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第四十二話 狂気のギャンブラー
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時間:手術前夜 23:00
場所:伊豆諸島海域 & 東都大学附属病院
「社長、マジでやめましょうよ……この海況で出たら、本当に死にますって!」
吉岡は、岸壁に打ちつける十メートル級の波を見て、膝が笑っていた。
「普通の船ならな。――だが、あれは“ポセイドン”だ」
龍立が指さす暗い海面の向こうから、異様なシルエットが、波を裂いて姿を現した。異星人の戦艦のような、鋼鉄の怪物。
小水線面双胴船――SWATH(スワス)。
本来は、澄心物流が、最悪の海況下でも精密半導体を輸送するために、巨額を投じて導入した全天候型スペシャルカーゴシップだった。水面に出ている部分は小さく、本体は、波のうねりから逃れるように、水面下に沈んでいる。どれほどの大波でも、甲板はまるで陸のように安定していた。
「南方先生、乗ってください」
龍立は南方仁の腕をつかみ、そのまま「ポセイドン」の甲板へ飛び乗る。エンジンが吠え、鉄の怪物は黒い大波を切り裂いて、東京へ向かって疾走し始めた。
◇
翌日 午前4時。東都大学附属病院・VIP病室。
まだ夜の闇が残る廊下を、全身ずぶ濡れの龍立と南方仁が、ほとんど駆け込むようにして病室の扉を開ける。ベッドには、母・織田 光子が横たわっていた。
歳月はその顔に確かな皺を刻んでいるが、本来の気品は隠しようがない。名家・織田家の娘としての、静かな高貴さ。濡れ鼠になった息子の姿を見て、光子は弱々しく笑い、今にも泣きそうな目をした。
「龍立……。外、あんなに雨が……。どうしてそんな格好で……」
手を伸ばして汗を拭いてやろうとして、力が入らず、途中で止まる。澄原家という冷血な闘技場の中で、龍立にだけは、ただの「母」であり続けた人。
「母さん、しゃべらないで。少しでも体力を残して」
龍立は、その冷え切った手を、両手で包み込む。胸の奥が裂けるように痛んだ。
「ただちに、この手術を中止させろ!」
南方仁は、ほとんど飛びかかるようにしてベッドサイドに来て、カルテとCTアンギオのフィルムをひったくる。一瞥しただけで、その顔色が変わった。
「……やっぱりな。ここだ、“禁忌”そのものだ。動脈瘤の近位ネック(プロキシマル・ネック)の角度がデタラメだ。六十度どころか、それ以上ねじれてる。ゼウスのステントがまともに貼りつくわけがない。こんなもん、入れた瞬間にタイプⅠエンドリークだ。最悪、ステントがずれて、そのまま血管を刺し破る」
「社長! 即刻中止です! 従来の人工血管置換のオープン手術に切り替えろ!」
「無礼者!!」
病室のドアが乱暴に開き、父・澄原 惟宗と、財前院長が大勢の医師を引き連れて入ってきた。
「どこの野良犬だ、私の病院で吠え散らかしているのは」
財前は、南方仁の顔を見るなり、鼻で笑い、ネクタイを直した。
「おやおや、これはこれは――クビになった元・南方先生じゃありませんか。島では診察料が稼げないから、今度は社長夫人の手術を邪魔して小遣い稼ぎですか?」
龍立は立ち上がり、南方仁の前に一歩進み出て、その両者の間に立った。
「父さん。南方先生は、ゼウスに致命的な欠陥があると言っている。しかも、その欠陥は“母さんのような症例”をモデルに、高圧テストで確認されている。これ以上、母さんの命を賭けのチップにするわけにはいかない」
惟宗は、息子に視線を向けようともしない。まるで、邪魔な駒でも見ているかのように、袖口のしわを整えながら、淡々と言った。
「龍立。この手術のために、私はどれほどの政財界の要人と、医学界の大物たちを“見学”に呼んでいると思う?」
「ゼウスの“初の臨床応用”――これは、日本製医療機器の夜明けを告げる記念碑だ。ここで成功させれば、財前院長は医師会会長だ。澄原グループの株価は跳ね上がり、我が家の影響力はさらに増す。これは単なる手術ではない。政治だ」
龍立は目を見開く。
「記念碑? 株価? 政治? 彼女は“母さん”だ。織田家の娘であり、あなたの妻だ。その命を、実験台にするつもりか!」
惟宗の視線が、冷たく細くなる。そこには、父親としての情など一片もなかった。
「彼女は澄原家の“嫁”だ。家のために身をささげるのは、当然の義務だろう」
「それに、開胸手術となれば、三十センチの傷跡が残る。織田の女は、死ぬにしても美しく死ぬべきだ。胸に醜い傷跡を残すなど、許されん」
「……その“見栄”は、命より重いのですか」
龍立は、絞り出すように吼えた。
「龍立……。お父さんの言う通りにして」
ベッドの上で、母がかすれた声で言った。夫の言葉の意味は理解している。しかし、抵抗しなかった。この何十年、彼女はこの家に従うことしか知らなかった。ただ、諦め切ったように目を閉じ、目尻に、一筋の涙が流れた。
龍立は、手術室前の廊下に出るしかなかった。閉じられたドアを、血が出るほど強く握りしめ、爪が掌に食い込んで、じわりと赤い滴がこぼれる。
「……いいだろう」
雨に打たれた夜の中で、龍立は、一台のスマホを取り出す。――数千億を動かすことができる、黒い板。
