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第二十三話 喋らない電卓
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時間:九十日勝負・三十五日目
場所:澄原金融タワー・財務本部
大理石とガラスのカーテンウォールで築かれた黄金の塔。
そこは澄原グループの心臓部であり、数兆円規模のキャッシュが脈打つ中枢だった。
だが同時に、それは墓標でもある。
午前三時。
三十五階の灯りは、まだ消える気配を見せない。
白いワイシャツ姿の会計士たちが、養鶏場のブロイラーのように狭いブースに押し込められていた。
会話はほとんどない。聞こえるのは、ひたすら続くキーボードの打鍵音と、胃薬の匂いだけだ。
小早川誠、四十五歳。財務本部・核算二課の課長。
薄くなった頭頂部、曲がった背中。胸ポケットにはいつも「太田胃散」が入っている。
「小早川。このデータ、まだ“調整”終わってないのか?」
背後から声が落ちてくる。
CFO・黒崎賢が、赤ワインのグラス片手に彼の背後に立っていた。
「本部長……実支出の伝票は五十億しかありません。しかし本部長の指示では八十億を計上しろと……
この三十億の差額分、裏付けの証憑がどうしても――」
「見つからない?」
黒崎は笑った。上半身を曲げ、耳元に顔を寄せる。
「聞いたぞ。お前の長女の友美ちゃん、来年、慶應の医学部を受けるんだって?」
小早川の身体が、びくんと硬直する。
「学費――まだ足りてないそうじゃないか。」
「この程度の帳尻も合わせられない課長なんて、そろそろ椅子を空けてもらうしかないな。
“能力不足”で肩を叩かれたら、退職金は一銭も出ない。」
「そうなったら、友美ちゃんの医者の夢は……儚く消えるわけだ。」
これは脅しではない。
家族の未来そのものを人質に取る、冷酷な宣告だった。
「……わ、わかりました……」
小早川は震える指で、Backspaceキーを押す。
彼は「50,000,000,000」の数字を消し、「80,000,000,000」と打ち直した。
一打鍵ごとに、心臓に針が刺さる。
それでも、指は止まらない。
――翌日、正午。
金融タワー・屋上。
龍立がドアを押し開けると、手すりもないビルの縁に、一つの人影が立っていた。
小早川だった。
靴を脱ぎ、手にはくしゃくしゃになった遺書。
「もし俺があなただったら、飛び降りない。」
風を切る声が、背中に届くる。
小早川は振り返り、涙でぐしゃぐしゃになった顔を見せた。
「近寄るな……! 私は犯罪者だ……! 粉飾決算をやらかした……人間のクズだ……!」
「やらなければ、“クズ”として追い出され、娘は進学できなかった。」
龍立は近づき、脱ぎ捨てられた革靴を拾い上げる。
軽く埃を払って、彼の足元にそっと置いた。
「履けよ、小早川。
お前は犯罪者なんかじゃない。被害者だ。」
「本当に叩き落とされるべき奴は、お前じゃない。
ワインを飲みながら、人に罪をなすりつけたあの男だ。」
「でも……俺には、選択肢なんてなかった……」
「ある。」
掌ほどの黒い名刺が、胸ポケットに差し込まれる。
「“粉飾しろ”という指示メールの原本を、俺に渡してくれ。
今日からお前は、黒崎の共犯じゃない。俺の“汚点証人”だ。」
「娘さんの学費の件だが――」
龍立は、絶望に沈む父親をまっすぐ見つめた。
「彼女が医学部を卒業するまでの六六年、全額をカバーする特別奨学金を作る。
お前が不正に手を染めたからじゃない。
家族を守ろうとして、十年も胃を痛め続けた“いい父親”だからだ。」
小早川は呆然とし、唇を震わせた。
「ただし、一つだけ条件がある。」
龍立は右手を差し出す。
「生きろ。背筋を伸ばして、法廷に立て。」
「そこの悪魔を、自分の口で指さすんだ。」
「う、うわあああああああああっ……!」
小早川はその手を掴み、子どものように声を上げて泣いた。
