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87.worry④
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私はすぐその場にしゃがみ込み、散らばった書類をかき集め、彼も同じようにそれを手伝ってくれる。
「たびたび、ご迷惑をおかけしてすみません」
謝りながら情けない気分になってしまうと、目の前の彼は笑いを噛み殺していた。
「いや...多分、大丈夫。うん...」
また、笑われてしまった。いつものことなのだけれど、まるで成長していない自分が恨めしくなる。集めた書類を今度はすべてしっかりと胸に私は抱え立ちあがり、先に外へ出るはずの彼はドアを開けなかった。いきなり後ろを振りかえり尋ねてきたのだ。
「...そのボールペン、今度の土曜日に返してもらっても良いですか?」
そんなに大事なものなら、なおのこと返さないとと焦る。ただ、少し解せない。
「...土曜日....ですか?お休みなのに、こちらこそわざわざ会社に来てもらうなんて...」
それを聞き、藤澤さんはそれまでの余所余所しさを崩し、突然、吹いた。
「...ぶっ、ははは。まさか、休みの日に会社で恋人に会いたいとは思いませんよ。三浦さんがそういう趣味なら付き合うのも一興ですけれどね?」
穏やかに笑いながら話す藤澤さんは、会社でたまに見る素の一面を見せる。その顔で話している内容が仕事とはまったく違う意味を醸し出している事に、鈍い私は気がつかなかった。
...よくよく考えてみるとそんな大事なボールペンを土曜日まで持っているのは。
自分としてはそそっかしいと分かりきっているので、その事に一抹の不安を感じる。
「やっぱり...ずっとお借りしているわけには。今、お返します」
なくさないうちにボールペンを手渡すと、受け取った藤澤さんは無造作にそれを白衣の胸ポケットにねじ込む。それから口元を手で押さえ、少しだけ困った顔を見せた。私はまた何かやらかしたと確信した。
「あの...私、今、何か失礼なことを...?」
「あ...いや、三浦さんは全然悪くないから。そうだよなーって」
彼らしくない歯切れが悪い答え。私はそれでも彼が言わんとしている意味が分からず、何処からともなく金属音を聞いた。
カチャン。
何の音?と不思議がると、思いがけない言葉が彼の口から発せられる。
「参ったな。優里が変に生真面目な性格なのを忘れてた。ボールペンはただの口実のつもりだったのに」
彼が悪戯っぽく口元を緩めて『優里』と確かに呼んだ。そんな風に会社で名前を呼ばれたのは初めての事で、思わずギョッとしてしまう。
「い、今...?」
目を真ん丸くしていると、いつの間にか距離を詰められていた。その距離感はプライベートで会っている時よりも近く。
「...今週末、俺は優里と一緒に過ごしたい。優里は?」
彼の切れ長の瞳で見つめられ熱っぽく言われた途端、彼の家で話した事が頭の中でフラッシュバック。ボンッと一瞬にして顔に火がついたのかと思うくらい頰を熱くして頷く。すると、彼は穏やかな笑みを浮かべ、私の頭を優しく撫でる。
「今のは了解っていう意味にとるけど、いい?」
「...そう、とってくれて構いません」
恥ずかしさのあまり目を合わせずに答えると、今度は髪をサラリと梳くように撫でられる。その彼の仕草に覚えがある私は、心臓が壊れるのかと思うくらい鼓動が早くなるのを感じ、彼の顔を見上げた。彼の手は髪から顔へと移動して、私の頰を頰に触れる。そのしなやかな指の動きは今の私にとっては、身震いするほど耐え難い。
「...誰か来たら...こんな...」
身の置き所のなくなった私が、艶かしい彼の手の動きをやんわりと止めようとすると、彼は手を止めることなく笑顔で返事をした。
「そうだよ。見られたら困るよね」
分かっているならと目で訴えると、彼の切れ長の瞳は動揺がなく揺るがない。
