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第3章
夕立の境界線
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六月の終わり、空気が重たくなり始めた頃、学校は文化祭の準備でざわめいていた。
教室の後ろには段ボールが積まれ、廊下には装飾用の色紙が散らばっている。普段は顔を合わせないクラスメイト同士が、ぎこちなく言葉を交わし、笑ったり、ため息をついたりしていた。
陽は、その喧騒を少し遠くから眺めていた。
自分も作業には参加している。指示された役割もこなしている。それでも、輪の中心にはなれなかった。誰かの会話が盛り上がるたび、その音はガラス越しに聞こえるみたいに、微妙な距離を隔てて響く。
けれど、放課後だけは違った。
屋上へ続く階段を上る時間だけは、確かな目的地があったからだ。
「今日、ちょっと進んだよ」
屋上で、秋穂はそう言ってキャンバスを指差した。
青を基調にした絵は、以前よりもはっきりと形を持ち始めていた。空とも海ともつかない色の重なり。その中に、淡い黄色や白が、光の粒のように散りばめられている。
「……きれいだ」
思ったままを口にすると、秋穂は少し照れたように笑った。
「でしょ。文化祭の日、ここに人が来たら、きっとびっくりするよ」
その未来の話しぶりが、妙に現実味を帯びて聞こえて、陽の胸に小さな引っかかりを残した。
異変に気づいたのは、その数日後だった。
昼休み、渡り廊下の角で、陽は立ち止まった。
聞き覚えのある名前が、医務室のほうから聞こえた気がしたからだ。
秋穂――。
確信はなかった。それでも、胸騒ぎがして、陽は足を止めてしまった。
白衣の先生と、見知らぬ大人の声。低く、抑えられた口調。
「……無理はさせないでください」
「このままでは、文化祭どころか――」
続きは、耳に入らなかった。
足の裏から、冷たいものが這い上がってくるような感覚。陽は、その場を離れた。
放課後、屋上で秋穂を前にしたとき、何も言えなかった。
彼女はいつも通りに笑っていたからだ。
「ね、今日も進めよ」
キャンバスの前に立つ秋穂は、変わらない。でも、よく見ると、肩の動きが小さく、息が浅い。
「……疲れてない?」
恐る恐る聞くと、彼女は一瞬だけ間を置いた。
「平気」
即答だった。その早さが、逆に不安を膨らませる。
その日、空は不安定だった。
重たい雲が垂れ込め、風が湿っている。
「雨、来そうだね」
陽がそう言うと、秋穂は空を見上げた。
「夕立かな」
どこか、他人事のような声音。
最初の一粒が落ちたのは、筆を洗っているときだった。
ぽつり、とコンクリートに黒い点ができる。
次の瞬間、堰を切ったように雨が降り出した。
「うわ……」
絵の具も、キャンバスも、避難させなければならない。
二人は慌てて屋上の隅へ移動した。フェンス越しに、雨が白く跳ねる。
雨音が、すべてを覆い隠した。
「……ねえ、陽くん」
秋穂が、ぽつりと言った。
雨で濡れた前髪が、額に張り付いている。
「お願いがあるの」
嫌な予感がした。けれど、逃げ場はなかった。
「もしさ……私のことで、何か聞いても」
言葉を探すように、彼女は一度口を閉じる。
「普通にしてほしい」
雨音に紛れて、かすれそうな声だった。
「特別扱いしないで。可哀想な顔、しないで」
陽は、何も言えなかった。
肯定も、否定もできない。
ただ、彼女の願いが、どれほど必死なものなのかは分かった。
「……わかった」
絞り出すように言う。
秋穂は、ほっとしたように息を吐き、いつもの笑顔を作った。
「ありがとう。やっぱり、陽くんでよかった」
その言葉が、胸に刺さったまま抜けない。
雨は、しばらくして小降りになった。
雲の向こうで、かすかに光が差し始める。
夕立の境界線。
世界が、元に戻ろうとしている。
けれど、陽の中では、何かが確実に変わっていた。
キャンバスに残る青が、さっきまでよりも、少しだけ冷たく見えた。
