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10.妻と想い人(一)
しおりを挟むまどろみながら、ごろんと体を右へ反転させる。そして、二、三度寝ぼけ眼をぱちくりさせて、沙那は驚きに目を大きくぱっちり見開いた。すぐそこに、八条宮が横たわってこちらをじっと見ていたからだ。しかも、目の高さが同じでまつげの一本一本がはっきりと見えるほど距離が近い。
「おはよう、沙那」
「お、はようございます」
低音が耳の奥をくすぐって、長い指が横髪をさらりとすくう。
――なんなの、この幸せ過ぎる目覚めは!
寝起きから心臓が壊れちゃいそう。みるみるうちに沙那の頬が紅潮する。
「体の具合はどう?」
「具合ですか? ええっと……」
沙那は、天井に目を向けて記憶を呼び起こす。
昨夜は依言様との初夜だった。極度の緊張と依言様から発せられる強烈な色気に耐えながら、あれしてこれして発育不良の胸を思いっきり見られた……。ところまでしか記憶がない。息が苦しくなって、それからどうしたのかしら。
――ひっ。やだ、もしかして……。
顔面から血の気が引くのを感じながら、沙那は体にかけられた蘇芳の袿をそっと持ちあげて自分の下半身を確かめた。
床入りの前に着用した真新しい絹の単衣をまとった体には、乱れも違和感もない。初めてのときは、あの場所が痛むものだと聞いていたのに、清々しいほどなにもない。
――ということは、わたしはまだ乙女?
幸せな目覚めから一転。妻になれなかったと悟った沙那は、絶望に打ちひしがれる。
――依言様、体の具合はすこぶる良好です。
沙那は、泣きたい気持ちをどうにかこらえて八条宮に目で訴えた。
「どこか悪いのか?」
青ざめた沙那を心配した八条宮が、体を起こして小梅を近くに呼ぶ。そして、急いで玄幽を連れてくるよう申しつけて、昨夜と同じように沙那を抱き起して胸に収めた。
――きゅん。
沙那は、左胸をおさえる。ちゃんと夫婦になれなかったのに、とても丁重に扱われている。こんな包容力を見せつけられたら、ますます好きになってしまう。
沙那の熱を帯びた視線に気づいた八条宮が、不安げな顔をした。
「胸が痛むの?」
「……はい」
「やはり、まだ油断ならないな。少し待て、すぐに薬師が来るから」
「薬師? あ、いえ。これは、薬では治らない気がします」
「なぜ、そう思うの?」
八条宮があまりにも神妙な顔をして見つめてくるものだから、さすがの沙那も「ときめきが」などとは言えず、肩をすくめてごにょごにょと口ごもるしかない。
「どうした?」
八条宮が怪訝な顔をしたところで、白髪の爺がそろりそりろりと部屋に入ってきた。
「早かったな、玄幽」
「こちらへ向かっておったら、左近が迎えにきたのでの」
驚く沙那に、あの御仁は類なき名医だとだけ説明して、八条宮が玄幽に早く診てくれと催促する。玄幽はやれやれと苦笑いして、八条宮に抱かれた沙那の体を丁寧に診察した。
「ふむ、よいよい。薬を煎じるゆえ、それを飲んで明日まで大人しく寝ておりなされ。どうせ、立つ力はないはずじゃ」
「胸が痛むと言っているのだぞ、本当に」
「宮様は、儂の腕を信頼して呼んだのであろう?」
「そうだが……」
「したらば、全て任せるがよろしい」
玄幽が、すすけた山吹色の狩衣から出た枯れ枝のような細い腕をせわしく動かす。木箱から練り薬を取り出したかと思えばそれを沙那の首の傷に塗り、次に乾燥した草と粉を出してすり鉢でごりごりと擦る。見た目は呆けた老人なのに、手際のよさには目を見張るものがある。
「あの、依言様」
沙那が、視線を玄幽から八条宮の顔へと移す。なに? と言うように八条宮の片眉があがった。
「わたしは、病なのですか?」
「病というか」
八条宮が答えに詰まると、玄幽が薬草を擦りながら「これ、北の方」と回答を請け負った。
「ただの食あたりじゃ。夜に食い意地を張るから、かような目に遭う」
「しょ、食あたりですって?!」
「しかし、なかなか美味じゃったの。あの餅は」
沙那は、顔を真っ赤にした。
――食あたりで妻の務めを果たせなかったなんて、末代までの恥だわ。
しばらくして、玄幽が擦った薬草を湯に溶いて沙那に手渡した。杯の中の湯は少し黄色味がかっていて、湯気からほのかに柑橘が香る。沙那は、ふぅっと息を吹きかけながら、苦い薬湯を少しずつ口に流し込んだ。
沙那が薬湯を飲み干すのを待って、玄幽が八条宮に大事な話があると切り出す。沙那を褥に寝かせると、八条宮は玄幽とともに部屋を出ていった。
「みゃあ」
ナギが、沙那の頬に顔をすり寄せる。玄幽が薬湯に眠り薬を混ぜていたのと、ナギの毛並みが気持ちよくて、沙那はうとうとと眠りに落ちた。
八条宮と玄幽は、主寝殿の御座で向かい合った。
「大事な話とは?」
