おしかけ妻と宮様の愛猫

虹色すかい

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11.妻と想い人(二)

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 さっと庭から吹き抜ける風が、秋の気配を運んでくる。その夜、沙那は夜半過ぎまで起きて八条宮を待っていたが、いつまでたっても帰ってこない。

「亥一刻を知らせる太鼓が聞こえましたね。姫様、先にお休みなってはいかがですか?」

「あと少しだけ待ってみる」

「夜ふかしは体に悪いですよ。八条宮様がお帰りになったらお知らせしますから、せめて横になってくださいませ」


 初夜の一件から、小梅は沙那を今まで以上に気遣うようになった。沙那は小梅に余計な気苦労をさせなくなくて、素直に御帳台に敷かれた寝具に横たわる。

 そのころ八条宮はというと、右大臣家を訪れていた。

 四姫が体の始末をしている間に単衣と指貫を身に着け、脱ぎ捨ててあった袿を拝借して廊下に出る。簀子縁に座って庭を眺めていると、単衣姿の四姫が局から出て来て八条宮の隣に腰をおろした。

 八条宮は、自分から声をかけることはしない。沈黙に居心地が悪くなったのか、四姫が八条宮の胸に体をあずけるように寄りかかってすすり泣きを始めた。

 見るのは二度目だが、やはり月を映す右大臣邸の池は明媚で、圧巻の一言につきる。大きさも畔の曲線も、魚の泳ぎ方までなにもかもが完璧だ。

 沙那は順調に快方へ向かっている。喉の傷も少し痕が残っているだけで、もう少し日がたてば目立たなくなるそうだ。


 ――どのようにして、菓子の返礼をしようか。


 初夜からそればかりを考えている。夏姫のことと今回の件が関係しているのか、それは憶測の域を出ない。玄幽に言われたとおり、蒸し返さないほうがよいと分かっている。しかし、沙那が危険な目に遭った。黙っているわけにはいかないだろう。

 参内したついでに、杜若の漆箱を証拠に弘徽殿へ乗り込んでやろうかとも思った。しかし、すぐに考え直した。もし帝が椿餅をご存じないとしたら、弘徽殿女御はいくらでも自分に都合のいい状況を作り出せるからだ。

 あの漆箱がなければ、女御を問い詰めることができない。しかし、恋歌に使われる杜若をあしらった漆箱を、あたかもこちらから女御に贈ったように言われでもしたら一大事だ。

 私欲を満たすためなら手段を選ばない女だと知っているから、八条宮は弘徽殿女御を警戒し慎重になる。

 ぴちょんと池の水面が弾けた。秋めいてくると、夜半よわの月明かりはその色味を一段濃くする。池の魚が跳ねれば、夜の暗がりよりも黒い波紋が水面に広がった。


 ――どうしたものか。


 池を持って帰るわけにはいかないから、これを参考に八条院の池を少し手直ししてはどうだろうか。

 八条宮は、頭上に八条院の景観を思い浮かべると、ふむと頷いて表情をやわらげる。なぜ八条宮が四姫そっちのけで池について考えているのかというと、沙那がよく八条院の池を眺めているからだ。沙那いわく、主寝殿の廊下から一望する庭は、八条院で一番お気に入りの景色なのだとか。


 ――なら、ずっと主寝殿にいて気の済むまで眺めればいいのものを。


 婚礼から一カ月。八条宮は、あまり主寝殿に顔を出さない沙那が気になって仕方がなかった。一日中局にこもってなにをしているのだろうと気になって北の対屋へ行くと、沙那はいつも女房たちと話をしたり縫い物をしたりしている。

 皆してとても楽しそうにしているので、声をかけようにもかけづらくて、結局、北の対屋の妻戸から沙那の姿を覗き見るだけの毎日だった。

 沙那は、手先を使う作業が得意なのだろう。衣のほつれをきれいに直してもらったと、玄幽が大喜びしていた。

 それから、渾身の力作「ミヤサマ」なる両手に乗るくらいの綿入り人形を見せられたのだが、刺繍された目鼻立ちはうるわしく、ちゃんとミヤサマの身丈に合わせた上品な色目の直衣を着せてあり、大変よい出来だった。

 ナギがそれを口に咥えて引きずり回した挙句に踏んだり蹴ったりしたので、八条宮が仕置きに餌を二食抜いてやったのが四、五日前の話だ。

 沙那が主寝殿を訪ねてくるのは、日が落ちて辺りが暗くなってから。それも、ただ簀子縁の端に座って、高欄から身を乗り出すようにして庭や池を眺望するだけで、主寝殿の中には入ってこない。そして、女房たちが夕餉の支度をすると北の対屋に帰ってしまう。

 八条宮が沙那と言葉を交わすのは、そのごくわずかな時間だけだった。もっとこう、積極的に懐いてくると思い込んでいただけに、肩透かしを食らって拍子抜けしてしまった。


 ――もしかして、俺は沙那に避けられているのか?


