さよならを 屋上の青に溶かして

水瀬潤

文字の大きさ
2 / 5
第2章

夏色のパレット

しおりを挟む
屋上への階段は、思っていたよりも狭く、暗かった。


陽は、コンクリートの壁に囲まれたその空間を、秋穂の少し後ろを歩きながら上っていく。古い校舎特有の湿った匂いと、外へ近づくにつれて混ざり始める風の気配。足音が反響するたびに、胸の奥が落ち着かなくなる。

「ね、秘密基地みたいでしょ」

振り返った秋穂が、いたずらっぽく笑った。

重たい扉を押し開けた瞬間、視界が一気にひらける。

空だった。

遮るもののない、どこまでも続く青。低いフェンスの向こうで、雲がゆっくりと流れている。陽は思わず息を呑んだ。こんな場所が、学校の中に隠れていたなんて知らなかった。

「ここ、ほとんど誰も来ないの」
「先生も立ち入り禁止って言ってるけど、鍵が壊れててさ」

悪びれる様子もなく言う彼女の足元には、すでにいくつもの絵の具缶と大きなキャンバスが並べられていた。

「これ全部……?」

「うん。壮大でしょ」

秋穂は、胸を張る。

計画と呼ぶには、あまりにも無謀だった。見つかれば怒られることは間違いないし、完成までにどれだけの時間がかかるのかも分からない。

それでも、陽の視線は自然とキャンバスに引き寄せられていた。

白一色の空間。まだ何も描かれていない余白。

「ここに、色を置いていくんだよ」

秋穂はそう言って、筆を一本、陽に差し出した。

その指先には、かすかに絵の具の跡が残っている。赤と青が混ざった、紫色。

「……僕、上手くないよ」

正直な言葉だった。絵なんて、小学校の写生大会以来、まともに描いた記憶がない。

「いいの」
「上手い下手じゃないから」

秋穂は、さらりと言った。

「色を置くって、それだけで意味があるんだよ」

その言葉の意味を、陽はまだ理解できなかった。ただ、断る理由も見つからないまま、筆を受け取る。

絵の具皿に青を出し、そっとキャンバスに触れさせる。

かすれた音を立てて、一本の線が引かれた。

白の中に、青が現れる。

それだけなのに、胸の奥が微かに震えた。

「あ」

思わず声が漏れる。

「でしょ」

秋穂は、満足そうに笑った。

それからの日々は、不思議な速さで過ぎていった。

放課後、ふたりは屋上に集まった。陽は家に直行するふりをして、秋穂は部活帰りを装って。誰にも見つからないように、少しだけ時間をずらして。

空の色は、日によって違った。

澄み切った青。夕焼けに溶ける橙。曇天の重たい灰色。

秋穂は、その日の空を見て、使う色を決めた。

「今日はさ、ちょっとだけ暗めがいい」

そう言って紺色を混ぜたり、

「今日は、思いきり夏にしよ」

と言って、まぶしいほどの水色を広げたりした。

陽は、彼女の選ぶ色を横で見ながら、不思議な感覚に包まれていた。

色って、こんなにも感情と近いものだったのか。

筆を動かすたび、頭の中の雑音が消えていく。誰かの視線を気にすることも、余計な言葉を考える必要もない。

ここでは、色を置くだけでよかった。

「ねえ、陽くん」

ある日、夕方の風が少し冷たくなった頃、秋穂が唐突に言った。

「もし、明日さ。世界から色が消えたら、どうする?」

冗談みたいな口調だった。笑っている。でも、その横顔は、どこか遠くを見ている。

「……分からないよ」

正直に答えた。

「きっと、何も見えなくなる」

秋穂は、ふうん、と小さく息を吐く。

「じゃあさ」

彼女は、キャンバスから目を離さずに言った。

「そのときは、陽くんが私の目になってよ」

胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。

どうして、そんなことを言うのか。その理由を聞くのが、怖かった。

気づけば、言葉が先に零れていた。

「……僕が、君の目になる」

自分でも驚くほど、まっすぐな声だった。

秋穂は、一瞬だけ動きを止め、それから、いつもより静かに微笑んだ。

「ありがとう」

その声は、風にさらわれそうなほど小さかった。

陽は、その笑顔が、少しだけ泣きそうに見えたことに気づかなかったふりをした。

屋上のキャンバスは、少しずつ埋まっていく。

白は減り、色は増え、境界線は曖昧になっていった。

それは、ふたりの距離が縮まっていく過程と、どこか似ていた。

そして陽はまだ知らない。

この時間が、静かにカウントダウンを始めていることを。

夏の青が、いつか終わりの色へと変わることを。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

【完結】精霊に選ばれなかった私は…

まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。 しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。 選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。 選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。 貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…? ☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。

処理中です...