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愛情不足

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 加賀見は白衣のポケットから、紺色のチェック柄をしたハンカチを取り出した。きちんと折り畳んではあるが皺の感じからしてアイロンまでは掛けていないだろうとわかるのが加賀見らしい。それを手渡すのかと思ったら、ハンカチを涙の流れる彼の頬に軽く押し当てる。 
「嫌な、言い方だった……ごめんね……?」
 元生徒会長はハンカチを受け取り、首を横に振る。そして加賀見に背を押され、促されるままに保健室の隅に置かれたソファーへと座った。
 二人が座るのは見ていたが、彼らと並んで座る気にはならなかった。どうしようかと思っていると、ワイシャツの胸ポケットに入った携帯電話が震える。取り出し確認すると隼人からの着信だった。
「電話が来た。俺はもう席を外す」
 それだけ告げると加賀見は頷いたので、廊下に出て電話をとった。
『玲児……よかった、出てくれて。授業出てねぇの?』
「ああ、保健室にいた。なんの用だ。浅人は一緒にいるのか」
 訊ねると、受話器の向こうで一瞬の緊張が走ったのを感じた。一呼吸置いてから隼人は話し出す。
『浅人を俺んちに置いて、コンビニに行くってすぐ外に出たんだ。だからあんまり話せねぇんだけど……』
「何をやっているんだ。傍にいてやれ。今、浅人は傷ついて……」
『知ってるのか?』
 叱咤しようとしたら驚きの声をあげられ、しまったと思った。浅人は俺に知られたくはなかったかもしれない。けれどもこうして言ってしまった以上、隼人には誤魔化しても仕方がない。それに言ってやりたいこともある。
「元生徒会長のやつに何があったかは聞いた」
『そうか、出雲が……』
 呼び慣れているというか、親しいのがわかる名前の呼び方に少し引っかかるものを感じる。けれどもそれを気にする間もなく、隼人は大きなため息と共に苦悶の声で話した。
『玲児……まさかこんなことになるなんて。軽く考えすぎだった。なぁ、聞いてくれ。俺は、俺はさ……玲児とやり直したいんだ』
 こいつは何を馬鹿なことを言っている。このタイミングでそんな話をしてくることが全く理解できなかった。しかし隼人は続ける。
『玲児が離れていくのが怖くて明言してこなかったけど、わかってただろ……? 俺は玲児と一緒にいたい。本当はただそれだけだ』
「ならなぜ、あの男や浅人と関係を持った? 他に女とだって遊んでいるのだろう」
『それは……俺が悪いんだ、でもお前となら』
「俺となら? 適当なことを言うな、あの頃のことを忘れたとは言わせん」
 口先ばかりのことを言われ、あまりにも腹が立ったのでぴしゃりとそう言い放ってやった。当たり前だ。付き合っていた頃のことを忘れるわけなどないのに、何故そんなことを言う。何故。本当に、本当に腹が立つ。もうこれ以上話しても無駄だ。何の為に電話をしてきたのだこいつは。俺に言われて何も返せぬ隼人に益々苛立ってくる。
「俺は隼人にしてしまったことを悔いている。しかしお前のしたことも許せない。お前とはもう絶対に一緒にならない。だから今は、浅人の傍にいてやれ」
 それだけ言って何も聞かずに電話を切った。
 隼人との通信が切れたことを知らせているディスプレイをじっと見つめる。イライラするし、胸はざわつくし、頭の中がぐちゃぐちゃして痛い。
 ――玲児とやり直したい。
 けれども結局一番に思い出す言葉はそれで、何より自分自身に失望した。隼人も馬鹿だが、俺だって十分すぎるほど馬鹿だ。
 少しの間もう一度着信がくるかもしれないと思い、そのまま保健室前の廊下で立ち止まっていたが来なかった。下腹部にぎゅっと締まるような感覚を覚え、自分が何かを期待をしているのかもしれないと気付き、自嘲する。
 もう五限目などとっくに始まっているので教室に戻ろうとしたら、保健室の扉が開かれ目を赤く腫らした男が出てきた。
「玲児くん、ちょっと待ってください」
「すまないが、お前とはあまり話をしたくない」
「詳しくはないですが、隼人とのこと聞いてます」
 背を向けて歩き出そうとしたが、反射的に振り返ってしまった。誰もいない、静まり返った廊下で元生徒会長と向かい合う。数メートルは離れているが、彼がもうヘラヘラと笑っていないことはわかった。
 聞いているというのはどこまで知っているのだろう。何故この男はそこまで隼人と親しくしているのだろう。共にいる二人を想像してしまい不快感を覚える。
「知っているからなんだと言うんだ」
「隼人の交友関係は……確かに問題大ありだと思います。しかしきっと……何か理由があるんじゃないかと思うんです」
「理由だと? そんなもの……」
「あの人、一緒に寝ていても何度も夜中に起きるんです」
 彼はそう切りだすと、隼人と過ごしたある夜の話を始めた。




