おしかけ妻と宮様の愛猫

虹色すかい

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12.妻と想い人(三)

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 ❖◇❖


 主寝殿の女房が、八条宮に命じられて燭台に火を灯す。沙那は、主寝殿の前で八条宮と別れて一人で御座を進んだ。北の対屋から持ってきた手燭は持ったまま、半分ほどおろされた御簾をくぐり几帳を避けて、脇目もふらずに寝所を目指す。

 主寝殿の中には、いつも八条宮が空薫そらだきしている練香の匂いが漂っていた。山の頂上になびく霞のように、さりげなく、上品に、ふんわりと鼻の奥をくすぐるように。

 その香りは、寝所に近づくにつれて強くなった。麝香じゃこうが絶妙な加減で混ぜ合わせてあるようで、香りは強まっても不快感をもよおすような刺々しさも嫌味もない。うっとりと、心が落ち着くような香りだ。

 御座の一番奥にある妻戸を開けると、そこが八条院の主がいつも眠っている寝所である。無意識に沙那の顔がゆるんでしまうのは仕方がない。都にどれほど恋のお相手がいようとも、ここに入れるのは八条宮の正妻だけなのだから。

 寝所に入って、沙那は手燭の火を一番近くにある燭台に移す。すると、ぽっと部屋の一部が明るくなって、目の前に三方を屏風に囲まれた寝床が現れた。

 沙那は、ふぅと息を吹きかけて手燭の火を消すと、床より一段高く設えられた褥にあがって枕元の台にそれを置いた。


 ――依言様は、ここで毎日お休みになっていらっしゃるのね。


 初めて足を踏み入れた八条宮の寝所は、最小限の調度品しかない落ち着いた雰囲気の空間だった。上掛け用の袿と枕が一つ置かれている褥の隅に座って、大人しく八条宮を待つ。

 遠くから、朝鳥の高らかで清々しい鳴き声が聞こえた。もう夜明けが近い。


 ――よかった、帰ってきてくださって。


 ほっと安心する沙那を強い眠気が襲う。沙那が八条院の門の前で待ち伏せていたときも、八条宮が戻ってこない日は一日もなかった。しかし、今宵は心配で眠れなかった。


 ――う、浮気だけじゃなくて、途中で依言様になにかあったのではないかと思って。


 帰りが遅くなるときは、必ず知らせるように左近にお願いしておかなくちゃと、沙那は大きなあくびをする。安心したら急にまぶたが落ちてきた。


「沙那、待たせたね」


 寝所に入ってきた八条宮が、眠たそうに目をこする沙那の前に座って顔を覗き込む。そして、沙那を両腕でさらって横たわった。


「依言様、火を消さないと」

「大丈夫だよ。油が入っていないから、じきに消える」


 沙那は安堵の笑みを浮かべると、八条宮の胸に顔をうずめて目を閉じた。上質の絹で仕立てられた単衣を通して、八条宮の穏やかな心音が聞こえる。


 ――ずっと、こうしていられたらいいのに。


 吉日を占って初夜の日取りを決め直すと女房たちは話していたが、八条宮はどう考えているのだろうか。一緒に寝てと頼んだら寝てくれるのだから、初夜の続きをしましょうと言ってしまえばいいのかもしれない。

 しかし、食い意地を張った手前、どう話を切り出せばいいのだろう。それに、食い意地を張ったのどうのを抜きにしても、自分がそんなことを口にするような柄ではないことくらい、沙那は自覚している。


 ――無理、絶対に言えない。


 そこで沙那の意識はぷつりと途切れた。八条宮の手に優しく頭をなでられて、不思議な術をかけられたようにことりと眠りに落ちてしまったのだ。

 翌日は、寝起きから朝ごはん、そして身支度まで主寝殿の女房方が世話をしてくれた。八条宮は寝起きが弱いらしい。目が覚めてから起きあがるまでに一刻ほどを要したので、沙那はいつもきりっとしている彼の意外な一面を知ってほほえましい気分になった。

 そして、昼を過ぎたころ。
 八条宮が見せたいものがあると言うので、沙那は好奇心に目を輝かせて彼のあとを素直についていった。

 八条院の敷地は広大で、沙那が知っているのは北の対屋と主寝殿、それからその周辺のごく限られた生活圏だけである。

 一つ不思議だったのは、八条宮が「夏邸なつのやしきに行く」と告げたときの主寝殿の女房たちの反応だった。普段なら数人の女房が同行するはずなのに、ただ「はい」と返事をするだけで誰もついてこなかったからだ。

 八条宮と沙那は、穏やかな秋の日差しを浴びながら、主寝殿から階を降りて白砂の庭を東へ向かった。


「御所へ使いは出したのですか?」


 袿の裾が地面につかないように持ちあげて、八条宮の少し後ろを歩きながら沙那が尋ねる。


「出したよ。差し障りがないように、物忌みだと伝えてある」

「本当によろしいのですか? 嘘だと知られたら、お叱りを受けてしまうのではありませんか?」

「急遽、参内できなくなる殿上人の九割は物忌みらしいから、その辺は帝も心得ていらっしゃるのではないかな」

「つまり、帝がサボりを容認なさっていると?」

「そう言ってしまったら身も蓋もないが。まぁ、自由気ままな生活こそ貴族の仕事のようなものだからね。真面目に勤めている官吏などそういないよ。あなたの父君は別格だろうけど」

「ふふっ。父上が真面目に毎日参内なさるから、邸を抜け出す隙がありました。そうでなかったら、わたしは依言様を待ち伏せできなかったかもしれませんね」


 たわいもない会話をしながら、二人は小川に架かる朱塗りの橋を渡る。生け垣を境にして、向こうの一角が夏邸と呼ばれているらしい。庭の草木がきれいに剪定されているところを見ると、普段から細やかに手入れがされているようだ。

