21 / 64
第21話
しおりを挟む
もう互いに遠慮するような仲ではないけれど、さすがに実家では――ということで、私はゴードンのベッドで、彼は床で横になった。
いきなりやって来た上にベッドまで占領して、本当に申し訳ない。ただ、私がどれだけ「床で良い」と主張したところで交渉決裂間違いなし、時間の無駄なのだ。
彼は私のことが大好きすぎるし、大切にしすぎる。決してそれが嫌な訳ではないけれど、まるで繊細なガラス細工みたいに扱われると、くすぐったくていけない。他所でこんな扱いを受けることがないから、余計に慣れないのだ。
「――今日は本当に、胆が冷えたぞ」
「悪かったと思っているわ、驚かせてごめんなさい」
真っ暗闇のベッド横から低い声が聞こえてきて、私はまた申し訳ない気持ちを積み重ねる。何も見えないなりに真摯に向き合おうと横を向けば、体に巻きつけたシーツがしゅるりと音を立てた。
「今までに、こんなことはなかったし――いや、ずっとセラスが我慢していただけの話なんだろうけど。大荷物を抱えて、しかも唇まで切れていたから……誰かに殴られたのかと思って怖かった」
「……え?」
言われて初めて、下唇がピリッと痛んで口内に血の味が広がった。恐らく、ここへ来るまでに下唇をきつく噛み締めていたから、知らぬ間に自分の歯で傷付けていたのだと思う。
お茶を飲んでもシャワーを浴びても全く気付かなかったなんて、私は一体どれほど憤慨していたのだろうか。
「途端に痛くなったわ、ヒリヒリする……鉄の味もするし最低、明日は口紅を引けないかも」
「軟膏を取ってこようか?」
「……いい、眠たいし面倒くさい」
痛みと共に父母の顔や泣き叫ぶ妹の姿まで思い浮かんできて、気分が悪くなった。ストレスのせいか、頭が割れそうに痛む。
目を閉じたまま顔を顰めていると、横でゴソゴソと音がした。パッと目を開けば、暗闇の中ぼんやりと人影が見える。ゴードンはいつの間にか体を起こして、床の上に座り込んでいたらしい。
彼がベッド脇へ両肘をのせると、重みでマットレスが傾いた。
「――痛くないか?」
「………………痛いって言っているじゃない、血の味も――」
「そうじゃなくて……いや、それも心配だが、痛く――辛くないか?」
思いがけず、泣きそうになった。
痛いし、辛いし、これだけ私のことを心配してくれる人が居ることがただ幸せで、悲しいほどに嬉しい。
でもここで私が泣けば、まだ懲りずに家族の愛を求めているように思えて――惨めで、すごく嫌だった。ゴードンさえ居れば、それだけで満足だ。恵まれすぎているのではないかと不安に思うくらい、心が満ち足りる。
震える声で「平気よ」と言えば、少しだけ間を空けて優しい「そうか」が返ってくる。私の強がりはバレバレだろうか? 察した上で触れずに居てくれるのだろうか。
傾いたマットレスが元に戻る気配を感じて、今度は私が上体を起こした。
「ゴードンがベッドを使わないなら、私も床で寝るわ。――今日は妊娠しないと思うわよ」
明け透けに言えば、床から低くむせる声が聞こえた。今夜は、あまりに心細くていけない。彼の温もりを少しでも近くに感じたいのだ。
どうせ近いうちに結婚するとは言っても、世間体がある以上は順序を守らなければならない。結婚と言う名の『契約』なのだから、それをきちんと履行できない者とは、一緒に商売したくないと思われてしまうのだ。
「………………思うじゃ、困るだろ……『絶対に妊娠しない日』なんて都合の良い日は、この世に存在しない」
色んな感情と欲求を無理やり押さえつけたような余裕のない声が返ってきて、噴き出した。私の強がりの次はゴードンの強がりだ。
至極正しいことを言っている彼に構わず、私はベッドからずり落ちるようにして大きな体に飛び込んだ。
「あら、『保健体育』の成績が良かっただけあるわね、偉いわゴードンくん」
「茶化すな――その……避妊具あるから、ちゃんとしよう」
遠慮がちに抱きすくめられて、つい「結局するのね」と笑ってしまった。自分から持ち掛けておいてなんだけれど、あまりにも陥落するのが早すぎておかしい。
そっと床の上に寝かされて、真っ暗な部屋の中を大きな影が動く様を目で追った。灯りなどなくても、ゴードンにとっては勝手知ったる自分の部屋だ。迷いなく向かった先の引き出しが開けられる音や、ガサガサと袋が擦れるような音が室内に響く。
