寿命が来るまでお元気で

ゆれ

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 ただの口笛ではなく、犬や狼を寄せる際に使うやり方なので人の耳には何も聞こえない。黄麻などは不思議がって「ヘタクソなだけでしょ」と難癖をつけてくるが勿論そんな筈はなかった。恐らく居待月に危険を知らせにきてくれたあの一頭が無事であればいいのだが、巻き込まれていたらと思うと胸が痛む。この音が聞こえる距離にいて、何かしらの反応を返してくれればいいが。

「……ん?」

 しばらく念入りにうろついているとかすかに声が聞こえた。話し声ではないようで、口笛に合わせて弱々しく鳴いている。しかし目印も何もない山の中でその方向を割り出すのはなかなかに骨の折れる作業だ。ともすると自分の立てる物音が邪魔で聞き分けられない。生物が一時的に退避していても、山には無数の音が存在していた。おまけに提灯を紛失して暗い。
 黄麻がいればだいぶ違ったのだろうが、彼の鈴の音も残念ながら近くにはない。まあ華奢で小柄であってもあの子はあやかしなのだし、幸良と新良は霊力があるので居待月が一番心配されていそうだった。それでもこうして何とか無事でいる。きっと皆もどこかで難を逃れていると信じたかった。

 ここでもないそこでもないと彷徨いながら、徐々にくだってようやく居待月は声の発生源を引き当てたようだ。すると幸良がこちらへひょっと顔を向けて「あー!」と元気な声を聞かせてくれる。明るいと思ったら護符ふだを燃やしているらしい。彼がそんな術を使えたとは知らなかった。

「先生、だいじょぶだった?!」
「うん」
「よかった~!」
「君は? 怪我してないかい、」
 と尋ねて強い血の匂いに頬がこわばる。慌てて彼のまえに回ると大きな狼がくったりと横たわり、幸良が自分の袖でその患部を押さえてやっていた。

「こいつが流されてくのが見えたから、力使って追っかけてきたんだけど……途中折れた木で引っ掛けたっぽい。結構ざっくり切れちゃってる」

 幸良自身は斥力で身を護りながら落ちてきたので殆ど無傷だったようだ。結界が張れないなりに戦闘でも使用する方法らしく、それが原因でこの狼が怪我をしたわけではないだろう。あやかしと無機物以外は斥力に弾き飛ばされることはない。

「私に任せて。……もう大丈夫だよ。知らせてくれてありがとう」

 一旦目を開け鼻を鳴らしたが、ふたたび力なく目をつむってしまった狼の頭をひと撫でする。居待月は幸良に頼んでもうすこし手元が明るくなるように、空中で燃えている護符を操作してもらった。一定の時間が過ぎると燃え尽きてしまうというので手短に処置をする。
 他にも悪いところがないか丁寧に診て、内臓の傷をきれいにしてから患部に手をかざす。集中を限界まで高めるとじわじわ掌が発熱を始める。いつもの感覚。

「わ……」

 幸良が慌てて自分のくちを押さえる。居待月の邪魔になると思ったのだろう。優しいし無邪気な少年だ。口元を緩めながら、内側から徐々に外側の傷まで治癒が及んでいき、やがてきれいに塞がるのを確認して手をおろす。苦しげだった呼吸も凪いでいる。何が起こったのだろうというように不思議そうにしている狼に水を飲ませ、「よく頑張ったね」ともう一度頭を撫でてやって、そろりと立ち上がった。

「幸良くん、先に移動しよう。あっちの崩れてないほうに」
「うん」

 狼を運んでやろうとしたようだがもうすっかりよくなって自分の脚でスタスタ歩いた。毛皮に広がる血の染み以外は元通りだ。あとで落としてあげたほうが群れに混乱を招かずに済むだろうか。

 キラキラと輝く双眸が説明を欲しているのは誰の目にも確実だった。居待月は自分の精気を一点に集中させ、作用することができる。物理攻撃を与えたり弾いたりもするが、医学の知識を利用し細胞に働きかけて活性化させる治癒のほうがより得意だ。そうは言っても人間の病は切って縫えば治るものばかりでもないため、薬の研究や治療法の勉強はずっと続けている。現に来良の命は救えなかった。
 もしかするとおなじことを考えていたのかもしれない。遠い目をしていた幸良と視線がかち合い、活発な彼の寂しげなほほ笑みに吐胸を衝かれる。『こればっかりはお前にも歯が立たないよ』と黄麻に言われても諦めがつかず、どうにかして予言を打ち破れないかと手を尽くしたつもりだったけれど、何もできなかった。

「申し訳ないことをした」
「……何?」

 落ちていた長い木の枝を拾い、行く手の地面が安全かつつきながらまえを行く幸良が半分振り向く。彼がどこを目指しているかは知らないが歩みを止めないので別行動するわけにもいかずあとに続いていた。狼は居待月のうしろにいる。

「来良くんのことだよ」
「ああ、いや、先生が謝る筋合いないって」

 むしろとてもよくしてくれて感謝してます、と大人びた口調で頭を下げる。

「一番怖くて、一番悔しいのはにいちゃん自身だったと思うから、そういうの俺達に残さないで全部自分だけで持ってっちゃったのは、すげーらしいかなって今は考えられるようになったんだ」
「……そうだね」
「だから先生もあんま引きずったりしないで、治せる人どんどん治したげてよ」

 特に似ているとは思えなかったが、最早記憶が曖昧になりかけている所為もあってか途中から来良の声で再生された。百人の命よりたったひとりに重きを置くなど医者として失格かもしれない。それでも、願わなかったと言えば嘘になるだろう。
 
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