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100.迂闊という名の油断。②藤澤視点
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午後からの仕事は論文添削。あまり好きな仕事ではなかったが、早速、午前中に提出させてあったものに取り掛かる。
「...つまらん」
相変わらずのマイナー路線傾向の松浦の論文をざっと読み終えた俺の感想が口をつく。もう少し突き抜け感が欲しいと、実験室から自席に戻ってみると同じく席を外していた隣のデスクの真田さんに声をかけられた。
「藤澤っち、こっちにいたんだ?課長がお呼びだよ」
「あー、はい。分かりました」
俺は論文に読んだ箇所に付箋をつけ片付け、さきほど自分の休めそうな日付を書いたメモは引き出しにしまう。そして、ようやく落ち着いた生活に安堵し、ミーティングルームへ向かいながら普段なら想像しない事を考えていた。
...今度はなんだ?出張での特別休暇でも出るのか?そっちの方が断然良いけど。
うちの課の課長は俺が入社した当初からずっと上司で、こちらの研究所に引っ張ってくれたのも、真田さんのピンチヒッターに俺を指名してくれたのもこの課長だ。だから、お互いの性格もなんとなく把握しており、どういうわけかこの人に呼び出されるとロクなことがない。そんなものだから、あの課長のやる事全てにおいて、表とは違う裏の意味があるという事を充分理解しているつもりだった。
ただ、今日の俺の頭からはすっかりそれが抜け落ちていた。それは連続した海外出張から解き放たれた安堵感からなのか、それとも優里との幸せな未来を想像して気が緩んだのか、はたまた、その両方が起因していたのか。
「失礼します」
「...おう、藤澤か?入れ」
課長はこちらに背を向け手を組みながら、素っ気なく返事をした。きっと、自分の中でカッコ良いと酔っている状況なのだろうと、その哀愁を漂わせた後ろ姿で感じる。
...自分から呼び出しといてなんなんだよ、一体。
この思わせぶりな態度を最後にみたのは、確かここに異動が決まったと知らされた時だった。あの時も今みたいになんとなく身構え、課長が言葉をかけてくるまでじっと待った覚えがある。今回も図らずとも同じ状況だったので、諦めてこの茶番に付き合う事にする。
...本当、こういうの面倒くせーな。
向こうから声をかけられるのを己の足元を見ながら待つと、何故か早々に課長の方が痺れを切らす。
「お前は自分が呼ばれた理由が分からないのか?」
「はい、存じ上げません」
淡々の答えると、課長はオーバーリアクション気味にガクッと肩を下げる。
「なんだ、真田から聞いてなかったのか...」
聞く暇も与えず誰が呼び出したんだよ?と突っ込みたいのを堪え苦笑いしてしまう。すると、いきなり左手を両手で目一杯掴まれた。
「.....っい!?」
その中年男の手の感触の気色悪さに声にならない悲鳴をあげ、一瞬、怯んだ。そこは、一応、上司なので、手を引っ込める事は何とか踏みとどまる。なんとか、隙を見て手を引っ込める機会を窺うともっと大きな衝撃に襲われた。
「良くやった!喜べ!今日、返事が来た。本採用が決まったぞ」
...は?
最初何をどういう意味で言われたのか見当もつかず、されるがままに手を持っていかれブンブンと上下に降られる。
「あの...おっしゃっている意味が自分にはさっぱり...」
俺が困惑の表情を見せると、課長は大事な主語を付け加えた。
「お前がつい最近までヘルプ行っていた部署の空きに採用されたのさ」
...それは、あの。
最初は課長の思い過ごしじゃないかと思われたが、目の前の課長の喜びようでそれは紛れもない現実だと分かる。
「...俺がですか?」
「そうだ。他に誰がいる?」
課長の手の感触の気色悪さもなんのその。そんなものは喜びで一気に吹き飛び、我を失い、自分からも握手を求めた。
「うわ!本当ですか?」
「やっと、信じたか」
いつものらりくらりとタヌキで腹の中を絶対見せない課長に、冷静になってみると何故?と言う疑問が湧く。
「あの...俺はずっと真田さんのピンチヒッターだと思ってましたが、もしかして、あの出張が?」
「そうだ。アレはお前に対するテストだった。真田はその権利をとっくに辞退している。それで、真田からの推薦でお前をとりあえず行かせた」
...とりあえず。なるほど...俺は試されていたのか。
「俺はお前が若すぎるから無理だと言ったんだが。真田が若い人材にもチャンスをと言ってお前を推薦してくれてな。それにしてもお前がそのチャンスをうまく掴むとは、俺の眼力もまだまだ捨てたもんじゃない...」
自分の顎髭を指先で撫でる課長は自分の手柄のようにやたら得意げだ。普段なら、決してこの課長に感謝はする事は全くないが、流石にこれには頭を下げるしかなかった。
「そうだったんですか...ご推薦ありがとうございます」
「まあ、お前の実力が認められて、俺も鼻が高いがな」
ポンポンと偉そうに肩を叩かれる。俺も淡々と受け答えをしながらも興奮と期待で我を忘れていた。ここまでは良かったのだが。
「ちゃんとあっちでも成果を上げてこい。ついでに花の独身なんだから、現地で嫁さんも見つけてきたらどうだ?お前はリベラル思考だから日本人女性はつまらんだろ?」
「ははは、ご冗談を」
日本人の優里との結婚を真面目に考えていたのにそんな事するかと、心の中で毒づくとタヌキで大事な事を後出しする課長の一言が有頂天な俺の頭を一気にクールダウンさせた。
「まぁ、お前は男前だから結婚相手に不自由せんとは思うが。なんせ任期は5年だからな。相手を見つけて落ち着くには充分だ」
