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120.豹変④
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その時、外から誰が入ってくる物音がした。
「...ちっ」
舌打ちをした山本さんは私の口を塞いだまま、無言でその場をやり過ごそうと出口の様子を伺い見る。私はそれで彼の注意が逸れたことに気がつき、口を塞いでいた彼の手を思いっきり噛むことができた。
「痛ってぇ!?」
彼は不意に噛まれた痛みに怯み、その痛みからか私の口から手を離すと同時に押さえつけている手が緩められる。その隙に彼の力づくの束縛から逃れることに成功し、私は脇目もふらずに出口の方へ逃げ出した。走っている間、心臓がバクバクと激しく鼓動する。何度か振り返り、確認するとようやく少しだけ心臓が落ち着いた。
...良かった、追ってこない。
冷静に考えるとここは会社だ。山本さんがこんな公の場で自分の立場をなくすほど、冷静さを欠くような人間でないということは身近で仕事をしてきた私が1番よく知っているはずだった。それでも恐怖の方が強くて今は会社にいるのが怖かった。
講座が行われていた会議室に戻ると、誰もいなくて本能のままにすぐに帰り支度をして。帰る途中で不躾ながら一方的に課長代理には、気分が悪くなったと連絡メールを入れておいた。すぐに心配してくれた課長代理から返信があったけれど、それに返事をする気持ちにはなれなかった。そして、ずっと気が張っていたのか、自宅に着くと緊張の糸がプツリと切れ泥のように眠ってしまう。翌朝は起きたと同時に吐き気がして気持ちが悪い。その日は会社に行く気になれず、ずっと1人で家に篭っていた。
後から思うとあんなに頭のキレる山本さんが私にあの場で乱暴する必要性は全くなく、アレは単なる脅しだったのだと思う。出世街道まっしぐらの彼がそんな短絡的な行動を起こすワケがないと。でも、その時の私はそこまで考えが至らずその脅しすら本気で受け止めていた。それに今までずっと信じて頼ってきた山本さんには、私に以前から何らかの悪意があったみたいで。その事を分かってしまった今、彼とどんな風に接したら良いかなんて分からなかった。
※※※
「...おはよう。昨日は具合悪くなったんだって?もう、大丈夫?」
休み明けの朝イチ。何くわぬ顔で隣の席に座った山本さん。その口調はいつもと全く変わらなかった。
「...は、はい。大丈夫です...から」
話しかけられるだけで声がうわずってしまう。隣に座るだけで喉が乾きそうになる程、緊張する。いつもみたいに目を合わせて会話することなんてできなかった。だんだん私はかれからの視線に目をそらすように俯いてしまうと、山本さんはいたっていつも通りの態度でその日を過ごしていた。
ただ、私の方は普通じゃいられない。常に彼に監視されているような感覚に陥っていたから。
誰かに相談しようにも見られているかもしれないと、おどおど、ビクビク。
それに管理部で私が1番親しかったのは山本さんだったから、こんな深くてデリケートな話題を山本さん以外の誰かに相談できるワケがなかった。
...やっと半日かぁ。
さっきまで、ずっと山本さんと組んでの事務作業。2人で1つのパソコンを見つめていただけなのに極度の緊張を強いられていた。だから、特に神経がすり減ったような気がして、お昼休みになるやいなや営業部の社食に逃げ込む。ここのナポリタンは相変わらず美味しくて大好きな味。それなのに食が進まない。フォークでクルクルとパスタをまとめると、口に運ぶより前に大きな溜息が勝手に漏れた。
...午後からまた山本さんと一緒。
一口大に纏まった大好きな味のパスタ。それをなかなか口に持っていく事ができずに、お皿の上で遊ばせてその一点を見つめると目の前の席に真央ちゃんがいつの間にか座っていてハッと気がつく。
「こっちで会うの久しぶり!」
真央ちゃんはいつもと同じ笑顔を私に向けていた。今の私にはその笑顔がとても眩しくて縋りたい気持ちを誤魔化すように作り笑いを返す。
「うん...そうだね」
彼女の言う通り、管理部に移動してからここに来るのはなかなか難しくて、来たとしても昼食時間が大抵ズレている。そんなものだから、彼女にそう驚かれるのも無理はなかった。目の前の彼女はパチンと割り箸をきれいに割り、本日の日替わりランチの唐揚げを美味しそうに食べている。
...真央ちゃんはいつもと同じ。
私も彼女につられるようにフォークのパスタを頬張ってみる。けれどいつもみたいに美味しく感じない。そこを彼女に見咎められて。
「それ、優里ちゃん好きだよね?」
「え、あ...、うん?...お、美味しいよ?」
何となく適当な事を相槌すると、ますます彼女の不審感を煽ってしまったよう。そのおかげで、今度は直球質問をくらった。
「今日の優里ちゃん、変だよ。午前中、なんかあったの?」
「え?...ちょ、ちょっと。仕事が忙しくてボーッとしていただけだから...」
咄嗟にうまい言い訳なんて思いつかない。それでも彼女は私の都合のいいように解釈してくれた。
「そうなんだ...午前中だけでそんなに疲れちゃうなんて大変だね、管理部って」
それ以上は何も聞かれず、自分から山本さんの目の届かないこの絶好の機会に言う事ができなかった。
山本さんの件があってから私は藤澤さんの事を思い出してしまっている。以前だったらこういうデリケートな問題は、間違いなく藤澤さんに相談していたと思う。
そのくらい、私は彼に絶大な信頼をおいていたから。
けれど、もう彼を頼る事はできない。
