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ゆれ

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入谷さんの初恋

06

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 病弱な幼馴染みがいて、慣れて対処法もわかり、いざのときはかかりつけ医とも連絡の取れる自分が行ったほうが早そうなのだと先に言えばいいとはわかっているが如何せん急を要する。もう、悲しくなるので唯織の顔を見ずに歩きだしたそのときだった。
 カタンとちいさな物音が入谷の耳に届く。

「入谷さん、わたしも一緒に行く」
「えっ」
 それとなく状況を見守っていたらしき店員が唯織のジャケットとバッグを差し出し、礼を述べて受け取ると唯織は殆ど小走りになって出入り口へ向かいだした。

「おい、料理は? いいのかよ」
「せっかく予約してくれたのにすみません!」

 そうじゃなくて、と、つなげようとしたが既に唯織がタクシーを停めていたので入谷は彼女を先に乗せ、運転手に行き先を告げる。まだ若そうな男はにこりともせずメーターを入れると、スムーズに合流して夜の街を走り抜けた。
 タクシー運転手には珍しく、無口なのが有難かった。入谷はこういう世間話を強制される場が苦手で、だから絶対自分に営業職は向かないと思っている。押しが強いわけでもなければ休みに休めないのも苦痛だ。

「あの……わたし、半分払いましょうか?」
「それは要らねえけど、楽しみにしてたんだろうに」

 デザートのアップルパイが有名で、コースでしか食べられないのに大人気で、とかなんとかあれだけ熱弁を振るっていたのだ。あてこすりでも意地悪でもなんでもなく、よかったのかと気になった。況してや唯織は今は、簡単に食べに出てこられない身で。

「いいんです。それより早く行ってあげなきゃ」

 ちいさなその呟きを聞いていたのかどうかはわからないが若い運転手は効率よく道を選んで、思っていたよりずっと早く公園に着いた。一応すこし待ってもらって中に入っていく。もうちょっと早い時間ならランニングやウォーキングをする人々がいるのだろうが、夜も更けて人影は殆どなかった。
 千子は植え込みにしなだれかかるようにして倒れていた。

「チコ!」

 意識が朦朧として返事がない。視線も虚ろで、かるく頬を叩いてみてようやく入谷を認識したようだった。
 辺りを見回し、彼女のものと思われるバッグを唯織が見つけてきて中を漁り、ピルケースを発見して入谷に手渡した。唯織は続けて自分のバッグから水を出し「飲みさしですみません」とこれも渡す。キャップを開けて口許にあてがい、慎重に傾けると、千子の喉がこくんと上下して薬を飲み下した。

 マンションへは歩いて5分ほどの距離なのだが事情を説明して先程のタクシーに千子を運んでもらう。あとをついてきた白いトイプードルが千子の犬だと知り、唯織が連れてきて、一緒にエントランスをくぐった。
 薬が効いてきたのか千子の呼吸は平生に近いくらい穏やかに整った。ひとまず安堵の息を吐き、最上階でエレベーターを降りてさがしておいたキーで部屋の鍵を開ける。

「ブラン、おすわり」

 勝手知ったる何とやら、迷わずに一発で寝室のドアをさがしあてた入谷はすこし彼女のかたちに乱れていたベッドにゆっくりと千子をおろして寝かせた。衣服をゆるめたほうがいいか考えていると察した唯織が「わたしやります」と言って素早くこなし、最後は肩までぴったりと上掛けで覆ってしまう。
 一人で静かに寝かせるほうがいいのか、様子を見ていたほうがいいのか、なんせ広いマンションなので迷ったが足を拭いてあげてやったブランが千子の傍にくっついたので、とりあえず異変はかれが察知してくれそうだと二人はリビングへ戻った。人の気配がうるさいかもしれない。

 相変わらず趣味のいい高価かそうなソファに腰を下ろす。唯織は一旦座りかけて、開いていたブラインドを閉めて回っていた。暑くも寒くもない気候の御蔭で温度調節の必要はなさそうだが、千子はどうだろうか。
 他人の、本当に会ったばかりの人間の部屋でキッチンに立つわけにも行かず手持ち無沙汰そうな唯織を手招きで呼ぶ。隣をポンポン叩くと、すこしの間を置いて寄ってきた。トサッと軽い音をさせて唯織が座る。

「なんか、すごいお部屋ですね」
「あー、あいつんちの親の持ち物らしい」
 犬を飼えるのも恐らく特例なのではないだろうか。一人暮らしも、だから許可してもらえたのかもしれなかった。とことん甘やかされている。入谷とはまた違う方面で。

「……すっごい美人さんですね」
「そう?」

 幼馴染みで元カノだとはさっき、心臓の話をしたとき打ち明けたので唯織の心中がモヤモヤとしているのは、なんとなくわかった。「へー、唯織のタイプか」わざと揶揄うとちょんと尖っていたくちは横たわる半月のかたちへと変わる。

 普通こんなことはない、と思う。入谷はそうだった。元カノと彼女を会わせるなんて揉め事のにおいしかしないようなこと。彼女の元彼と会わされた記憶もなかった。今回だって、不可抗力だったわけで。
 背筋をまっすぐに伸ばし、きちんと揃えられた膝の上に組んだ両手をのせた唯織が、入谷のほうは見ずにポツンと言う。

「……『チコちゃん』?」
「ああ、正しく読めなくて。まだガキだったから」
「お嫁に来てくれたらいいのにって、お姉さんたち言ってました」
 
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