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01:退屈な世界を砕く青
しおりを挟むそれは、運命と呼ぶにはあまりにチープで。
偶然と呼ぶには――少し出来すぎていた。
「涼真、22番の様子見てこいよ。部屋入ってからオーダーもないし、女を連れ込んでるかもしれないな。アレ中なら動画撮ってきてもいいぞ」
「うっす。あ、動画は撮らないっすよ流石に」
俺は下卑た笑みを浮かべるボサボサ髪の青年――自称ミュージシャンの野田先輩――に軽く返事をし、キッチンを出た。クソみたいな命令でも、聞かなければならないのがアルバイトの辛いところだ。俺は大人だからいちいち反発などしないけどね。
そもそも、俺が通っている私立桜香高校から少し離れた繁華街にある、このカラオケボックスでのバイトはイレギュラーなものだった。もっと端的に言えば俺は、今日急にバイト行きたくないと駄々をこねた実の姉である御堂千絵の代打だった。
姉はプロのメイクアップアーティストを目指して専門学校に通っているが、色んなアルバイトをしており、ここもその一つだった。
この店の店長が姉とそういう仲のおかげで、高校生の弟が代わりにシフトに入るという暴挙を許している。いや、普通許すかね? コンプライアンスどうなってんだよ。ま、幸い俺は器用だし物覚えも良いので、一時間程度でバイトがこなす業務を完璧に理解した。何ならもっと効率良く出来る方法も思い付いたが、それをタダ働きでわざわざ提供する気はない。
キッチンから出て、鏡張りになっている悪趣味な廊下を歩く。漏れる歌声とビート。大声で喚く酔っ払いに、禁煙なはずの店内のどこからか漂う紫煙とアルコールの香り。
高校生の俺からすれば、この世の堕落が全て詰まっているような空間だ。繁華街の個人経営のカラオケボックスなんてのは、どこもこんなものなのかもしれないが。
鏡にはこの店の制服である黒のエプロンを着た、長身で少し長めの黒髪が良く似合うカッコイイ男子が映っていた。うん、つまり俺のことだ。
「ま、上には上がいるけどね」
そのことを俺が一番良く知っている。だけど、高校という狭い世界の中だけで言えば、俺がトップに降臨していることは、自他共に認めざるを得ない事実だった。
いわゆる陽キャ、リア充。
スクールカーストのトップ、なんていう馬鹿らしい称号も自己紹介する際には便利だ。
頭脳明晰、イケメン、ユーモアのある紳士……etcetc、俺を飾る言葉は山ほどあるし、それが果たして真実なのかどうかは俺には分からない。
だが、当然のように俺の周囲には美男美女が集まり、おかげさまで面白おかしい高校生活を送っていた。
そんな俺が唯一、高校生らしいことでしていないことと言えば恋愛ぐらいだろう。色々と理由はあるが、雑に言えば惹かれる女性がいなかった。何より、惚れただの、腫れただののアレコレがめんどくさかった。
今のままでも十分に楽しいのにこれ以上何が必要なんだ? そういう自問自答が常に俺の頭の中で渦巻いていた。
だから俺はきっと満ち足りていた。
全てが思う通りであり、仮にそうでなくてもそれを楽しめる余裕があった。
世界は愉快で明るく、だけど何より――退屈だった。
そんな俺の世界に、ヒビが入る。
「ん? 歌……か?」
22番の部屋からは案の定、女性の嬌声が聞こえてくるので俺は聞かなかったフリをしてキッチンに戻ろうとする。その時、突き当たりにある部屋から、歌が微かに聞こえてきていることに気付いた。
それは、音楽にそれなりに詳しい俺でも聞いたことのない曲だった。
この騒がしい廊下で――なぜ、その歌に俺は気付いたのか。
それは分からないけれど、間違いなくその歌に、一撃で惹かれた。
マイクを通していない生声。澄んだ群青色の朝のような少女の歌。優しく語りかけるようなその歌声に反して、その一音一音が力強く脳に響く。
それは一種の快感となって俺の身体を駆け抜けていった。
初めて、ホルストの【惑星】を生で聴いた時と同じような衝撃だ。それはもう、いっそ暴力的だった。
漏れ出ている歌だけで、人はここまで感動出来るのだろうか? 俺はまるで砂漠で水を求める旅人のように、飢えた顔付きでその突き当たりの部屋の扉の前へと進んでいた。
見れば、ドアと壁の隙間に潰れた紙コップが挟まっており、防音仕様の扉が完全に閉まっていない。そこから、その歌が漏れ出ていたのだ。
掃除をサボったであろう野田先輩が作ってくれた、小さな隙間。あるいは、ちょっとした奇跡。
姉から聞いた話だが、カラオケボックスで歌や楽器の練習をする人は一定数いるらしい。オリジナルっぽいこの歌を歌っているこの部屋の中の人もそうなのだろうか?
俺が、扉のガラス窓から中を覗くことの後ろめたさと、もっとこの歌をちゃんと聞きたい、これを歌っている人の顔を見たい、という言い知れぬ欲求の狭間で戦っていると――
ガチャリ、と扉が開いた。
「あの……もう時間ですか?」
俺が扉の前で挙動不審だったのを見て、訝かしがって出てきたのだろう。
「あ、えっと……オーダーを取ろうと」
俺は珍しくしどろもどろになりながら秒で思い付いたような嘘を口にした。
「何も頼んでませんし、オーダーなら端末からするんじゃ……って、え?」
多分、それは同時だったと思う。
テンパっていた俺がようやく、胸の辺りの高さから俺を見上げるその少女の顔に見覚えがある事に気付き、そしてその子もまた俺の声を聞いて俺が彼女と同じ高校に通うクラスメイトであることに気付いたことが。
「なななな、なんで御堂君がここに!? 待ってまって、無理、なんで、え? バイト? こんな飲み屋街のカラオケボックスなら知り合いもいないだろうってわざわざ調べて来たのに!? なんで!?」
先ほどとは打って変わって、早口でまくしたてるその少女の名前を俺は思い出し、口にした。
「地道……さん、だよね?」
地味な色のワンピースを着た高校生にしては小さな体躯に、黒髪を肩の辺りで整えただけのショーカット。化粧っ気のない顔に野暮ったい黒縁の眼鏡。
その少女は同じクラスの、地道瑠璃子だった。
「っ!! ご、ごめんなさい!!」
なぜか彼女は俺に謝ると、脱兎の如き速度で部屋に戻り、置いてあった鞄を引っ掴むと、そのまま俺の横をダッシュで通り過ぎていった。ふわりと香るのは、シャンプーの匂いだろうか。
まるで嵐が去ったかのような感覚に囚われた俺は、ただただ、そこに佇むしかなかった。まだ――耳を澄ませばあの歌が聞こえるような気がしたからだ。
こうして俺の完璧で退屈な青春は終わりを告げた。
彼女が――群青色の歌でぶっ壊したんだ。
俺の心の中で、何かが騒ぎはじめた。
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