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齟齬
百八十四.手配の家康
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天正十一年十月十六日 戌の刻
「お呼びでございましょうか。」
夜になって家康を訪れたのは、本多弥八郎正信である。ここのところ重臣の石川数正は家康の取次役となって三河と京の往復で忙しく、代わって正信が家康の相談役のような役割を担っている。かつては主君を裏切り命を奪おうともした正信は、三河を追放され、諸国の戦場を転々とした。重臣・大久保新十郎忠世のとりなしにより、帰参して再び家康に仕えることとなったが、十年の流浪の間に培った諜報力は好奇心旺盛な家康を大いに喜ばせ、次第に参謀として家康の側に身を置くまでとなっていた。家康は正信を近くまで呼び寄せ、書状の束を渡す。
「これらを宛名の元へ送ってくれぇ。」
「数正殿はまだ戻っておられないので・・・。」
「近頃は京におる方が長くなっておる。まさかあの堅物が女子遊びに耽っとるとは思えんがなっ・・・。はっはっはっ。」
正信は受け取った書状の宛名を確認する。
「鞆の公方様、安芸の毛利、四国の長宗我部、越中の佐々、それに北条と・・・。これは一体・・・。」
「筑前包囲網じゃ。まぁっ、あてにはしとらんがのぉ。」
「中身は・・・。」
家康は惚けた口調で返す。
「筑前が朝廷に取り繕い、信長公の御曹司・信雄殿を蔑ろにし、己の権力を恣にするために信雄殿の家督を認めようとせぬのは如何なものかっ・・・、苦悩される信雄殿をわしは御救いしたい、・・・といったところかのぅ」
「では殿は筑前殿に対して兵を挙げられるおつもりですか。しかし現在はわれらの領も大雨で甚大な被害を被っておりまする。戦をする余裕なぞ、ないと思われますがぁ・・・。」
鬼気迫る目付きの正信に対して、家康は揶揄い気味に応える。
「いやいやっ、わしらが兵を挙げるはあくまで信雄殿が兵を挙げでからじゃぁ。今はまだ『共に兵を挙げようぞ。』といったことは一言も書いておらん。書状の目的は、筑前が戦をやらかそうとした折に、『よく考えよ・・・。』と筑前を戒めるための支度じゃ。」
「大義はわれらにありと広めておくわけですな。」
「あぁそうじゃ。信孝殿らのように戦が始まってから呼び掛けても、所詮足元を見透かされるだけじゃ。日頃からこうして皆に云いふらかしておけば、皆は勝手にわれらに大義ありと思い込む。いざ信雄殿が鬨の声を上げ、間髪なくわれらも続くとなれば、皆もわれらと与やすくなるじゃろぅてぇ・・・。」
正信は感心する。
「殿は筑前殿に劣らぬ『策士』ですな。」
「これから『人たらし』の筑前は信雄殿を何かと云い包めようと様々に諮るじゃろう。じゃが先に周りがわれらに都合のよい見方をするようになっておればぁ・・・、筑前の一手はもはや手遅れじゃ。」
家康が得意気に語る。しかしその様を見せつけられると、素直でない正信は一言付け加えたくなる性分である。
「殿は筑前殿が御嫌いですか・・・。」
「嫌いというわけではない。わしが警戒するは、筑前が力を持ちすぎることじゃぁ。強き者に従うは、義元公と信長公だけでもう懲り懲りじゃあ。」
「然様でございますかぁ。つかぬことをお伺いしました。ならば信雄様と筑前殿とがいずれ決裂するは確実ですな。然れどぉ・・・。」
「いかがしたっ・・・。」
正信は書状の一つを抜き取り、家康に手渡す。
「この雑賀の棟梁への書状は不要でございまする。」
「何故じゃぁ。」
「既に雑賀衆は動いておるからでございまする。」
この勿体ぶった正信の諫言を家康は気に入っている。
「筑前殿が本願寺の光佐殿を懐柔して鷺森から連れ出し、その跡の旗印のない紀州を攻める支度を着々と進めております。それを察知した雑賀どもは先手を討たんと密かに動いておりまする。暫くすれば和泉の一帯は騒がしくなりましょう。」
家康はにやつく。
「そうかぁ。よう教えてくれた。じゃがそれなら尚の事、書状が必要じゃな。中身は書き換えんといかんがぁ・・・。」
「そうされた方がよろしいかと・・・。」
「然れど雑賀や根来寺が起こす戦なぞ、小競り合いに過ぎんじゃろうなぁ。其方は彼の地にも詳しいのかぁ。」
家康と正信の会話はいつも一方向ではない。家康は惚けた装いで正信の情報に耳を傾けるも、そのすべてを吸収しようとする。その姿勢は正信にも心地よい。
「はいっ。彼の地の者らは銭で動く者ばかりでございまする。光佐殿の後ろ盾がなければ戦は早く片付きましょう。然れど彼等に褒美をちらつかせれば長戦に持ち込めるかとっ。和泉の国なら港が手に入り、大いに喜びましょう。」
「己らで港を拓けば良いものをぉ・・・、面倒臭い輩じゃのぉ。」
「彼の者たちは、港を創るほどの大勢をまとめ上げられない性分なのです。」
「精々火薬の調合しかできんというわけかぁ。まぁ、筑前を困らせれば良しじゃわぃ。」
「それとぉ・・・、この書状もこの書状も要りませぬなっ。」
「それは内大臣様宛てのぉ・・・、そっちは左大臣様宛てのぉ・・・、何でじゃぁ。」
「信雄様を押し立てたところで、朝廷は興味がございませぬ。公家、とりわけ参議に列する者らにとっては銭の方が大事。恩着せがましい言葉を連ねて彼等を退屈にさせるよりかは、いつもの貢物を幾分か増やしてやる方が効き目がありまする。」
「はぁぁっ、皆銭が好きよのぉ。公家も雑賀の連中と変わらんではないかぁっ・・・。」
「お呼びでございましょうか。」
夜になって家康を訪れたのは、本多弥八郎正信である。ここのところ重臣の石川数正は家康の取次役となって三河と京の往復で忙しく、代わって正信が家康の相談役のような役割を担っている。かつては主君を裏切り命を奪おうともした正信は、三河を追放され、諸国の戦場を転々とした。重臣・大久保新十郎忠世のとりなしにより、帰参して再び家康に仕えることとなったが、十年の流浪の間に培った諜報力は好奇心旺盛な家康を大いに喜ばせ、次第に参謀として家康の側に身を置くまでとなっていた。家康は正信を近くまで呼び寄せ、書状の束を渡す。
「これらを宛名の元へ送ってくれぇ。」
「数正殿はまだ戻っておられないので・・・。」
「近頃は京におる方が長くなっておる。まさかあの堅物が女子遊びに耽っとるとは思えんがなっ・・・。はっはっはっ。」
正信は受け取った書状の宛名を確認する。
「鞆の公方様、安芸の毛利、四国の長宗我部、越中の佐々、それに北条と・・・。これは一体・・・。」
「筑前包囲網じゃ。まぁっ、あてにはしとらんがのぉ。」
「中身は・・・。」
家康は惚けた口調で返す。
「筑前が朝廷に取り繕い、信長公の御曹司・信雄殿を蔑ろにし、己の権力を恣にするために信雄殿の家督を認めようとせぬのは如何なものかっ・・・、苦悩される信雄殿をわしは御救いしたい、・・・といったところかのぅ」
「では殿は筑前殿に対して兵を挙げられるおつもりですか。しかし現在はわれらの領も大雨で甚大な被害を被っておりまする。戦をする余裕なぞ、ないと思われますがぁ・・・。」
鬼気迫る目付きの正信に対して、家康は揶揄い気味に応える。
「いやいやっ、わしらが兵を挙げるはあくまで信雄殿が兵を挙げでからじゃぁ。今はまだ『共に兵を挙げようぞ。』といったことは一言も書いておらん。書状の目的は、筑前が戦をやらかそうとした折に、『よく考えよ・・・。』と筑前を戒めるための支度じゃ。」
「大義はわれらにありと広めておくわけですな。」
「あぁそうじゃ。信孝殿らのように戦が始まってから呼び掛けても、所詮足元を見透かされるだけじゃ。日頃からこうして皆に云いふらかしておけば、皆は勝手にわれらに大義ありと思い込む。いざ信雄殿が鬨の声を上げ、間髪なくわれらも続くとなれば、皆もわれらと与やすくなるじゃろぅてぇ・・・。」
正信は感心する。
「殿は筑前殿に劣らぬ『策士』ですな。」
「これから『人たらし』の筑前は信雄殿を何かと云い包めようと様々に諮るじゃろう。じゃが先に周りがわれらに都合のよい見方をするようになっておればぁ・・・、筑前の一手はもはや手遅れじゃ。」
家康が得意気に語る。しかしその様を見せつけられると、素直でない正信は一言付け加えたくなる性分である。
「殿は筑前殿が御嫌いですか・・・。」
「嫌いというわけではない。わしが警戒するは、筑前が力を持ちすぎることじゃぁ。強き者に従うは、義元公と信長公だけでもう懲り懲りじゃあ。」
「然様でございますかぁ。つかぬことをお伺いしました。ならば信雄様と筑前殿とがいずれ決裂するは確実ですな。然れどぉ・・・。」
「いかがしたっ・・・。」
正信は書状の一つを抜き取り、家康に手渡す。
「この雑賀の棟梁への書状は不要でございまする。」
「何故じゃぁ。」
「既に雑賀衆は動いておるからでございまする。」
この勿体ぶった正信の諫言を家康は気に入っている。
「筑前殿が本願寺の光佐殿を懐柔して鷺森から連れ出し、その跡の旗印のない紀州を攻める支度を着々と進めております。それを察知した雑賀どもは先手を討たんと密かに動いておりまする。暫くすれば和泉の一帯は騒がしくなりましょう。」
家康はにやつく。
「そうかぁ。よう教えてくれた。じゃがそれなら尚の事、書状が必要じゃな。中身は書き換えんといかんがぁ・・・。」
「そうされた方がよろしいかと・・・。」
「然れど雑賀や根来寺が起こす戦なぞ、小競り合いに過ぎんじゃろうなぁ。其方は彼の地にも詳しいのかぁ。」
家康と正信の会話はいつも一方向ではない。家康は惚けた装いで正信の情報に耳を傾けるも、そのすべてを吸収しようとする。その姿勢は正信にも心地よい。
「はいっ。彼の地の者らは銭で動く者ばかりでございまする。光佐殿の後ろ盾がなければ戦は早く片付きましょう。然れど彼等に褒美をちらつかせれば長戦に持ち込めるかとっ。和泉の国なら港が手に入り、大いに喜びましょう。」
「己らで港を拓けば良いものをぉ・・・、面倒臭い輩じゃのぉ。」
「彼の者たちは、港を創るほどの大勢をまとめ上げられない性分なのです。」
「精々火薬の調合しかできんというわけかぁ。まぁ、筑前を困らせれば良しじゃわぃ。」
「それとぉ・・・、この書状もこの書状も要りませぬなっ。」
「それは内大臣様宛てのぉ・・・、そっちは左大臣様宛てのぉ・・・、何でじゃぁ。」
「信雄様を押し立てたところで、朝廷は興味がございませぬ。公家、とりわけ参議に列する者らにとっては銭の方が大事。恩着せがましい言葉を連ねて彼等を退屈にさせるよりかは、いつもの貢物を幾分か増やしてやる方が効き目がありまする。」
「はぁぁっ、皆銭が好きよのぉ。公家も雑賀の連中と変わらんではないかぁっ・・・。」
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