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閑話・這って出てきて転がり落ちて

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 玄関のチャイムのあと、多少の緊張感を持って来訪してきた隼人を出迎えたというのに、彼の腕に抱かれた大きなぬいぐるみ……抱きまくらというものだろうか、海洋生物とは思えぬほどにふわふわのもふもふに生まれ変わったウミウシが目に飛び込んできて、肩の力が抜けてつい笑みをこぼしてしまった。
 少し視線を上げれば清々しいほどの満面の笑みを浮かべる隼人の顔があり、我慢してもふふっと声が出るほどに笑いがこみ上げてきてまた柔らかい何かに身を包まれそうになる。
「隼人、お前……ふ、どうしたんだ、それ……」
 笑いの止まらない俺の胸に隼人はそれを押し付け、口の端を引き上げて歯を見せ、得意げに笑う。
「凄くね? 俺これ見つけて大興奮だったもん。今日見に行けなかったけどさ、また行こう。今日はコイツで我慢して」
 また、という言葉に笑いが冷めていき、一息つく。
 嘘でも頷いてやることができない。
「確かによく見つけたな。手袋をもらったばかりで申し訳ないが」
「いいよ、可愛がってやって」
「む。ありがとう」
 最近過敏にこちらの反応を伺っていた隼人が、今に限ってはそんな俺に気づくこともなく、ただ優しく微笑んでもっちりと抱き心地の良いウミウシの頭を撫でるだけだった。それを真似てなんとなく抱いたウミウシを俺も撫でながら、彼を部屋へ招き入れる。
 午前中に昨日寝込んでいたためシーツを取り替えておいた……いや、きっと汚れていなくとも替えたてだろうとシーツは取り替えていただろう。隼人とここで身体ばかり繋げていた頃はそんなこと気にも止めなかった。ほとんど椅子の上で行為が行われたというのもあるが、ベッドの上に彼を座らせた日だってそれは例外などではなく、湿っていようがシワが寄ってぐちゃぐちゃだろうが、そんなことはどうでも良かった。ただ、ずっと隼人を名実共に縛り付けていられさえすれば、どうでもよかった。
 和やかに会話を交わしながらも、わずかに喉が絞まるような緊張感がある。
 もう最後だ。
 最後に、ここで。
 一瞬でいい、自分勝手でいい、短い時間でもお前の恋人となって愛されたい。
 また息苦しくなってきて、気を逸らすため、喉を潤すため、心を落ち着かせるため、飲み物を取りに自室を離れた。どんどん気が急いできて心音が早くなって、それが耳に響いてさらに追い詰めてきて。ここで過呼吸になるわけにはいかないとキッチンで盆にグラスを並べながらゆったりと深呼吸をする。
 ずっと保留にしていたこの関係を明確にする申し出に隼人がどんな反応をするか考えただけでも罪悪感が湧いてくる。浮かれている様子の彼に俺がしようとしていることはあまりに残酷だ。でも残酷だからこそ、隼人の心に残ればいいと願う。身勝手にもほどがある、去っていこうとしているくせに、どうせならば愛してもらうついでに何より強固に縛り付けて、一生涯でも自分のことを想い続けて……いや、せめて忘れないでほしいと願うのだ。
 幸い、今の隼人のペースに乗ればことはスムーズに進むだろう。あとは自分がリラックスするだけ。
 落ち着け落ち着けと念じ、深く息を吐いて、たった二つの飲み物が入ったグラスの乗った盆を支える片手をぐらつかせなから扉を開ける。
 すると力の入らない腕で支えたそれをずり落としてしまいそうなほど、屋内の雰囲気が変わっていることに気がつく。戻った俺に視線をくれた隼人はすっと目を細めて礼を言ってくれた。
「ごめんな、病み上がりなのに気ぃ使わせて。なんかいちご大福とか買ってくればよかったな」
 確かに自分の好物だったその名詞に固唾を飲み、それすらも喉が受け付けずせり上がる空の気体を押し込む。あの日浅人が見舞いにと持ってきた和菓子の中に入っていたソレ。食べるのはもちろん、捨てることも、触るのすら嫌で腐らせてしまってようやく処分した。
「最近は飯食えてる?」
 テーブルにグラスを置いた瞬間投げかけられた問に、息の根を止められるかと思った。
「ああ……」
 笑えないと思ったが、以外にも笑みを向けることに成功しながら頷く。
「なぁ、触っていい? 玲児の手」
 返事を待たずに、そっと、薄張りの氷でも触れるかのような手つきで、枯れ枝のような手首に触れる。袖の中へ指が入って、それでも包帯越しだというのに、いつもの強引さはどこかに捨ててしまったかのような撫で方。その優しさで昨日引っ掻いたばかりの、俺の生命線をぼかすあの引っかき傷に触れられ、慌てて腕を引っ込めた。
「悪い、痛かったか? 腱鞘炎つってたっけ。長いよな、まだ辛そうじゃん」
 こちらを気遣う言葉に首を横に振ることで答えながら、手首を胸に抱えてぎゅっと握った。目の前に隼人がいて、今これから抱かれたいと願っているのに結局俺はこの手首に救われる。そうして冷静になって、現実を見るのだ。このまま何事もなく抱いてもらうことなど叶うわけない。腕などまだ序の口で、どうしたってこのカラカラにやせ細った身体も見られてしまうのだ。