この絵を完成させるまで、笑顔でいよう。
そう決めた瞬間から、
彼の中で、残酷なカウントダウンが静かに始まった。
教室の後ろには段ボールが積まれ、廊下には装飾用の色紙が散らばっている。普段は顔を合わせないクラスメイト同士が、ぎこちなく言葉を交わし、笑ったり、ため息をついたりしていた。
陽は、その喧騒を少し遠くから眺めていた。
自分も作業には参加している。指示された役割もこなしている。それでも、輪の中心にはなれなかった。誰かの会話が盛り上がるたび、その音はガラス越しに聞こえるみたいに、微妙な距離を隔てて響く。
けれど、放課後だけは違った。
屋上へ続く階段を上る時間だけは、確かな目的地があったからだ。
「今日、ちょっと進んだよ」
屋上で、秋穂はそう言ってキャンバスを指差した。
青を基調にした絵は、以前よりもはっきりと形を持ち始めていた。空とも海ともつかない色の重なり。その中に、淡い黄色や白が、光の粒のように散りばめられている。
「……きれいだ」
思ったままを口にすると、秋穂は少し照れたように笑った。
「でしょ。文化祭の日、ここに人が来たら、きっとびっくりするよ」
その未来の話しぶりが、妙に現実味を帯びて聞こえて、陽の胸に小さな引っかかりを残した。
異変に気づいたのは、その数日後だった。
昼休み、渡り廊下の角で、陽は立ち止まった。
聞き覚えのある名前が、医務室のほうから聞こえた気がしたからだ。
秋穂――。
確信はなかった。それでも、胸騒ぎがして、陽は足を止めてしまった。
白衣の先生と、見知らぬ大人の声。低く、抑えられた口調。
「……無理はさせないでください」
「このままでは、文化祭どころか――」
続きは、耳に入らなかった。
足の裏から、冷たいものが這い上がってくるような感覚。陽は、その場を離れた。
放課後、屋上で秋穂を前にしたとき、何も言えなかった。
彼女はいつも通りに笑っていたからだ。
「ね、今日も進めよ」
キャンバスの前に立つ秋穂は、変わらない。でも、よく見ると、肩の動きが小さく、息が浅い。
「……疲れてない?」
恐る恐る聞くと、彼女は一瞬だけ間を置いた。
「平気」
即答だった。その早さが、逆に不安を膨らませる。
その日、空は不安定だった。
重たい雲が垂れ込め、風が湿っている。
「雨、来そうだね」
陽がそう言うと、秋穂は空を見上げた。
「夕立かな」
どこか、他人事のような声音。
最初の一粒が落ちたのは、筆を洗っているときだった。
ぽつり、とコンクリートに黒い点ができる。
次の瞬間、堰を切ったように雨が降り出した。
「うわ……」
絵の具も、キャンバスも、避難させなければならない。
二人は慌てて屋上の隅へ移動した。フェンス越しに、雨が白く跳ねる。
雨音が、すべてを覆い隠した。
「……ねえ、陽くん」
秋穂が、ぽつりと言った。
雨で濡れた前髪が、額に張り付いている。
「お願いがあるの」
嫌な予感がした。けれど、逃げ場はなかった。
「もしさ……私のことで、何か聞いても」
言葉を探すように、彼女は一度口を閉じる。
「普通にしてほしい」
雨音に紛れて、かすれそうな声だった。
「特別扱いしないで。可哀想な顔、しないで」
陽は、何も言えなかった。
肯定も、否定もできない。
ただ、彼女の願いが、どれほど必死なものなのかは分かった。
「……わかった」
絞り出すように言う。
秋穂は、ほっとしたように息を吐き、いつもの笑顔を作った。
「ありがとう。やっぱり、陽くんでよかった」
その言葉が、胸に刺さったまま抜けない。
雨は、しばらくして小降りになった。
雲の向こうで、かすかに光が差し始める。
夕立の境界線。
世界が、元に戻ろうとしている。
けれど、陽の中では、何かが確実に変わっていた。
キャンバスに残る青が、さっきまでよりも、少しだけ冷たく見えた。
この絵を完成させるまで、笑顔でいよう。
そう決めた瞬間から、
彼の中で、残酷なカウントダウンが静かに始まった。
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