「...5年?」
その聞きづてならない単語に目を見張る。年単位での任期は最初から自分で見立てたものの、受け入れるのに時間がかかった。
その後、どう聞き直しても5年の任期は揺るがない。
「...つまらん」
相変わらずのマイナー路線傾向の松浦の論文をざっと読み終えた俺の感想が口をつく。もう少し突き抜け感が欲しいと、実験室から自席に戻ってみると同じく席を外していた隣のデスクの真田さんに声をかけられた。
「藤澤っち、こっちにいたんだ?課長がお呼びだよ」
「あー、はい。分かりました」
俺は論文に読んだ箇所に付箋をつけ片付け、さきほど自分の休めそうな日付を書いたメモは引き出しにしまう。そして、ようやく落ち着いた生活に安堵し、ミーティングルームへ向かいながら普段なら想像しない事を考えていた。
...今度はなんだ?出張での特別休暇でも出るのか?そっちの方が断然良いけど。
うちの課の課長は俺が入社した当初からずっと上司で、こちらの研究所に引っ張ってくれたのも、真田さんのピンチヒッターに俺を指名してくれたのもこの課長だ。だから、お互いの性格もなんとなく把握しており、どういうわけかこの人に呼び出されるとロクなことがない。そんなものだから、あの課長のやる事全てにおいて、表とは違う裏の意味があるという事を充分理解しているつもりだった。
ただ、今日の俺の頭からはすっかりそれが抜け落ちていた。それは連続した海外出張から解き放たれた安堵感からなのか、それとも優里との幸せな未来を想像して気が緩んだのか、はたまた、その両方が起因していたのか。
「失礼します」
「...おう、藤澤か?入れ」
課長はこちらに背を向け手を組みながら、素っ気なく返事をした。きっと、自分の中でカッコ良いと酔っている状況なのだろうと、その哀愁を漂わせた後ろ姿で感じる。
...自分から呼び出しといてなんなんだよ、一体。
この思わせぶりな態度を最後にみたのは、確かここに異動が決まったと知らされた時だった。あの時も今みたいになんとなく身構え、課長が言葉をかけてくるまでじっと待った覚えがある。今回も図らずとも同じ状況だったので、諦めてこの茶番に付き合う事にする。
...本当、こういうの面倒くせーな。
向こうから声をかけられるのを己の足元を見ながら待つと、何故か早々に課長の方が痺れを切らす。
「お前は自分が呼ばれた理由が分からないのか?」
「はい、存じ上げません」
淡々の答えると、課長はオーバーリアクション気味にガクッと肩を下げる。
「なんだ、真田から聞いてなかったのか...」
聞く暇も与えず誰が呼び出したんだよ?と突っ込みたいのを堪え苦笑いしてしまう。すると、いきなり左手を両手で目一杯掴まれた。
「.....っい!?」
その中年男の手の感触の気色悪さに声にならない悲鳴をあげ、一瞬、怯んだ。そこは、一応、上司なので、手を引っ込める事は何とか踏みとどまる。なんとか、隙を見て手を引っ込める機会を窺うともっと大きな衝撃に襲われた。
「良くやった!喜べ!今日、返事が来た。本採用が決まったぞ」
...は?
最初何をどういう意味で言われたのか見当もつかず、されるがままに手を持っていかれブンブンと上下に降られる。
「あの...おっしゃっている意味が自分にはさっぱり...」
俺が困惑の表情を見せると、課長は大事な主語を付け加えた。
「お前がつい最近までヘルプ行っていた部署の空きに採用されたのさ」
...それは、あの。
最初は課長の思い過ごしじゃないかと思われたが、目の前の課長の喜びようでそれは紛れもない現実だと分かる。
「...俺がですか?」
「そうだ。他に誰がいる?」
課長の手の感触の気色悪さもなんのその。そんなものは喜びで一気に吹き飛び、我を失い、自分からも握手を求めた。
「うわ!本当ですか?」
「やっと、信じたか」
いつものらりくらりとタヌキで腹の中を絶対見せない課長に、冷静になってみると何故?と言う疑問が湧く。
「あの...俺はずっと真田さんのピンチヒッターだと思ってましたが、もしかして、あの出張が?」
「そうだ。アレはお前に対するテストだった。真田はその権利をとっくに辞退している。それで、真田からの推薦でお前をとりあえず行かせた」
...とりあえず。なるほど...俺は試されていたのか。
「俺はお前が若すぎるから無理だと言ったんだが。真田が若い人材にもチャンスをと言ってお前を推薦してくれてな。それにしてもお前がそのチャンスをうまく掴むとは、俺の眼力もまだまだ捨てたもんじゃない...」
自分の顎髭を指先で撫でる課長は自分の手柄のようにやたら得意げだ。普段なら、決してこの課長に感謝はする事は全くないが、流石にこれには頭を下げるしかなかった。
「そうだったんですか...ご推薦ありがとうございます」
「まあ、お前の実力が認められて、俺も鼻が高いがな」
ポンポンと偉そうに肩を叩かれる。俺も淡々と受け答えをしながらも興奮と期待で我を忘れていた。ここまでは良かったのだが。
「ちゃんとあっちでも成果を上げてこい。ついでに花の独身なんだから、現地で嫁さんも見つけてきたらどうだ?お前はリベラル思考だから日本人女性はつまらんだろ?」
「ははは、ご冗談を」
日本人の優里との結婚を真面目に考えていたのにそんな事するかと、心の中で毒づくとタヌキで大事な事を後出しする課長の一言が有頂天な俺の頭を一気にクールダウンさせた。
「まぁ、お前は男前だから結婚相手に不自由せんとは思うが。なんせ任期は5年だからな。相手を見つけて落ち着くには充分だ」
「...5年?」
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