「……なあセラス。俺と結婚するからって、あまり気負わないで欲しい――その、子供のことも」
「え? そういう訳にはいかないわよ、次期商会長の自覚が足りないんじゃない?」
「とは言え……なんというか、俺はいまだに夢心地なんだ。まさかセラスと結婚できるなんて――もちろん子供は欲しいけど、お前にばかり負担を強いているようで複雑だ」
温かい手の平で両頬を包まれた。大きな体に似合わないか細い声が、「セラスはいつも我慢ばかりする、俺との結婚だってそうだ……」と囁いた。
どうしてここまで私のことを神聖視しているのかも謎だけれど、どうしていまだに片想いのつもりで居るのかも全くもって謎だ。
彼にプロポーズされる前に商会長夫妻から打診されて受けた婚約だったから、私が断りきれなかったのだと思い違いしているらしい。
化粧を覚えてからはそれなりに評判が良いとは言え、私のことをまるで誰もが傅く美女のように扱うのだから面白い。口癖のように「俺なんかと結婚して本当に良いのか」と気持ちを確かめてくるのが堪らない。
もう何度も肌を重ねているのに、そもそもこの婚約関係に私の気持ちが伴っていないと思われているのは癪だけど――なんだかこれ以上ないくらい特別な女になったような気になるから、わざわざ「両想いよ」なんて教えてあげない私も大概悪い。
自分は良い女なのだと勘違いできるから、辞められないのだ。
ただ意味深に笑って否定も肯定もせずに居れば、彼はどこまでも必死になってくれる。私が世界で一番幸福な女で居られるのは、間違いなくゴードンの隣だけなのに……なぜ気付かないのだろうか。鈍いにも程がある。
いつか――結婚して子供が生まれて生活が落ち着いたら、その時はちゃんと「ずっと前から両想いだ」と伝えて甘やかそう。商会の世話になったからその流れでとか、昔からの付き合いで仕方なくとか、そんな理由で結婚を決めた訳ではないのだと。
ただ、それまでは私を神輿に乗せて担ぎ上げてもらおう。こうして気兼ねなく甘えられるのも、彼だけだから――。
いきなりやって来た上にベッドまで占領して、本当に申し訳ない。ただ、私がどれだけ「床で良い」と主張したところで交渉決裂間違いなし、時間の無駄なのだ。
彼は私のことが大好きすぎるし、大切にしすぎる。決してそれが嫌な訳ではないけれど、まるで繊細なガラス細工みたいに扱われると、くすぐったくていけない。他所でこんな扱いを受けることがないから、余計に慣れないのだ。
「――今日は本当に、胆が冷えたぞ」
「悪かったと思っているわ、驚かせてごめんなさい」
真っ暗闇のベッド横から低い声が聞こえてきて、私はまた申し訳ない気持ちを積み重ねる。何も見えないなりに真摯に向き合おうと横を向けば、体に巻きつけたシーツがしゅるりと音を立てた。
「今までに、こんなことはなかったし――いや、ずっとセラスが我慢していただけの話なんだろうけど。大荷物を抱えて、しかも唇まで切れていたから……誰かに殴られたのかと思って怖かった」
「……え?」
言われて初めて、下唇がピリッと痛んで口内に血の味が広がった。恐らく、ここへ来るまでに下唇をきつく噛み締めていたから、知らぬ間に自分の歯で傷付けていたのだと思う。
お茶を飲んでもシャワーを浴びても全く気付かなかったなんて、私は一体どれほど憤慨していたのだろうか。
「途端に痛くなったわ、ヒリヒリする……鉄の味もするし最低、明日は口紅を引けないかも」
「軟膏を取ってこようか?」
「……いい、眠たいし面倒くさい」
痛みと共に父母の顔や泣き叫ぶ妹の姿まで思い浮かんできて、気分が悪くなった。ストレスのせいか、頭が割れそうに痛む。
目を閉じたまま顔を顰めていると、横でゴソゴソと音がした。パッと目を開けば、暗闇の中ぼんやりと人影が見える。ゴードンはいつの間にか体を起こして、床の上に座り込んでいたらしい。
彼がベッド脇へ両肘をのせると、重みでマットレスが傾いた。
「――痛くないか?」
「………………痛いって言っているじゃない、血の味も――」
「そうじゃなくて……いや、それも心配だが、痛く――辛くないか?」
思いがけず、泣きそうになった。
痛いし、辛いし、これだけ私のことを心配してくれる人が居ることがただ幸せで、悲しいほどに嬉しい。