 ああ、でも、どうしても、どうしても抱いてほしい。
 もう恋人としてでなくてもいい、同情を引いてでもいい。
 浅人に抱かれ惨めに自慰を続ける自分のまま死にたくない。
 手首などどうでも良くなるくらいすべてを塗り替えてほしい。
 忘れることはできない、全て持っていくしかない、それでも最後に見るもの感じるものは綺麗なものがいい。
「細いだろう?」
 明らかに隼人を困らせてしまうだろう質問を投げかける。
 動揺して俺の顔と手首を見比べる隼人を敢えてじっと見つめて追い詰めると、彼は意を決したように俺の体調のこと、入院していたことを聞いてきた。ずっと聞かれないことがむしろ不自然だった、きっと俺のために聞かないでおいてくれた質問は、当事者が口火を切ったことで次々と溢れ出していく。
 答える気はあまりなく、ぼんやりとそれらを耳に入れて曖昧な返事をしながら、もらったばかりのウミウシを抱きしめていた。購入した帰り道、これを抱えてずっと歩いてきたという隼人の姿を想像すると、可愛さや抱き心地以上に愛おしくなる。この感触を味わいながら、俺に会うこと、そしてこれを見てどんな顔をするかを道中ずっと考えてたに違いない。
 この抱きまくら以上に愛おしい、彼を見る。
 ずっと避けてきた話題に触れてしまい後悔して謝る姿を見て、一度立ち上がりベッドに腰掛けた。この流れを変えたいのはお互い様だ(こちらは作為的ではあるが)。この好機に飛びついてくると思ったのに、ベッドを叩いて隣に座るよう促すと思ったよりも躊躇された。知ってはいたが、この男はどうやら俺が思っているよりずっと誠実なようだ。早くしろと文句ありげにもう一度強めにベッドを叩いてようやく隣に来たが、それでも目線を合わせてこなかった。
 よく見ると、襟足のかかるうなじに汗をかいている。幾度となく女を抱いてきた癖に、俺の隣に座ってそれほどまでに緊張している。大きな不安を薄っぺらい優越感で覆って、一歩隼人に近付いて名を呼んだ。
「隼人」
「ん?」
 自然と振り返ったと思ったら、一秒後には目を大きく見開いて見せ、しかし仰け反ったり後ろへ下がったりすることはなく、あと数ミリで鼻先の触れる距離のまま互いに見つめあった。振り返った時に鼻をくすぐったお香のようなスモーキーで少し甘い香りが体の奥にずんと重く響く。
 隼人がほしい。貴様にならば可哀想だと思われてもいいから、こんな惨めな俺をどうか、どうか慰めてやってくれないだろうか。
「隼人……俺がもし、抱いて欲しいと言えば……お前は、俺を抱くか?」
「はぁ? なんだよ、急に」
「抱けるか?」
 想定していたよりきつい返しに怯えながらも詰め寄る。突然こんなことを言う俺に嫌悪を感じたのか、顔を顰め、じっと睨むように見つめられる。
「抱けるよ」
 こんなに近くにいるというのに呼吸をあまり感じない。息を止めているのだろうか。彼の生を感じたくて、手を伸ばす。伸びてきた俺の手を一瞥し、顎を引いたまま上目遣いに見つめる瞳は十分な潤いをもっていて、つやつやとして美しい。
「お前は……隼人は、本当に綺麗だな」
 生気のまるでない自分のあまりに細い指が、隼人の顔の表面をなぞっていく。
 額、瞼、鼻筋、頬、そして、唇。
 どれもが完璧に形造られていて、その骨を覆う皮までもが瑞々しく活力に溢れている。ひどい顔色をしていた時期もあったが、ここのところ隼人の顔色は良くなったと思う。
 そんな彼の皮膚の上を滑るこれはなんだろうか。
「こんな綺麗な顔に口付けていいのかと躊躇ってしまうな」
 自分などが独占していいような存在ではないのだろうなと自嘲しながらも、表情はわからず瞳の色しか認識できないほど近づき、口づけを誘う。鼻先が触れただけで、熱が伝わってきた。瞬きをしたら、自分の睫毛が彼の頬にぶつかって。もっと触れたくて吐息が漏れる。
 しかし隼人は相変わらず呼吸をするのも戸惑ったまま、ぐっと唇を固く結び、身動き一つしないでただ目だけを泳がせる。そうしてやっとしぼり出された声は、あまりにも情けなく可愛らしかった。
「待てよ、どうしたんだよ。誘ってるのかと思うだろ」
「貴様はこれで誘ってないと思うのか?」
 こんな風にこいつを困らせて、優位に立つことがあろうとはと、なんだかおかしくて袖をついと引っ張った。こんなにも後押しが必要だとは想定外だ。
「玲児……っ」
 袖を引かれるまま勢いに任せた隼人の体温が距離を詰めてきて、気がつけばその胸の中にいた。背にも腰にも腕を回されたあと、より密着するようにさらに腕を伸ばして抱き直し、かたい胸板に押しつけられる。このただでさえ薄い身体がさらに平らに潰されてしまいそうなほどだ。そうして温もりをじっくり味わう暇もないまま、すぐにその薄情そうな見た目に似つかわしくないほど熱い唇が重ねられた。触れるだけですぐ離れていくその口づけに不満を持って目があった瞬間に瞼を下ろしてやれば、うまいことそれは繰り返された。
 

 
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