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第2章
夏色のパレット
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屋上への階段は、思っていたよりも狭く、暗かった。
陽は、コンクリートの壁に囲まれたその空間を、秋穂の少し後ろを歩きながら上っていく。古い校舎特有の湿った匂いと、外へ近づくにつれて混ざり始める風の気配。足音が反響するたびに、胸の奥が落ち着かなくなる。
「ね、秘密基地みたいでしょ」
振り返った秋穂が、いたずらっぽく笑った。
重たい扉を押し開けた瞬間、視界が一気にひらける。
空だった。
遮るもののない、どこまでも続く青。低いフェンスの向こうで、雲がゆっくりと流れている。陽は思わず息を呑んだ。こんな場所が、学校の中に隠れていたなんて知らなかった。
「ここ、ほとんど誰も来ないの」
「先生も立ち入り禁止って言ってるけど、鍵が壊れててさ」
悪びれる様子もなく言う彼女の足元には、すでにいくつもの絵の具缶と大きなキャンバスが並べられていた。
「これ全部……?」
「うん。壮大でしょ」
秋穂は、胸を張る。
計画と呼ぶには、あまりにも無謀だった。見つかれば怒られることは間違いないし、完成までにどれだけの時間がかかるのかも分からない。
それでも、陽の視線は自然とキャンバスに引き寄せられていた。
白一色の空間。まだ何も描かれていない余白。
「ここに、色を置いていくんだよ」
秋穂はそう言って、筆を一本、陽に差し出した。
その指先には、かすかに絵の具の跡が残っている。赤と青が混ざった、紫色。
「……僕、上手くないよ」
正直な言葉だった。絵なんて、小学校の写生大会以来、まともに描いた記憶がない。
「いいの」
「上手い下手じゃないから」
秋穂は、さらりと言った。
「色を置くって、それだけで意味があるんだよ」
その言葉の意味を、陽はまだ理解できなかった。ただ、断る理由も見つからないまま、筆を受け取る。
絵の具皿に青を出し、そっとキャンバスに触れさせる。
かすれた音を立てて、一本の線が引かれた。
白の中に、青が現れる。
それだけなのに、胸の奥が微かに震えた。
「あ」
思わず声が漏れる。
「でしょ」
秋穂は、満足そうに笑った。
それからの日々は、不思議な速さで過ぎていった。
放課後、ふたりは屋上に集まった。陽は家に直行するふりをして、秋穂は部活帰りを装って。誰にも見つからないように、少しだけ時間をずらして。
空の色は、日によって違った。
澄み切った青。夕焼けに溶ける橙。曇天の重たい灰色。
秋穂は、その日の空を見て、使う色を決めた。
「今日はさ、ちょっとだけ暗めがいい」
そう言って紺色を混ぜたり、
「今日は、思いきり夏にしよ」
と言って、まぶしいほどの水色を広げたりした。
陽は、彼女の選ぶ色を横で見ながら、不思議な感覚に包まれていた。
色って、こんなにも感情と近いものだったのか。
筆を動かすたび、頭の中の雑音が消えていく。誰かの視線を気にすることも、余計な言葉を考える必要もない。
ここでは、色を置くだけでよかった。
「ねえ、陽くん」
ある日、夕方の風が少し冷たくなった頃、秋穂が唐突に言った。
「もし、明日さ。世界から色が消えたら、どうする?」
冗談みたいな口調だった。笑っている。でも、その横顔は、どこか遠くを見ている。
「……分からないよ」
正直に答えた。
「きっと、何も見えなくなる」
秋穂は、ふうん、と小さく息を吐く。
「じゃあさ」
彼女は、キャンバスから目を離さずに言った。
「そのときは、陽くんが私の目になってよ」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
どうして、そんなことを言うのか。その理由を聞くのが、怖かった。
気づけば、言葉が先に零れていた。
「……僕が、君の目になる」
自分でも驚くほど、まっすぐな声だった。
秋穂は、一瞬だけ動きを止め、それから、いつもより静かに微笑んだ。
「ありがとう」
その声は、風にさらわれそうなほど小さかった。
陽は、その笑顔が、少しだけ泣きそうに見えたことに気づかなかったふりをした。
屋上のキャンバスは、少しずつ埋まっていく。
白は減り、色は増え、境界線は曖昧になっていった。
それは、ふたりの距離が縮まっていく過程と、どこか似ていた。
そして陽はまだ知らない。