 女房たちによれば、月の障りと物忌みが続いているからだというが、八条宮は実のところ内心でひやひやしている。


 ――ほら、よくいうだろう?


 手に入れたら満足して気持ちが冷めてしまう、と。同じ年頃の公達が言っていたのを何度も聞いた。


 ――いや、待て。


 八条宮は無意識に顔をしかめる。俺はなぜ、沙那に相手にされない我が身を嘆いているのだろう。なぜ、沙那に避けられているのかもしれないと、おびえているのだろう。

 四六時中、煩わしくまとわりつかれるよりよいではないか。八条宮がさらに眉間のしわを深くしたとき、胸元から一際大きなすすり泣きが聞こえた。


「八条宮様、お願い。帰らないで……っ」


 胸にしどけなく寄りかかった四姫が、声を震わす。八条宮の肩には女物の袿が掛かっていて、単衣姿の男女が身を寄せ合っている姿は、遠目に見れば別れを惜しむ恋人同士そのものだ。

 四姫の両目からこぼれた涙が、八条宮の単衣に吸われて染みを作る。しかし、結婚したことに対してうんざりするほど四姫の恨み言を聞いたあとだったので、八条宮は慰めの言葉をかける気も起きず、ただじっと簀子縁から池の揺らめきを見ていた。

 もうすぐ、宮中で菊見の宴がある。殿上を許される従五位より上位にある臣を帝がお召しになって、大殿で盛大に催される華やかな宴だ。

 四姫は、菊見の宴に近し吉日に尚侍として内裏にあがるという。間もなく帝より宣旨と従三位の位を賜るのだと、例の雅男が声高々に宿直所で話していた。


「四姫。今宵は、あなたの泣き顔を見るために来たのではないよ」

「だって、つらいのですもの。八条宮様をお見送りするのが。もっと一緒にいたいのに……。どうして、結婚なさったの? お相手はどのような方ですの?」


 細い指で上品に涙を拭って、四姫がゆっくりと顔をあげる。


「せっかくの逢瀬に、無粋な話はしたくない」


 八条宮は、ゆるく結ばれた四姫の腰紐を解きながら、華奢な体を簀子縁に押し倒した。八条宮の肩に掛けてあった四姫の袿が、月から隠すように二人の体を覆う。

 体を交えたあとは、面倒な言葉や手間は必要ない。恨み言を吐いても、涙を流しても、こうして組み敷けばすぐに機嫌がよくなって素直になる。


「出仕するそうだね」

「はい、でも……。実のところ、あまり気乗りがいたしませんの」

「なぜ? 帝に近侍するは名誉だろう」

「そうですけれど、宮中ではこうして八条宮様とお会いできないでしょう?」


 四姫が、悲しげに眉尻をさげる。八条宮は、一体何人の男に同じ科白を言ったのやらと嫌悪を含んだ冷めた感情を抱きながらも、それをおくびにも出さず四姫の頬をなでた。


「そう言わないで。朝になったら、あなたに贈り物を届けてあげるから」

「本当ですの? なにをくださるのです?」


 四姫は、今まで八条宮から文すらもらったことがない。逢瀬のあと普通はいただくであろう後朝きぬぎぬの歌も、思いを込めて六条院へ送った文の返事だって一度ももらえなかった。

 だから贈り物という響きが余計、魅力的に彼女の心をくすぐったのだろう。ぱっと火がともるように明るくなった美貌が、四姫の溢れんばかりの喜びを物語っている。


「尚侍になる祝いに、杜若を描いた朱の漆箱を」

「まぁ、嬉しい! 八条宮様から御心のこもった品をいただくなんて夢のよう」

「宮中で、あなたの身近に置いて大切に使ってくれたら本望だ」


 八条宮が、柔らかな太腿を持ちあげて体を両脚の間に滑り込ませると、四姫の眉根が寄って朱唇から切なげな吐息が漏れた。


「……んっ」


「必ず、必ず目につく所に置いてくれ」

「お約束いたしますわ。八条宮様からのお祝いですもの。いつも手の届くところに置いて大切にいたします」


 八条宮の脳裏を、沙那の寝顔がかすめる。どれほど時がたったのか。池にばかり目をやってうっかりしていたが、空を見れば月が西の空に落ちかけている。


「八条宮様?」

「もう夜が終わってしまうね」

「まだ、よろしいのではなくて?」

「いや」


 体を起こして、八条宮は四姫に背を向ける。


「また逢いにきてくださいますでしょう?」


 四姫が、八条宮に手を伸ばす。ほっそりとした四姫の腕は、まるで大樹に寄生する蔦のように八条宮の胴にまとわりついた。

 それをあっさり解いて局に戻り、衣服を整える。そして八条宮は、再びすすり泣き始めた四姫を振り返りもせず、足早に右大臣邸をあとにした。

 都の大路をくだって小路を進み、八条院に帰り着くと邸は真っ暗だった。以前は女房たちが燈籠に火を灯しておいてくれたのだが、沙那が住むようになってからは就寝の刻に邸中の火が消されるようになった。