十年間溜め込み続けた屈辱と後悔が、一気に溢れ出していく。
場所:澄原金融タワー・財務本部
大理石とガラスのカーテンウォールで築かれた黄金の塔。
そこは澄原グループの心臓部であり、数兆円規模のキャッシュが脈打つ中枢だった。
だが同時に、それは墓標でもある。
午前三時。
三十五階の灯りは、まだ消える気配を見せない。
白いワイシャツ姿の会計士たちが、養鶏場のブロイラーのように狭いブースに押し込められていた。
会話はほとんどない。聞こえるのは、ひたすら続くキーボードの打鍵音と、胃薬の匂いだけだ。
小早川誠、四十五歳。財務本部・核算二課の課長。
薄くなった頭頂部、曲がった背中。胸ポケットにはいつも「太田胃散」が入っている。
「小早川。このデータ、まだ“調整”終わってないのか?」
背後から声が落ちてくる。
CFO・黒崎賢が、赤ワインのグラス片手に彼の背後に立っていた。
「本部長……実支出の伝票は五十億しかありません。しかし本部長の指示では八十億を計上しろと……
この三十億の差額分、裏付けの証憑がどうしても――」
「見つからない?」
黒崎は笑った。上半身を曲げ、耳元に顔を寄せる。
「聞いたぞ。お前の長女の友美ちゃん、来年、慶應の医学部を受けるんだって?」
小早川の身体が、びくんと硬直する。
「学費――まだ足りてないそうじゃないか。」
「この程度の帳尻も合わせられない課長なんて、そろそろ椅子を空けてもらうしかないな。
“能力不足”で肩を叩かれたら、退職金は一銭も出ない。」
「そうなったら、友美ちゃんの医者の夢は……儚く消えるわけだ。」
これは脅しではない。
家族の未来そのものを人質に取る、冷酷な宣告だった。
「……わ、わかりました……」
小早川は震える指で、Backspaceキーを押す。
彼は「50,000,000,000」の数字を消し、「80,000,000,000」と打ち直した。
一打鍵ごとに、心臓に針が刺さる。
それでも、指は止まらない。
――翌日、正午。
金融タワー・屋上。
龍立がドアを押し開けると、手すりもないビルの縁に、一つの人影が立っていた。
小早川だった。
靴を脱ぎ、手にはくしゃくしゃになった遺書。
「もし俺があなただったら、飛び降りない。」
風を切る声が、背中に届くる。
小早川は振り返り、涙でぐしゃぐしゃになった顔を見せた。
「近寄るな……! 私は犯罪者だ……! 粉飾決算をやらかした……人間のクズだ……!」
「やらなければ、“クズ”として追い出され、娘は進学できなかった。」
龍立は近づき、脱ぎ捨てられた革靴を拾い上げる。
軽く埃を払って、彼の足元にそっと置いた。
「履けよ、小早川。
お前は犯罪者なんかじゃない。被害者だ。」
「本当に叩き落とされるべき奴は、お前じゃない。
ワインを飲みながら、人に罪をなすりつけたあの男だ。」
「でも……俺には、選択肢なんてなかった……」
「ある。」
掌ほどの黒い名刺が、胸ポケットに差し込まれる。
「“粉飾しろ”という指示メールの原本を、俺に渡してくれ。
今日からお前は、黒崎の共犯じゃない。俺の“汚点証人”だ。」
「娘さんの学費の件だが――」
龍立は、絶望に沈む父親をまっすぐ見つめた。
「彼女が医学部を卒業するまでの六六年、全額をカバーする特別奨学金を作る。
お前が不正に手を染めたからじゃない。
家族を守ろうとして、十年も胃を痛め続けた“いい父親”だからだ。」
小早川は呆然とし、唇を震わせた。
「ただし、一つだけ条件がある。」
龍立は右手を差し出す。
「生きろ。背筋を伸ばして、法廷に立て。」
「そこの悪魔を、自分の口で指さすんだ。」
「う、うわあああああああああっ……!」
小早川はその手を掴み、子どものように声を上げて泣いた。
十年間溜め込み続けた屈辱と後悔が、一気に溢れ出していく。
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