この時間が、静かにカウントダウンを始めていることを。
夏の青が、いつか終わりの色へと変わることを。
陽は、コンクリートの壁に囲まれたその空間を、秋穂の少し後ろを歩きながら上っていく。古い校舎特有の湿った匂いと、外へ近づくにつれて混ざり始める風の気配。足音が反響するたびに、胸の奥が落ち着かなくなる。
「ね、秘密基地みたいでしょ」
振り返った秋穂が、いたずらっぽく笑った。
重たい扉を押し開けた瞬間、視界が一気にひらける。
空だった。
遮るもののない、どこまでも続く青。低いフェンスの向こうで、雲がゆっくりと流れている。陽は思わず息を呑んだ。こんな場所が、学校の中に隠れていたなんて知らなかった。
「ここ、ほとんど誰も来ないの」
「先生も立ち入り禁止って言ってるけど、鍵が壊れててさ」
悪びれる様子もなく言う彼女の足元には、すでにいくつもの絵の具缶と大きなキャンバスが並べられていた。
「これ全部……?」
「うん。壮大でしょ」
秋穂は、胸を張る。
計画と呼ぶには、あまりにも無謀だった。見つかれば怒られることは間違いないし、完成までにどれだけの時間がかかるのかも分からない。
それでも、陽の視線は自然とキャンバスに引き寄せられていた。
白一色の空間。まだ何も描かれていない余白。
「ここに、色を置いていくんだよ」
秋穂はそう言って、筆を一本、陽に差し出した。
その指先には、かすかに絵の具の跡が残っている。赤と青が混ざった、紫色。
「……僕、上手くないよ」
正直な言葉だった。絵なんて、小学校の写生大会以来、まともに描いた記憶がない。
「いいの」
「上手い下手じゃないから」
秋穂は、さらりと言った。
「色を置くって、それだけで意味があるんだよ」
その言葉の意味を、陽はまだ理解できなかった。ただ、断る理由も見つからないまま、筆を受け取る。
絵の具皿に青を出し、そっとキャンバスに触れさせる。
かすれた音を立てて、一本の線が引かれた。
白の中に、青が現れる。
それだけなのに、胸の奥が微かに震えた。
「あ」
思わず声が漏れる。
「でしょ」
秋穂は、満足そうに笑った。
それからの日々は、不思議な速さで過ぎていった。
放課後、ふたりは屋上に集まった。陽は家に直行するふりをして、秋穂は部活帰りを装って。誰にも見つからないように、少しだけ時間をずらして。
空の色は、日によって違った。
澄み切った青。夕焼けに溶ける橙。曇天の重たい灰色。
秋穂は、その日の空を見て、使う色を決めた。
「今日はさ、ちょっとだけ暗めがいい」
そう言って紺色を混ぜたり、
「今日は、思いきり夏にしよ」
と言って、まぶしいほどの水色を広げたりした。
陽は、彼女の選ぶ色を横で見ながら、不思議な感覚に包まれていた。
色って、こんなにも感情と近いものだったのか。
筆を動かすたび、頭の中の雑音が消えていく。誰かの視線を気にすることも、余計な言葉を考える必要もない。
ここでは、色を置くだけでよかった。
「ねえ、陽くん」
ある日、夕方の風が少し冷たくなった頃、秋穂が唐突に言った。
「もし、明日さ。世界から色が消えたら、どうする?」
冗談みたいな口調だった。笑っている。でも、その横顔は、どこか遠くを見ている。
「……分からないよ」
正直に答えた。
「きっと、何も見えなくなる」
秋穂は、ふうん、と小さく息を吐く。
「じゃあさ」
彼女は、キャンバスから目を離さずに言った。
「そのときは、陽くんが私の目になってよ」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
どうして、そんなことを言うのか。その理由を聞くのが、怖かった。
気づけば、言葉が先に零れていた。
「……僕が、君の目になる」
自分でも驚くほど、まっすぐな声だった。
秋穂は、一瞬だけ動きを止め、それから、いつもより静かに微笑んだ。
「ありがとう」
その声は、風にさらわれそうなほど小さかった。
陽は、その笑顔が、少しだけ泣きそうに見えたことに気づかなかったふりをした。
屋上のキャンバスは、少しずつ埋まっていく。
白は減り、色は増え、境界線は曖昧になっていった。
それは、ふたりの距離が縮まっていく過程と、どこか似ていた。
そして陽はまだ知らない。
この時間が、静かにカウントダウンを始めていることを。
夏の青が、いつか終わりの色へと変わることを。
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