だから、誰にも言えない。
誰にも言えなくて相談できないのは、辛くて、しんどい。
「...ちっ」
舌打ちをした山本さんは私の口を塞いだまま、無言でその場をやり過ごそうと出口の様子を伺い見る。私はそれで彼の注意が逸れたことに気がつき、口を塞いでいた彼の手を思いっきり噛むことができた。
「痛ってぇ!?」
彼は不意に噛まれた痛みに怯み、その痛みからか私の口から手を離すと同時に押さえつけている手が緩められる。その隙に彼の力づくの束縛から逃れることに成功し、私は脇目もふらずに出口の方へ逃げ出した。走っている間、心臓がバクバクと激しく鼓動する。何度か振り返り、確認するとようやく少しだけ心臓が落ち着いた。
...良かった、追ってこない。
冷静に考えるとここは会社だ。山本さんがこんな公の場で自分の立場をなくすほど、冷静さを欠くような人間でないということは身近で仕事をしてきた私が1番よく知っているはずだった。それでも恐怖の方が強くて今は会社にいるのが怖かった。
講座が行われていた会議室に戻ると、誰もいなくて本能のままにすぐに帰り支度をして。帰る途中で不躾ながら一方的に課長代理には、気分が悪くなったと連絡メールを入れておいた。すぐに心配してくれた課長代理から返信があったけれど、それに返事をする気持ちにはなれなかった。そして、ずっと気が張っていたのか、自宅に着くと緊張の糸がプツリと切れ泥のように眠ってしまう。翌朝は起きたと同時に吐き気がして気持ちが悪い。その日は会社に行く気になれず、ずっと1人で家に篭っていた。
後から思うとあんなに頭のキレる山本さんが私にあの場で乱暴する必要性は全くなく、アレは単なる脅しだったのだと思う。出世街道まっしぐらの彼がそんな短絡的な行動を起こすワケがないと。でも、その時の私はそこまで考えが至らずその脅しすら本気で受け止めていた。それに今までずっと信じて頼ってきた山本さんには、私に以前から何らかの悪意があったみたいで。その事を分かってしまった今、彼とどんな風に接したら良いかなんて分からなかった。
※※※
「...おはよう。昨日は具合悪くなったんだって?もう、大丈夫?」
休み明けの朝イチ。何くわぬ顔で隣の席に座った山本さん。その口調はいつもと全く変わらなかった。
「...は、はい。大丈夫です...から」
話しかけられるだけで声がうわずってしまう。隣に座るだけで喉が乾きそうになる程、緊張する。いつもみたいに目を合わせて会話することなんてできなかった。だんだん私はかれからの視線に目をそらすように俯いてしまうと、山本さんはいたっていつも通りの態度でその日を過ごしていた。
ただ、私の方は普通じゃいられない。常に彼に監視されているような感覚に陥っていたから。
誰かに相談しようにも見られているかもしれないと、おどおど、ビクビク。
それに管理部で私が1番親しかったのは山本さんだったから、こんな深くてデリケートな話題を山本さん以外の誰かに相談できるワケがなかった。
...やっと半日かぁ。
さっきまで、ずっと山本さんと組んでの事務作業。2人で1つのパソコンを見つめていただけなのに極度の緊張を強いられていた。だから、特に神経がすり減ったような気がして、お昼休みになるやいなや営業部の社食に逃げ込む。ここのナポリタンは相変わらず美味しくて大好きな味。それなのに食が進まない。フォークでクルクルとパスタをまとめると、口に運ぶより前に大きな溜息が勝手に漏れた。
...午後からまた山本さんと一緒。
一口大に纏まった大好きな味のパスタ。それをなかなか口に持っていく事ができずに、お皿の上で遊ばせてその一点を見つめると目の前の席に真央ちゃんがいつの間にか座っていてハッと気がつく。
「こっちで会うの久しぶり!」
真央ちゃんはいつもと同じ笑顔を私に向けていた。今の私にはその笑顔がとても眩しくて縋りたい気持ちを誤魔化すように作り笑いを返す。
「うん...そうだね」
彼女の言う通り、管理部に移動してからここに来るのはなかなか難しくて、来たとしても昼食時間が大抵ズレている。そんなものだから、彼女にそう驚かれるのも無理はなかった。目の前の彼女はパチンと割り箸をきれいに割り、本日の日替わりランチの唐揚げを美味しそうに食べている。
...真央ちゃんはいつもと同じ。
私も彼女につられるようにフォークのパスタを頬張ってみる。けれどいつもみたいに美味しく感じない。そこを彼女に見咎められて。
「それ、優里ちゃん好きだよね?」
「え、あ...、うん?...お、美味しいよ?」
何となく適当な事を相槌すると、ますます彼女の不審感を煽ってしまったよう。そのおかげで、今度は直球質問をくらった。
「今日の優里ちゃん、変だよ。午前中、なんかあったの?」
「え?...ちょ、ちょっと。仕事が忙しくてボーッとしていただけだから...」
咄嗟にうまい言い訳なんて思いつかない。それでも彼女は私の都合のいいように解釈してくれた。
「そうなんだ...午前中だけでそんなに疲れちゃうなんて大変だね、管理部って」
それ以上は何も聞かれず、自分から山本さんの目の届かないこの絶好の機会に言う事ができなかった。
山本さんの件があってから私は藤澤さんの事を思い出してしまっている。以前だったらこういうデリケートな問題は、間違いなく藤澤さんに相談していたと思う。
そのくらい、私は彼に絶大な信頼をおいていたから。
けれど、もう彼を頼る事はできない。
だから、誰にも言えない。
誰にも言えなくて相談できないのは、辛くて、しんどい。
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