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「雌(おんな)」No.10
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湯舟にとっぷりと体を沈めていると、隣室から、女の恍惚とした、しかしどこかわざとらしい商売用の鼻声や、大柄の米兵らしい喘ぎがもろに聞こえてくる。竜次を失って以後の藤子には刺激がきつ過ぎた。気ィ付けや、とはこのことを云うのか、と藤子は思って、しかし特に気にはならなかった。
或る夜、湯舟に浸かって天井を見上げていた藤子は、モルタルで塗り固めた天井の隅の方に、ひび割れて小さな穴があったことに初めて気が付いた。
天井の穴、屋根裏の蜘蛛の巣など、そんなものに見慣れた藤子は別に気にもならなかったが、湯舟でふと体を動かした時、その小さな穴の奥から、何か灯りのようなものがちらりと光って見えた、気がして暫く様子を見た。
そして天井裏に何か布か何かが擦れるような物音、がした、だが鼠とかそんな軽量の音ではない、わざと天井を見ない振りをしていると、その小さな穴から、ひとの息を吐くような音がはっきり聞こえた。
(ひとや、誰か覗いてるんや)
だが、藤子は驚きはしない、仲居らが笑って教えたのはこのことだったのだ、仲居らが教えてくれた、と云うことは皆がこのこととっくに知っている、と云うこと、そこで、藤子はからかってやれ、と湯舟から腰を浮かして体を湯に浮かべた、途端に天井裏で、何かに躓いたような音がはっきり聞こえた、やっぱり誰か居る、藤子は体を転がして尻を湯から突き出した、吐く息が一気に荒くなった。
翌くる日のこと、調理場で、忙しく働いているときに、奥の座敷の障子が開いて、そこに女将の旦那、谷川が背中を向けて座り、卓袱台に凭れて酒を飲んでいた。谷川はこうして時に店に顔を出しているようだ。
板前から料理を盛った大きな皿を渡されて、威勢のいい声を出して受け取った藤子の声に気付いた谷川が振り向いて、藤子と目が合うなり、慌てたふうに視線を逸らした。
藤子は毎晩の、ホテルの天井の穴から湯に入る藤子を覗き見している男は、女将の旦那、この谷川、ではないかと疑ってはいたが、そう云えば一昨日の夜も、その二日前も、谷川の姿を調理場の、こ座敷で見掛けていたし、そして、たった今の、菓子の盗み食いがばれた子供のように、藤子から慌てて視線を外したことで藤子は確信した。
藤子は一気に店一番の人気者になっていた、客は云う、
「フジちゃん、あんた、こんなとこで働くの、勿体ないわ、ミナミやキタへ移ったらええね、大概そこでも客、なんぼでもつくで、あんたのこの器量やったら、もしアレやったら、ワシが、やな、パトロンになったってもええんやで」
「あかん、あかん、フジちゃん、このオッサンの云うこと本気にしたらあかん、パトロンどころかどっかでパッとドロンしよんで、このオッサン、借金塗れや」
藤子が料理を盛り付けた皿を持って座敷に上がると、こんな戯言が飛び交って場はいっぺんに盛り上がった。
朝鮮戦争もアメリカ軍の勢いが落ちて、もう終戦が近い、と男達が話すのを耳にする、男達は、先の戦争で家を焼かれて全てを失ったが、朝鮮¥戦争で、その何倍も大儲けした、男達に勢いがある、男達のそんなガサツなやりとりを聞くと藤子も何となく楽しくなってくる、そんな時、藤子は、ふと思った、
(うち、やっぱり、大阪来て良かったんや、あんなど田舎、一生うだつ上がれへん、耕三さん、悪いけど、うちもう帰らへんよ、うち、ここで仰山銭儲けして、ええもん食うて、ええ服着て、偶には客に連れられて、芝居見たり、この前なんか、活動も見たんや、やっぱ、うちにはこの街が一番ぴったし、なんや)
或る夜、その日は、客に連れられてミナミでご馳走になり、帰りが遅くなった藤子は、ホテルタニガワで一部屋空きがある、そこで風呂入ったらええわ、とホテルの従業員に云って貰って、湯舟に浸かった。
今日の夕方、調理場に女将の旦那、谷川が姿を見せていた、谷川は、藤子と目を合わさぬように、座敷に上がって、酒を飲んでいた。
藤子は、ふと、ひとの視線を感じて、そっちに目を遣ると、そこには女将の里子が立って、前掛けで手を拭い乍ら、谷川の背中と藤子とを交互に見ていた、藤子に自分の視線を気付かれたと知ったか、女将は急くように客の座敷に上がって行った。
湯舟に浸かって藤子は天井の穴を見上げる、いつものように小さな灯りが漏れている、やっぱり、旦那、来ている。
藤子は挑発してみたくなった、湯に両の乳房を浮かべ艶めかしく両の手で乳房を揉み、そして秘所に手を伸ばして撫でた、激しい息遣いが小さな穴から聞こえてくる。
藤子は天井に向かって、声を掛けた、
「そんな狭いとこにいんと、ここ、降りてきたらどないです?」
吐く息が途端に停まった、そして天井板を踏む足音が聞こえ、暫く待つと、藤子の部屋の扉をノックする音、藤子は体をタオルで巻き、扉を開けると、ぶすっとした顔の、夕方と同じ羽織姿の谷川が立っていた。
「バレててんや」
叱られた子供がべそをかくような顔で云う。
「ばればれ、やん、皆な知ってますよ、覗いてんの、谷川の旦那さんやて」
「ちゃうちゃう、他はもう覗いてないねん、あんな、皺くちゃなん、もう見たないねん、あんた、フジちゃんの時だけ、覗いてたんや」
「うち、女将さんにこのこと云うからね」
「あかん、それはあかん、里子はあない見えても、やきもち焼いたらめっちゃこわいね、何されるか分らへん」
「ほな、これ、どない始末させて貰うたらええんですか?」
「あんたも大概こわい云い方するねんな、ま、始末は後で話つけよ、やが、その前に、訊きたいこと、あんね、あ、その前に、あんた、上に何か着て前、隠してくれんか、タオルの隙間からあんたの観音さんの髪の毛、丸見えや、目の遣り場がない」
「何云うてんね、さんざん覗き見してた癖に、ちょっとは悪びれたらどないです?それはそうと、うちに訊きたいことて何です?」
「あんた、フジちゃん、ここ来る前、築港の方に居てたんか?店の者、何かそないなこと云うてたけど」
「ええ、居てました、ホルモン焼いてました」
「あ、やっぱし、な。儂も時々、法事であの辺りまで足延ばして、帰りに、罰当たりなんやけど、ホルモン焼き、食いに寄ってたんや。その時、あんた、見掛けたような気がしててん」
「そう云えば、うちも、旦那さん、初めて見た時、どっかで見たような気がしててんけど、やっぱり会うたことあったんや」
「えらい目に会うたらしいな。暫くして寄ったら、あの辺り、ひとおらんで、聞いたら」
「あ、それ以上、云わんといて、思い出して涙が出てくる」
「やっぱり、な。えらい目会うてたんや」
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