「...ただ、言い忘れていたことあったなって思って」
「言い忘れていた事ですか...?」
ポカンとおうむ返しして首を傾げる私の顔で、指の動きが止まる。
「この間は看病してくれてありがとう。おかげで、すごく良くなってこの通り」
そこで少しお茶目な仕草をする彼に、ホッとして油断した。
「い、いえ。私なんて大した事できなくて」
ブンブンと手を振って否定すると、その手が掴まれる。そのうえ、止まっていた指が私の顎に添えられ、くんっと顔の向きを彼の方へと変えられた。
「...ふ、藤澤さん?」
徐々に近づいて来る端整な顔にまさかと思いつつも、微動だにできない。そうして2人しか聞こえない距離で囁かれる。
「もう、無理...限界」
次の瞬間、私の唇には彼の柔らかな唇が触れていた。
「...っふ」
弾みで漏れた息が私のささやかな抵抗。二週間ぶり位になるキスはその抵抗を無にするには充分なほどの威力がある。ブランと力の抜けた私の腕からは、再び書類が落ちて散らばり。それでも、構わず彼は私の唇を貪り続けた。
「んっ...ん」
苦しさを訴えるように息があがると、ようやく唇がはなされる。
「今週末、優里に会えるの楽しみにしてるから...と」
身体もはなれだというのに、私はその場に固まって動けなくなってしまう。彼は頭を少し掻いて、床に落ちた書類を拾い上げてくれるといつも通りに振る舞った。
「...あー、うん。三浦さんはもう少しここにいた方が良いですね。落ち着いたら、戻ってもらえれば結構ですよ」
「は、はい...」
辛うじて私が返事をすると彼は私の肩を軽く叩き、鍵を開けてミーティングルームから出て行く。私は脱力しきって、さっき座っていた椅子に腰掛ける。
...会社で、キス...しちゃった。
そんな刺激的な背徳感の余韻に浸ると視線の先には黒い物体。いつも藤澤さんが使っているノートパソコンだった。落とした書類を再び拾ってくれた時にそこに置いたものだと分かる。
...まさかね。
私と同じように藤澤さんも余裕がないなんていう希望的観測が浮かぶ。
けれども、すぐに松浦が彼の私物であるこのノートパソコンを取りに来たことでそれは脆くも崩れさった。
「たびたび、ご迷惑をおかけしてすみません」
謝りながら情けない気分になってしまうと、目の前の彼は笑いを噛み殺していた。
「いや...多分、大丈夫。うん...」
また、笑われてしまった。いつものことなのだけれど、まるで成長していない自分が恨めしくなる。集めた書類を今度はすべてしっかりと胸に私は抱え立ちあがり、先に外へ出るはずの彼はドアを開けなかった。いきなり後ろを振りかえり尋ねてきたのだ。
「...そのボールペン、今度の土曜日に返してもらっても良いですか?」
そんなに大事なものなら、なおのこと返さないとと焦る。ただ、少し解せない。
「...土曜日....ですか?お休みなのに、こちらこそわざわざ会社に来てもらうなんて...」
それを聞き、藤澤さんはそれまでの余所余所しさを崩し、突然、吹いた。
「...ぶっ、ははは。まさか、休みの日に会社で恋人に会いたいとは思いませんよ。三浦さんがそういう趣味なら付き合うのも一興ですけれどね?」
穏やかに笑いながら話す藤澤さんは、会社でたまに見る素の一面を見せる。その顔で話している内容が仕事とはまったく違う意味を醸し出している事に、鈍い私は気がつかなかった。
...よくよく考えてみるとそんな大事なボールペンを土曜日まで持っているのは。
自分としてはそそっかしいと分かりきっているので、その事に一抹の不安を感じる。
「やっぱり...ずっとお借りしているわけには。今、お返します」
なくさないうちにボールペンを手渡すと、受け取った藤澤さんは無造作にそれを白衣の胸ポケットにねじ込む。それから口元を手で押さえ、少しだけ困った顔を見せた。私はまた何かやらかしたと確信した。
「あの...私、今、何か失礼なことを...?」