「今後、北の方が口になさるものには、気をつけた方がいいかもしれませぬな」
開口一番、玄幽が神妙な面持ちで苦言を呈す。
「どういうことだ」
「あの菓子には、毒が入っておった」
毒と聞いて、八条宮の顔が険しくなる。しかし、取り乱す様子はなかったので、玄幽は話を続けた。
「ごく少量であったのか、たいして効いておらぬようだが、あれは一位の毒じゃ」
「一位とは、生け垣の一位か?」
「さよう。一位の熟した実は甘く無害じゃが、種や葉に毒があっての。食えば体が震えて呼吸が苦しくなる。口にしてから効果が出るまで時間はかからず、量を間違えば死にいたる猛毒じゃ。菓子に混ざっておったのは、種か葉か……。さりとて、葉は味が菓子になじまぬし、種は砕かねば毒が効かぬ。種を粉にして意図的に混ぜたと考えるが自然であろう」
「憶測だけで滅多なことを口にするなよ、玄幽。なぜ、あの餅に一位が混ざっていると分かった?」
「持ち帰った菓子を食うたからじゃ。うまかったが、手がしびれて息が切れた」
ほほほ、と笑う玄幽に八条宮が呆れたように笑い返す。
「沙那は、本当に大丈夫なのだろうな?」
「心配いらぬ。先程も申しあげたが、一位の毒にしては効果が薄い。あの菓子は、八条院で用意なさったのか?」
「まさか。ここには、季節はずれの菓子を変人も、主人を害する不届き者もいない。あれは、内裏からの祝いだ」
「ほぉ、帝から賜った菓子であったか。どうりで美味なはずじゃ」
「主上がご存じかどうか定かではないが、弘徽殿から届けられたのは確かなようだ」
「弘徽殿とは、右大臣の一姫じゃな」
玄幽の目が一瞬細くなる。八条宮の元服より遡ること半年前、帝は東宮に立ち右大臣家の一姫を妃に迎えた。
式部卿宮の姫の遺体が荷車に乗せられ筵をかぶせられたとき、騒然とする淑景舎の廊下で東宮妃がさめざめと泣いていたのを玄幽ははっきりと覚えている。
あとから聞いた話では、東宮妃と式部卿宮の姫は従姉妹で、幼いころから親交があったそうだ。だからその死に胸を痛めて、あのように人目もはばからず取り乱していたのだと典薬寮の者が言っていた。
「なぁ、玄幽。俺は沙那の喉を見て、五年前のことを思い出した。夏も、同じような目に遭ったのではないのか?」
「今となっては、真相は分らぬ。あの状況では、病死としか言えなかったからの」
「……そうか」
「無念も悲しみもよう分かる。しかし、あの件を蒸し返すのはやめなされ。宮様にとってよいことは一つもない」
「夏は命を奪われただけではなく、親王の門出を穢した罪人として処されたのだぞ。式部卿宮家も宮号を剥奪されて、今や見る影もないではないか」
「夏姫の一件は、既に先帝が処された。真相を暴こうとして証拠の一つもつかめなかったとき、宮様の御身がどうなるか。執念に駆られた正義は、一位の毒より恐ろしい争いの火種じゃ」
それから毎日、玄幽は朝早くに八条院にやってきて沙那に治療を施した。玄幽の的確で丁寧な治療の甲斐あって、沙那はすっかり元気になり、喉の傷も十日後には赤みが引いて目立たなくなった。
さて、今度こそ名実ともに妻になる! と意気込む沙那であったが、傷が癒えると今度は月の障りに見舞われた挙句、物忌みなどが続いてしまった。月の障りも物忌みも、穢れや災いといわれる厄事だ。
北の対屋に籠って、忌み事が去るのをひたすら待つ。
手持ち無沙汰な一日の長いこと、長いこと。
絵巻物を眺めたり書物を読んだりしても、そればかりでは飽きるし時間の流れがやけに遅く感じる。
そこで沙那は、女房たちの輪に入って、明日の暮らしにはなんの役にも立たない世間話などをしながら縫い物を習った。今まで嗜みとして刺繍などはしていたが、じっと座っているのが苦手でなかなか上達しなかったのだ。
しかし、本格的にやってみると案外、性に合っているらしい。そして、女房たちが盛大にほめてくれるお陰で、沙那の裁縫技術は格段に向上した。
その成果として作った、八条宮を模した綿入りの人形「ミヤサマ」は、十三の縫い方の技法を駆使した力作だ。それから、治療の御礼にと玄幽のほつれた衣服を手直ししたら、信じられないくらい大喜びされて、沙那はますます裁縫にのめり込んだ。
そして、婚礼から一月後――。
「では、行ってくる」
参内するために正装に身を包んだ八条宮を見送って、沙那はがっくりと肩を落とす。
――なんてことなの。
結局、夫婦の契りを交わせないまま八条宮の休暇が終わってしまった。これでは、浮気されたって泣き言も文句の一つも言えやしない。八条院の外には、八条宮のにわかファンたちがうじゃうじゃ犇めいているというのに。
――くっ……。憎し、椿餅っ!(とってもおいしかったけど)
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