でもここで私が泣けば、まだ懲りずに家族の愛を求めているように思えて――惨めで、すごく嫌だった。ゴードンさえ居れば、それだけで満足だ。恵まれすぎているのではないかと不安に思うくらい、心が満ち足りる。
震える声で「平気よ」と言えば、少しだけ間を空けて優しい「そうか」が返ってくる。私の強がりはバレバレだろうか? 察した上で触れずに居てくれるのだろうか。
傾いたマットレスが元に戻る気配を感じて、今度は私が上体を起こした。
「ゴードンがベッドを使わないなら、私も床で寝るわ。――今日は妊娠しないと思うわよ」
明け透けに言えば、床から低くむせる声が聞こえた。今夜は、あまりに心細くていけない。彼の温もりを少しでも近くに感じたいのだ。
どうせ近いうちに結婚するとは言っても、世間体がある以上は順序を守らなければならない。結婚と言う名の『契約』なのだから、それをきちんと履行できない者とは、一緒に商売したくないと思われてしまうのだ。
「………………思うじゃ、困るだろ……『絶対に妊娠しない日』なんて都合の良い日は、この世に存在しない」
色んな感情と欲求を無理やり押さえつけたような余裕のない声が返ってきて、噴き出した。私の強がりの次はゴードンの強がりだ。
至極正しいことを言っている彼に構わず、私はベッドからずり落ちるようにして大きな体に飛び込んだ。
「あら、『保健体育』の成績が良かっただけあるわね、偉いわゴードンくん」
「茶化すな――その……避妊具あるから、ちゃんとしよう」
遠慮がちに抱きすくめられて、つい「結局するのね」と笑ってしまった。自分から持ち掛けておいてなんだけれど、あまりにも陥落するのが早すぎておかしい。
そっと床の上に寝かされて、真っ暗な部屋の中を大きな影が動く様を目で追った。灯りなどなくても、ゴードンにとっては勝手知ったる自分の部屋だ。迷いなく向かった先の引き出しが開けられる音や、ガサガサと袋が擦れるような音が室内に響く。
「……なあセラス。俺と結婚するからって、あまり気負わないで欲しい――その、子供のことも」
「え? そういう訳にはいかないわよ、次期商会長の自覚が足りないんじゃない?」
「とは言え……なんというか、俺はいまだに夢心地なんだ。まさかセラスと結婚できるなんて――もちろん子供は欲しいけど、お前にばかり負担を強いているようで複雑だ」
温かい手の平で両頬を包まれた。大きな体に似合わないか細い声が、「セラスはいつも我慢ばかりする、俺との結婚だってそうだ……」と囁いた。
どうしてここまで私のことを神聖視しているのかも謎だけれど、どうしていまだに片想いのつもりで居るのかも全くもって謎だ。
彼にプロポーズされる前に商会長夫妻から打診されて受けた婚約だったから、私が断りきれなかったのだと思い違いしているらしい。
化粧を覚えてからはそれなりに評判が良いとは言え、私のことをまるで誰もが傅く美女のように扱うのだから面白い。口癖のように「俺なんかと結婚して本当に良いのか」と気持ちを確かめてくるのが堪らない。
もう何度も肌を重ねているのに、そもそもこの婚約関係に私の気持ちが伴っていないと思われているのは癪だけど――なんだかこれ以上ないくらい特別な女になったような気になるから、わざわざ「両想いよ」なんて教えてあげない私も大概悪い。
自分は良い女なのだと勘違いできるから、辞められないのだ。
ただ意味深に笑って否定も肯定もせずに居れば、彼はどこまでも必死になってくれる。私が世界で一番幸福な女で居られるのは、間違いなくゴードンの隣だけなのに……なぜ気付かないのだろうか。鈍いにも程がある。
いつか――結婚して子供が生まれて生活が落ち着いたら、その時はちゃんと「ずっと前から両想いだ」と伝えて甘やかそう。商会の世話になったからその流れでとか、昔からの付き合いで仕方なくとか、そんな理由で結婚を決めた訳ではないのだと。
ただ、それまでは私を神輿に乗せて担ぎ上げてもらおう。こうして気兼ねなく甘えられるのも、彼だけだから――。
0
あなたにおすすめの小説
【完】夫に売られて、売られた先の旦那様に溺愛されています。
112
恋愛
夫に売られた。他所に女を作り、売人から受け取った銀貨の入った小袋を懐に入れて、出ていった。呆気ない別れだった。