 物音に目を覚ますと、隣で眠っていた筈の隼人が上体を起こして項垂れていた。少し息が荒く、肩が上下している。
「隼人? 大丈夫ですか?」
 自分も起きて肩に手を添えると、腕を大きく振り、思い切り振り払われてしまった。驚いて言葉を失っていると、ハッとすぐに彼は振り返り、俺の身体を抱き寄せた。肩に頭を乗せられ、額に汗をかいているのがわかる。
「起こしてごめんな」
「いえ、それより大丈夫ですか?」
「どうかな」
 ははっと小さく笑っているのが、余計に苦しそうに見えた。背中を擦ってやると、隼人の手にぐっと力がこもり身体をより密着させられる。心臓の音は少し落ち着いてきたようだった。
「この間も……夜中に起きてましたね。よくあるんですか? 他の方といる時や、一人の時……」
「他の奴とは一緒に寝ないから。朝まで一緒にいるのなんてお前くらいだよ」
「ではいつもは一人の時に……?」
 少し間を置いて小さく頷かれた。いつも荒々しいところのある隼人にしては随分と弱々しい返事の仕方だった。
「睡眠が深くなる瞬間が……怖いんだ。寝てるのになんでわかるんだろうな? よくわかんねぇんだけど」
 話す声はいつもの調子だったので幾分か安心はできたけれど、話の内容には驚いた。それではなかなか安眠もできないのではないか。解決策はないのだろうか。
「一人でも、誰かといても、駄目なんですね」
「そんなことねぇよ。誰かいる方がマシ。こうやって起きちまうから誰とも寝ないけどな。一人で寝てても、ヤッた日とそうじゃない日だと全然……」
 そこまでは話してくれたが、隼人は黙り込んでしまった。耳元で小さく独り言のように“話しすぎたな”と呟く。それを聞いてあまり深くは聞かない方がいいのだろうと察し、俺も何も言わなかった。ただ背中を優しく擦り続ける。
 暫くそうしていたら隼人は俺の首筋に顔を埋め、ゆっくりと二人の身体を横に倒した。掛布団をかぶり直し、こちらの胸に顔を寄せて抱き締められるので、頭を抱き返してあげた。
「なぁ出雲……」
「どうしました?」
「もう一緒に寝ないか?」
 それはいつもより低く、小さく、不安気な声だった。泣いてしまうんじゃないかと思うほどに。
「え? なんでそんなこと……」
「こんな風に起こされたら嫌だろ?」
「そんなこと……気にしませんよ。あなたが心配ではありますけど」
「そうか」
 ため息と共に漏れた声は嬉しそうだった。そんな彼が愛おしくなり、頭を撫でてやる。
 隼人は不思議な人だ。
 誰もが羨む美貌を持ち、普段は自信に満ち溢れているというのに、時折彼の抱える不安や自信のなさといった闇が垣間見えるのだ。何をそんなに恐れているのだろう。
「ありがとな。誰かと一緒に寝ればこんな風にしてもらえるんだな」
 そうして彼は程なくして眠りについたようだった。ほっとした瞬間に“出雲と”ではなく“誰かと”と言った彼の言葉に気が付き傷ついた。他の者より特別な扱いをされていてもあくまでも割り切った関係だとこうやって度々思い知らされるのだった。




「隼人は夜きちんと眠れない……のか?」
 話を聞き終え改めて問うと、元生徒会長は伏し目がちに頷いた。しかし俺はその話を聞いて自分の中でどう消化すれば良いのかわからなかった。
 隼人が何故眠っていても何度も起きてしまうのか、この男に何を話そうとしたのか。
 そしてこの男と隼人はどこまでの関係なのか。恋人だったというのは嘘だと言っていたが本当のところはどうなのか。
 隼人を思う気持と自分が持つ嫉妬という醜い感情に、戸惑い混乱した。この男の様子を見てわざわざ自慢話などをしている訳ではないのはわかっているのに、イライラしてどうしようもない。もっと聞くべきことがある筈だというのに。
「隼人の女癖の悪さは、そのことが関係してるのではとずっと思っていました」
 この男は隼人ととても親しいのだろう。いつからかは知らないが付き合いもそこそこ長いのだろう。その間ずっと身体を重ねて夜を過ごして……考えなければ良いものを隼人がどんな顔でこいつに話しかけるのかと考えてしまう。
 俺だって隼人がふとした時に寂しそうな顔をするのは知っている。知っているのに寄り添えはしないではないか。
「俺はなるべく傍にいようとしましたが、駄目でした。でも玲児くんなら……」
 俺なら? 俺がなんだと言うんだ。隼人もそんなことを言っていた。
 馬鹿にしているのかと思う。隼人に抱いてももらえなかった俺を。全く意味がわからない。
 俺を最初に拒否したのは、隼人だ。
 二人への苛立ちが募り、俺は体勢は変えぬまま近くの壁に拳を叩きつけた。骨に振動が響き、それは痛みへと変わっていく。奴は何やら話していたがもう聞きたくはない。その意思表示だった。拳だけではない……至る所が痛い。辛い。
 壁を殴った音とともに奴は話をやめたので、俺は踵を返してその場を走り去った。呼び止められたがもう知らぬ。
 地面を蹴り、着地する度に右膝に衝撃が走る。ビキィと体内に鳴り響き、まるで1歩ごとに矢で射抜かれているようだった。それでも走るのはやめなかった。少しでも遠くに逃げたかった。
 隼人のためならば毎晩でも夜を共にしたいのに。
 本音が頭を掠った瞬間、俺の脚は限界を迎えその場に転び倒れてしまった。脚を動かすことをやめても膝はズキズキと痛みを主張している。
 抱いてもらえなかったこの身体と痛みしかくれないこの膝で、あいつらは俺に一体何を求めているのだろう。
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