は椿の季節に作る菓子ですから、違うのではありませんか?」
「味が、確かに椿餅よ」
「まだ夏ですのに、不思議ですね。どなたが持ってこられたのでしょう?」
「八条院の女房の誰かが気を利かせてくれたのよ、きっと。甘いものって疲れを癒してくれるじゃない?」
「親切でございますね。あとで御礼を申しあげておきます」
「そうしておいて」
「姫様。これから初夜をお迎えになるのですから、食べ過ぎてはなりませんよ」
「分かっているわ。それにしてもこれ、餡子がとてもおいしい」
「それはようございましたね。緊張がほぐれますか?」
「う、うん。まぁね」
「では、そろそろ八条宮様をお迎えする準備をいたしましょうか」
食べかけの椿餅を頬張って、白湯で流し込む。それから一息ついたころ、小梅が水を張った漆塗りの角盥を持ってきた。両手を水に浸して顔を洗ったあと、最後に口をすすいで寝支度は完了だ。
「それでは姫様、八条宮様をお待ちくださいませ」
「おやすみ、小梅」
「姫様、くれぐれも粗相のないように。宮様がお越しになるまで、じっとなさっていてくださいね」
小梅が念を押して退出する。
昼間は通りの喧騒が聞こえていたが、夜ともなれば八条院は静寂に包まれる。しんとなにかが張り詰めたような空気に夏虫の鳴き音だけがこだまして、どこか息苦しさを感じるほどだ。思えば、八条宮の帰りを待っていた夜も、辺りには人影がなくてとっても静かだった。
妻戸が静かに開いて、燭台の明かりがじじっと鈍い音を立てて揺れる。そろそろと衣擦れの音がして、几帳の帷がさらりとなびいた。
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