ローズ・クローは、元々公爵令嬢だった。夫、だった人物は男爵の三男。到底釣合うはずがなく、手に手を取って家を出た。いわゆる駆け落ち婚だった。
ローズは夫を信じ切っていた。金が尽き、宝石を差し出しても、夫は自分を愛していると信じて疑わなかった。
※完結しました。ありがとうございました。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
『すり替えられた婚約、薔薇園の告白
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢シャーロットは幼馴染の公爵カルロスを想いながら、伯爵令嬢マリナの策で“騎士クリスとの婚約”へとすり替えられる。真面目なクリスは彼女の心が別にあると知りつつ、護るために名乗りを上げる。
社交界に流される噂、贈り物の入れ替え、夜会の罠――名誉と誇りの狭間で、言葉にできない愛は揺れる。薔薇園の告白が間に合えば、指輪は正しい指へ。間に合わなければ、永遠に
王城の噂が運命をすり替える。幼馴染の公爵、誇り高い騎士、そして策を巡らす伯爵令嬢。薔薇園で交わされる一言が、花嫁の未来を決める――誇りと愛が試される、切なくも凛とした宮廷ラブロマンス。
皇帝の命令で、側室となった私の運命
佐藤 美奈
恋愛
フリード皇太子との密会の後、去り行くアイラ令嬢をアーノルド皇帝陛下が一目見て見初められた。そして、その日のうちに側室として召し上げられた。フリード皇太子とアイラ公爵令嬢は幼馴染で婚約をしている。
自分の婚約者を取られたフリードは、アーノルドに抗議をした。
「父上には数多くの側室がいるのに、息子の婚約者にまで手を出すつもりですか!」
「美しいアイラが気に入った。息子でも渡したくない。我が皇帝である限り、何もかもは我のものだ!」
その言葉に、フリードは言葉を失った。立ち尽くし、その無慈悲さに心を打ちひしがれた。
魔法、ファンタジー、異世界要素もあるかもしれません。
【完結】消された第二王女は隣国の王妃に熱望される
風子
恋愛
ブルボマーナ国の第二王女アリアンは絶世の美女だった。
しかし側妃の娘だと嫌われて、正妃とその娘の第一王女から虐げられていた。
そんな時、隣国から王太子がやって来た。
王太子ヴィルドルフは、アリアンの美しさに一目惚れをしてしまう。
すぐに婚約を結び、結婚の準備を進める為に帰国したヴィルドルフに、突然の婚約解消の連絡が入る。
アリアンが王宮を追放され、修道院に送られたと知らされた。
そして、新しい婚約者に第一王女のローズが決まったと聞かされるのである。
アリアンを諦めきれないヴィルドルフは、お忍びでアリアンを探しにブルボマーナに乗り込んだ。
そしてある夜、2人は運命の再会を果たすのである。
前世で私を嫌っていた番の彼が何故か迫って来ます!
ハルン
恋愛
私には前世の記憶がある。
前世では犬の獣人だった私。
私の番は幼馴染の人間だった。自身の番が愛おしくて仕方なかった。しかし、人間の彼には獣人の番への感情が理解出来ず嫌われていた。それでも諦めずに彼に好きだと告げる日々。
そんな時、とある出来事で命を落とした私。
彼に会えなくなるのは悲しいがこれでもう彼に迷惑をかけなくて済む…。そう思いながら私の人生は幕を閉じた……筈だった。
【完結】番(つがい)でした ~美しき竜人の王様の元を去った番の私が、再び彼に囚われるまでのお話~
tea
恋愛
かつて私を妻として番として乞い願ってくれたのは、宝石の様に美しい青い目をし冒険者に扮した、美しき竜人の王様でした。
番に選ばれたものの、一度は辛くて彼の元を去ったレーアが、番であるエーヴェルトラーシュと再び結ばれるまでのお話です。
ヒーローは普段穏やかですが、スイッチ入るとややドS。
そして安定のヤンデレさん☆
ちょっぴり切ない、でもちょっとした剣と魔法の冒険ありの(私とヒロイン的には)ハッピーエンド(執着心むき出しのヒーローに囚われてしまったので、見ようによってはメリバ?)のお話です。
別サイトに公開済の小説を編集し直して掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる