生残の秀吉

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齟齬

百八十五.俄拵の恵瓊

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天正十一年十一月一日 未の刻

「もっ、申し訳ございませぬぅっ・・・。」

妙見寺跡みょうけんじあとの城に恵瓊えけいの大きな謝罪の声が響く。広間に入った秀吉ひでよし恵瓊えけいの大声に戸惑い、一旦は立ち止まるものの、それからゆっくりと上座に座す。秀吉ひでよし恵瓊えけいの後ろには見慣れぬ二人の若者が座していることをさっする。

「一応、訊こうかぁ・・・。」

低い調子の秀吉ひでよしの声に、恵瓊えけいの背筋が凍る。

「はっ。半月ほど前、わたくしめがさかいより安芸あきに戻りましたところ、急ぎ御館様おやかたさまに呼ばれましてぇ・・・、婚儀の先延さきのばしを申し付けられました。訳をお尋ねしたところ、三河様みかわさまより書状が届いたとのことでぇ・・・。」

徳川とくがわからの書状のぉ・・・。」

既に秀吉ひでよしには書状の中身が見当ついている。恵瓊えけいもそれをさっするが、忌憚きたんなく続ける。

「書状によれば、筑前守様ちくぜんのかみさま織田おだ家を乗っ取らんと、信雄様のぶかつさましいたげておるとのことっ・・・。もちろん斯様かよう讒言ざんげんっ、御館様おやかたさまが信じることは万に一つもございませぬがぁ、とも公方様くぼうさま、それに四国しこく長宗我部ちょうそかべにも同じ書状をてておるようでぇ・・・、となると国分くにわけ紀州攻きしゅうぜめに専念できず、事を進められぬと申されましてぇ・・・。」

もはや今の恵瓊えけい秀吉ひでよしに隠し事はしない。堂々と家康いえやすの暗躍をぐちする。秀吉ひでよし恵瓊えけいを疑っていない。

「書状には何と書いてあったんじゃぁ・・・。」

「はっ。筑前守様ちくぜんのかみさま横暴おうぼうぶり、信雄様のぶかつさまが肩身の狭い思いをされておられることが長々とつらねられておりましたが、兵を挙げよとまでは書かれておらず・・・。おそらく三河様みかわさまにはいくさをするほどの猶予ゆうよはないのかと・・・。」

この頃になると恵瓊えけい秀吉ひでよしが何を気にしているのかが分かるようになっており、かつてのような秀吉ひでよしにどやされる間柄あいだがらではない。秀吉ひでよし恵瓊えけいの方をじっとにらみながらも、恵瓊えけいを責める気など全くなく、ただただ家康いえやすしたたかさに歯軋はぎしりする思いで一杯である。

「確かに三河みかわは今年は実りが悪いはずじゃぁ。兵糧ひょうろう支度したくなんぞでけんじゃろぉ。じゃが家康いえやすは今のうちにおのれが一番の織田おだ家の忠臣であると周りに広めるつもりじゃぁっ。紀州攻きしゅうぜめを躊躇ためらわさせ、わしらの力を抑え続け、いずれみやこに入るっ・・・。わしと三介殿さんすけどのとの間に造った溝を皆にうかがわせて、いざ自分は高見たかみの見物じゃぁ。」

家康いえやすはかりごとにはそつがない・・・、秀吉ひでよし歯痒はがゆさを覚えるばかりである。折角せっかく命をおびやかされない日常を過ごせると思っていたのに、また新しい不安の種が芽生めばえようとしている。恵瓊えけいは思い詰める秀吉ひでよしに少しでもいたい。

「全くせぬことにございまする。されど国主の御館様おやかたさまの慎重な御考おかんがえにも一理ございますしぃ、如何いかがしたものかと頭をかかえるところであります。そこで叔父おじ又四郎様またしろうさまから一つ御提案ごていあんがありましてぇ・・・。」

又四郎またしろう・・・、小早川殿こばやかわどののことかぁ・・・。」

「はいっ。毛利もうり公方様くぼうさまを囲い、長宗我部ちょうそかべ牽制けんせいするに専念するしかありませぬ。しかし筑前守様ちくぜんのかみさまとの御縁ごえんないがしろにはできませぬゆえ、ここはこちらにひかえる小早川藤四郎様こばやかわとうしろうさま吉川又次郎様きっかわまたじろうさま人質ひとじちとして差し出すことと致しました。」

恵瓊えけいの背後の若者二人が、そろって秀吉ひでよしに一礼する。

小早川こばやかわぁ・・・、吉川きっかわぁ・・・、毛利もうり両川りょうせんせがれをわしの元にかぁ・・・。」

「はいっ、これはわれら毛利もうり筑前守様ちくぜんのかみさま御慕おしたもうげているあかしぃっ・・・。婚儀が取り計らわれるまでは、これで御容赦ごようしゃいただきたくぅ・・・。」

これが恵瓊えけいの目一杯の忠誠であることは、秀吉ひでよしも理解する。もはや毛利もうりよしみを通じるのは時間の問題のはずであったが、それを家康いえやすはばんでいると考えると、秀吉ひでよしの心中の怒りはおさまらない。しかし秀吉ひでよしはそれを恵瓊えけいに見せない。相変わらず秀吉ひでよしの口調は低い。

「考えたのぉ、恵瓊殿えけいどのっ・・・、いやっ、小早川殿こばやかわどのというべきかぁ・・・。」

おそおおくございまするぅっ・・・。又四郎様またしろうさま筑前守様ちくぜんのかみさまとともに西国さいごくおさめるのが一番良いと御考おかんがえでございまする。苦肉の策であることはいなめませぬが、どうぞ又四郎様またしろうさま筑前守様ちくぜんのかみさま御味方おみかたであることをお忘れなさらず下さいませぇっ・・・。」

秀吉ひでよしの張り詰めた様相が、若干じゃっかんやわらぐ。

「分かったぁ。藤四郎殿とうしろうどの又次郎殿またじろうどのを喜んで迎えよう。」

筑前守様ちくぜんのかみさま御心遣おこころづかいっ、感謝いたしまする。」

恵瓊えけいと二人の若者が深々と頭を下げる。しかし間も無く秀吉ひでよしの目元が再びがる。

「されどこのまま徳川とくがわの思惑通りになってしまうんはあやうい。紀州攻きしゅうぜめはわしらだけで始めさせてもらう。」

「されど毛利もうりが手を貸さなければ、雑賀さいかども相手に長戦ながいくさになってしまうのでは・・・。」

毛利もうりをあてにしちょったんは認めるがぁ、そぉも云っとられん。このまま黙っちょれば、せっかく紀州きしゅうから切り離した本願寺ほんがんじにまた鬱陶うっとうしいやからたむろしてまうし、そうなっちゃらぁ、そんこそ徳川とくがわの思う壺じゃぁ。」

「勝算はございますかぁ・・・。」

を外さねばいくさをすぐに終わらせようがぁ・・・、たとい紀州きしゅうを平らげたところで、家康いえやすは傷一つ付かず胡座あぐらをかいとるだけじゃぁ。おそらく家康いえやす溜息ためいきく間も無く、次の一手を講じるじゃろぉ。紀州攻きしゅうぜめと一緒に、家康いえやすには別の策を講じとかんとのぉ・・・。」

恵瓊えけい柴田しばたとのいくさの頃のように、少しでも秀吉ひでよしの役に立ちたいとの思いが強くなっているのを覚え、良策をひねそうとする。

れば、筑前守様ちくぜんのかみさま信雄様のぶかつさまが手を取り合うようになるのが一番かと・・・。すれば三河殿みかわどのの思惑が根底からくずれまする。」

秀吉ひでよし恵瓊えけいが事の本質を見抜いていることに感心するも、現在置かれている不利な立場が気分を暗いままにする。

「やはり其方そなたもそんしかねぇと考えるかぁ・・・。じゃが家督かとくの話は譲れん。さてぇ、三介殿さんすけどの機嫌きげんを取り戻すにはどぉつくろえばえぇかのぉ・・・。」

ればわたくしめが筑前守様ちくぜんのかみさま信雄様のぶかつさまの間を取り持つよう手配致しましょう。」

「そぉ恵瓊殿えけいどのに云ってくれるのは有難ありがてぇがぁ、それは既に宗易殿そうえきどのに任せておるんでぇ、其方そなたが動くに及ばんわぃ。つこぉてもろぉて感謝するぞぃ。」

秀吉ひでよしの顔が再びやわらぐが、『宗易殿そうえきどの』と訊いて恵瓊えけいは不吉を感じ取る。

(くっ、あの極悪人ごくあくにんめがぁ、何か良からぬ動きをせねば良いがぁ・・・。)
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