 春の邸には、春に花を咲かせる木花がそろえてある。夏邸というからには、夏に盛りを迎える木や花が植えられているに違いない。きっと、婚礼のころは美しい夏の大輪が庭を彩っていたのだろう。

 八条宮が、浅沓あさぐつを脱いで夏邸の階をあがる。沙那もそれに続いたが、蔀戸しとみどが閉められた邸から、人の侵入を拒むかのような威圧を感じて一瞬だけ足を止めた。

 同じ八条院とは思えないほど、ひんやりとした空気が漂っている。夏が終わって秋めいてきたとか、そういった季節の移ろいとは無関係の低い温度だ。


「依言様。ここは……」

 沙那が控え目な声で言うと、前を歩いていた八条宮が振り返った。御所に行くときとは違って、今日の八条宮は冠も載せていないし直衣も着ていない。

 烏帽子に単衣と指貫、それに袿を羽織って、一応の身だしなみを満たしただけのくつろいだ格好をしている。しかし、その表情はいつもより固いような気がして、沙那は小さく首をかしげた。


「いつの夜だったか。どうしても妻になりたいと言うあなたに、俺のことをなにも知らないのにいいのかと尋ねたが、覚えているだろうか」


 八条宮の声は、庭を歩きながらたわいもない会話をしていたときとは違って、水面に小波を立てながらさっと吹き抜けるそよ風のように静かだった。


「覚えていますよ。わたしは、これから知っていけばとお答えしたのですよね」

「そう。だから、あなたに知ってもらいたい」

「このお邸についてですか?」


 八条宮は問いかけには答えずに、沙那に背を向けて妻戸を開けた。ききぃと、新しい白木の香りに似合わない錆びた金属音がする。扉の向こうは、右も左も分からないほど漆黒の闇だった。

 八条宮が、妻戸を開け放って中に入る。そして、勝手知ったる様子で五つの燭台に明かりを灯した。

 沙那は、入り口から中の様子をうかがって敷居をまたぐ。局の中には几帳や文机があって、御簾の奥に御座が見える。閉め切ってある割に、やはり庭と同じように手入れが行き届いていて、誰かが住んでいるような気配を感じる部屋だ。

 沙那の胸が、どくんどくんと嫌にざわめく。几帳の帷子も御座の小道具も、色味に淡い暖色ばかりが使われている。ここにもし人が住んでいるとすれば、明らかに女性だろう。


 ――だから、女房たちはついてこなかったのだわ。


 沙那の心の裡で、わずかに緊張が高まる。


「沙那、座って」


 八条宮が、文机を目で指した。言われたとおりに文机の前に座って待っていると、八条宮が奥の棚から黒い漆塗りの文箱ふばこを持ってきて、静かにそれを文机に置いた。


「ここには、どなたかが住んでいらっしゃるのですか?」

「誰もいないよ」

「でも、この部屋はまるで……」

「主人がいるみたい?」

「ええ」

「誰も住んでいないが、ここには俺の妻になるはずだった添い臥の品を収めてある」


 さらりと言われた言葉を、沙那は瞬時に理解できなかった。衝撃が強くて、うまく鼓膜で噛み砕けなかったのだ。きょとんと目を丸くして真っ向から見つめる沙那に、八条宮は少しだけ表情をゆるめて話しを続ける。


「俺も昔、あなたと同じように人を好きになった。それを打ち明けようと思って、あなたをここへ連れてきたんだ」


 沙那は、じっと琥珀色の瞳を見て考え込む。

 聞きたくないと言えば、八条宮は無理に話そうとはしないだろう。そして、二度とこの話題に触れないだろうと沙那の直感が告げる。八条宮の心に想い人がいるのは、沙那にとってはとてもつらいことだ。しかし、つらい以上に大事な話ではないかとも思う。


 ――知りたい。だって、ほかの誰でもない、依言様のことだもの。


 沙那は、覚悟を決めて頷いた。


「誤解しないでほしいのだが、俺はあなたの気持ちを分かっている。だから、あなたを傷つけたくてこのような話しをするのではないよ。あなたがいつも俺に正直であるように、俺もあなたに対してそうあろうと思ったんだ。永くを共に過ごすのだから」

「誤解なんてしていません。依言様は無情冷酷な御方ではないと、よく存じあげています。それに、依言様がわたしと向き合ってくださるのはとても嬉しいのです。ただ内容が内容なだけに、ちょっとというか、だいぶ驚いてしまって」

「あなたが驚くのは当然だ」

「でも、どうして急にこのようなお話しを?」

「初夜での一件と関係があるから」

「わ……。わたしが食い意地を張ったばっかりに、お恥ずかしい限りで」

「あれはただの食あたりではないし、あなたはなにも悪くない。あなたのことだから、そうやってずっと気に病んでいたのだろう?」


 うん、と沙那は小さく頷く。それから視線をまた八条宮に戻すと、柔らかい微笑が返ってきた。


「玄幽を責めないでやってくれ。玄幽は嘘をついたのではなく、あなたと俺を気遣って食あたりだと言ったのだから」

「では、わたしはなんの病だったのですか?」

「それは、これから順を追って話す。少し長くなってしまうが、いいかな」

「分かりました。でも……、あの、一つだけ先に教えてください。添い臥の方は、今どちらにいらっしゃるのです?」

「どこにもいない。五年前、俺が元服した日の夜に宮中で死んでしまったから」

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