「あ...いや、三浦さんは全然悪くないから。そうだよなーって」
彼らしくない歯切れが悪い答え。私はそれでも彼が言わんとしている意味が分からず、何処からともなく金属音を聞いた。
カチャン。
何の音?と不思議がると、思いがけない言葉が彼の口から発せられる。
「参ったな。優里が変に生真面目な性格なのを忘れてた。ボールペンはただの口実のつもりだったのに」
彼が悪戯っぽく口元を緩めて『優里』と確かに呼んだ。そんな風に会社で名前を呼ばれたのは初めての事で、思わずギョッとしてしまう。
「い、今...?」
目を真ん丸くしていると、いつの間にか距離を詰められていた。その距離感はプライベートで会っている時よりも近く。
「...今週末、俺は優里と一緒に過ごしたい。優里は?」
彼の切れ長の瞳で見つめられ熱っぽく言われた途端、彼の家で話した事が頭の中でフラッシュバック。ボンッと一瞬にして顔に火がついたのかと思うくらい頰を熱くして頷く。すると、彼は穏やかな笑みを浮かべ、私の頭を優しく撫でる。
「今のは了解っていう意味にとるけど、いい?」
「...そう、とってくれて構いません」
恥ずかしさのあまり目を合わせずに答えると、今度は髪をサラリと梳くように撫でられる。その彼の仕草に覚えがある私は、心臓が壊れるのかと思うくらい鼓動が早くなるのを感じ、彼の顔を見上げた。彼の手は髪から顔へと移動して、私の頰を頰に触れる。そのしなやかな指の動きは今の私にとっては、身震いするほど耐え難い。
「...誰か来たら...こんな...」
身の置き所のなくなった私が、艶かしい彼の手の動きをやんわりと止めようとすると、彼は手を止めることなく笑顔で返事をした。
「そうだよ。見られたら困るよね」
分かっているならと目で訴えると、彼の切れ長の瞳は動揺がなく揺るがない。
「...ただ、言い忘れていたことあったなって思って」
「言い忘れていた事ですか...?」
ポカンとおうむ返しして首を傾げる私の顔で、指の動きが止まる。
「この間は看病してくれてありがとう。おかげで、すごく良くなってこの通り」
そこで少しお茶目な仕草をする彼に、ホッとして油断した。
「い、いえ。私なんて大した事できなくて」
ブンブンと手を振って否定すると、その手が掴まれる。そのうえ、止まっていた指が私の顎に添えられ、くんっと顔の向きを彼の方へと変えられた。
「...ふ、藤澤さん?」
徐々に近づいて来る端整な顔にまさかと思いつつも、微動だにできない。そうして2人しか聞こえない距離で囁かれる。
「もう、無理...限界」
次の瞬間、私の唇には彼の柔らかな唇が触れていた。
「...っふ」
弾みで漏れた息が私のささやかな抵抗。二週間ぶり位になるキスはその抵抗を無にするには充分なほどの威力がある。ブランと力の抜けた私の腕からは、再び書類が落ちて散らばり。それでも、構わず彼は私の唇を貪り続けた。
「んっ...ん」
苦しさを訴えるように息があがると、ようやく唇がはなされる。
「今週末、優里に会えるの楽しみにしてるから...と」
身体もはなれだというのに、私はその場に固まって動けなくなってしまう。彼は頭を少し掻いて、床に落ちた書類を拾い上げてくれるといつも通りに振る舞った。
「...あー、うん。三浦さんはもう少しここにいた方が良いですね。落ち着いたら、戻ってもらえれば結構ですよ」
「は、はい...」
辛うじて私が返事をすると彼は私の肩を軽く叩き、鍵を開けてミーティングルームから出て行く。私は脱力しきって、さっき座っていた椅子に腰掛ける。
...会社で、キス...しちゃった。
そんな刺激的な背徳感の余韻に浸ると視線の先には黒い物体。いつも藤澤さんが使っているノートパソコンだった。落とした書類を再び拾ってくれた時にそこに置いたものだと分かる。
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