 少し前に沙那に理由を聞いたら、人手が薄くなる夜に火があると火事になりそうで怖いと答えが返ってきた。

 月明かりを頼りに主寝殿へ向かう。途中、北の対屋の前にさしかかって、八条宮は無意識に足音を消そうと努めている自分に気づいて驚いた。

 正妻を迎えたからといって、戯れの恋を愉しむのは特段悪いことではない。貴族の妻なら当然、見て見ぬふりをしてうまくやり過ごすものだろう。しかし、なぜ俺は盗人のようにこそこそとしているのか。まいったな、と八条宮が頭をかいたそのときだった。


「……ま、……か、……すね」


 背後から、ひたひたと足音がして奇妙な女の声が聞こえる。あまり目に見えない存在ものは信じない性質たちなのだが、なぜか今夜は背筋がぞくぞくして胸騒ぎがする。

 いや、婚礼後しばらく邸で自適な生活をしていたから、久しぶりの外出に疲れているだけだ。きっと空耳だろうと、歩みを止めて振り返る。すると、暗がりに白い女の顔がゆらゆらと陽炎のように浮かんでいるではないか。


「ひっ」


 思わず、八条宮の口から似つかわしくない素っ頓狂な声が出る。

 刻は丑三刻。物の怪が徘徊する絶好の時間だ。背筋が凍りつき、恐怖のあまり足がすくんで動けずにいると、女が目を細めてけたけたと笑いながら近づいてきた。ついに八条宮は腰を抜かして、尻もちをつくようにその場にへなへなと座り込んでしまった。


「依言様」

「……は?」

「どうしたのですか? そんなに怖い顔をして」

「……なに? さ、沙那?」

「はい、わたしです」


 単衣に明るい色目の袿を羽織った沙那が、八条宮の傍に正座して持っていた手燭を床板の上に置く。

 心臓が、ばくばくと別の生き物のように肋骨の内側で暴れて、今にも口から飛び出そうだ。顔の下に手燭の明かりをかざしていたから、暗闇に顔が浮いているように見えたのだろう。本人に悪気はないはずだから、無礼者と一喝する気も起きない。


「お、驚いた」

「ごめんなさい。まさか、腰を抜かすとは思わなくて」

「あ、いや、考え事をしていて、あなたの気配に気がつかなかった。先程は、なんと言ったの?」

「今お帰りですか? 遅かったですねって」

「……あぁ、そう。少し、用が……、あってね」

「そうでしたか」


 ようやく冷静を取り戻した八条宮が、ふぅっと大きく深呼吸する。ちらりと見ると、沙那が「おかえりなさい」と笑顔を返した。


「もしかして、寝ずに待っていたの?」

「はい、眠れなくって」

「そう。それは俺のせいで?」


 こくり、と沙那が頷く。


「悪かったね」

「本当に悪いと思っていらっしゃいます?」

「もちろん、思っているよ」


 笑顔から一転、沙那の目が細くなって「信じられない」と表情が訴える。秋空のように、ころころと色を変える顔がなんだか面白い。

 本当に思っていると念を押すと、疑いは晴れたようで、うわぐすりを塗ったように艶のある瞳がじっと見返してきた。


「では、依言様」

「なに?」

「罪滅ぼしをしてくださいませ」

「罪滅ぼしだと?」

「はい。一緒に……、わたしと一緒に寝てくださいませんか?」


 夜着の袖を手繰り寄せて、たもとを両手の指でもじもじと揉みながら沙那がはにかむ。

 沙那は好意を隠さないが、こういうことにはとても奥手だと八条宮は知っている。だから、勇気をふり絞っているのが分かって、八条宮までつられて気恥ずかしくなってしまった。

 八条宮は、返事をする前に直衣の胸元をつまんで匂いを嗅ぐ。衣には、四姫が焚いていた黄熟香の香りが染みついていた。


「あ……、やっぱり一人で寝ます。久しぶりに参内なさって、お疲れですよね」


 八条宮の沈黙を拒絶と受け取ったのか、沙那は落ち込んだようにうなだれて顔を伏せた。沙那が悲しい顔をすると、どうしてこうも心地が悪いのだろう。八条宮は、床に置かれた燭台を手に取って沙那に「持て」と手渡す。


「湯殿で着替えてくるから、俺の寝所で待っていて」

「依言様の寝所ですか?」

「北の対屋では、すぐにあなたを女房たちに取られてしまうから。明日は、俺と一緒にいてくれないか?」

「御所に行かなくてもよろしいのですか?」

「俺は官職に就いてないから、一日くらい怠けても帝は目をつむってくださる。着替えながら、物忌み、方塞がり、仮病、もっともらしい理由を考えておくよ」


 沙那の瞳が、嬉しいと言わんばかりにきらきらと輝く。八条宮は、立ちあがって夜空に目を向けた。月も星もきれいに輝いて、雲一つ見当たらない。明日も天候に恵まれたなら、沙那に夏のことを話そう。


 ――純粋な気持ちで俺を好いてくれている沙那に、全てを。

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