「ブルーホエール・キャピタルのチーフトレーダーにつないでくれ」
「“デヴァウリング・プラン(吞噬計画)”を発動だ。東都医療グループの転換社債と短期債務、市場に出ている分をすべて買い集めろ。今夜のうちに、この病院の“最大債権者”になる」
場所:伊豆諸島海域 & 東都大学附属病院
「社長、マジでやめましょうよ……この海況で出たら、本当に死にますって!」
吉岡は、岸壁に打ちつける十メートル級の波を見て、膝が笑っていた。
「普通の船ならな。――だが、あれは“ポセイドン”だ」
龍立が指さす暗い海面の向こうから、異様なシルエットが、波を裂いて姿を現した。異星人の戦艦のような、鋼鉄の怪物。
小水線面双胴船――SWATH(スワス)。
本来は、澄心物流が、最悪の海況下でも精密半導体を輸送するために、巨額を投じて導入した全天候型スペシャルカーゴシップだった。水面に出ている部分は小さく、本体は、波のうねりから逃れるように、水面下に沈んでいる。どれほどの大波でも、甲板はまるで陸のように安定していた。
「南方先生、乗ってください」
龍立は南方仁の腕をつかみ、そのまま「ポセイドン」の甲板へ飛び乗る。エンジンが吠え、鉄の怪物は黒い大波を切り裂いて、東京へ向かって疾走し始めた。
◇
翌日 午前4時。東都大学附属病院・VIP病室。
まだ夜の闇が残る廊下を、全身ずぶ濡れの龍立と南方仁が、ほとんど駆け込むようにして病室の扉を開ける。ベッドには、母・織田 光子が横たわっていた。
歳月はその顔に確かな皺を刻んでいるが、本来の気品は隠しようがない。名家・織田家の娘としての、静かな高貴さ。濡れ鼠になった息子の姿を見て、光子は弱々しく笑い、今にも泣きそうな目をした。
「龍立……。外、あんなに雨が……。どうしてそんな格好で……」
手を伸ばして汗を拭いてやろうとして、力が入らず、途中で止まる。澄原家という冷血な闘技場の中で、龍立にだけは、ただの「母」であり続けた人。
「母さん、しゃべらないで。少しでも体力を残して」
龍立は、その冷え切った手を、両手で包み込む。胸の奥が裂けるように痛んだ。
「ただちに、この手術を中止させろ!」
南方仁は、ほとんど飛びかかるようにしてベッドサイドに来て、カルテとCTアンギオのフィルムをひったくる。一瞥しただけで、その顔色が変わった。
「……やっぱりな。ここだ、“禁忌”そのものだ。動脈瘤の近位ネック(プロキシマル・ネック)の角度がデタラメだ。六十度どころか、それ以上ねじれてる。ゼウスのステントがまともに貼りつくわけがない。こんなもん、入れた瞬間にタイプⅠエンドリークだ。最悪、ステントがずれて、そのまま血管を刺し破る」
「社長! 即刻中止です! 従来の人工血管置換のオープン手術に切り替えろ!」
「無礼者!!」
病室のドアが乱暴に開き、父・澄原 惟宗と、財前院長が大勢の医師を引き連れて入ってきた。
「どこの野良犬だ、私の病院で吠え散らかしているのは」
財前は、南方仁の顔を見るなり、鼻で笑い、ネクタイを直した。
「おやおや、これはこれは――クビになった元・南方先生じゃありませんか。島では診察料が稼げないから、今度は社長夫人の手術を邪魔して小遣い稼ぎですか?」
龍立は立ち上がり、南方仁の前に一歩進み出て、その両者の間に立った。
「父さん。南方先生は、ゼウスに致命的な欠陥があると言っている。しかも、その欠陥は“母さんのような症例”をモデルに、高圧テストで確認されている。これ以上、母さんの命を賭けのチップにするわけにはいかない」
惟宗は、息子に視線を向けようともしない。まるで、邪魔な駒でも見ているかのように、袖口のしわを整えながら、淡々と言った。
「龍立。この手術のために、私はどれほどの政財界の要人と、医学界の大物たちを“見学”に呼んでいると思う?」
「ゼウスの“初の臨床応用”――これは、日本製医療機器の夜明けを告げる記念碑だ。ここで成功させれば、財前院長は医師会会長だ。澄原グループの株価は跳ね上がり、我が家の影響力はさらに増す。これは単なる手術ではない。政治だ」
龍立は目を見開く。
「記念碑? 株価? 政治? 彼女は“母さん”だ。織田家の娘であり、あなたの妻だ。その命を、実験台にするつもりか!」
惟宗の視線が、冷たく細くなる。そこには、父親としての情など一片もなかった。
「彼女は澄原家の“嫁”だ。家のために身をささげるのは、当然の義務だろう」
「それに、開胸手術となれば、三十センチの傷跡が残る。織田の女は、死ぬにしても美しく死ぬべきだ。胸に醜い傷跡を残すなど、許されん」
「……その“見栄”は、命より重いのですか」
龍立は、絞り出すように吼えた。
「龍立……。お父さんの言う通りにして」
ベッドの上で、母がかすれた声で言った。夫の言葉の意味は理解している。しかし、抵抗しなかった。この何十年、彼女はこの家に従うことしか知らなかった。ただ、諦め切ったように目を閉じ、目尻に、一筋の涙が流れた。
龍立は、手術室前の廊下に出るしかなかった。閉じられたドアを、血が出るほど強く握りしめ、爪が掌に食い込んで、じわりと赤い滴がこぼれる。
「……いいだろう」
雨に打たれた夜の中で、龍立は、一台のスマホを取り出す。――数千億を動かすことができる、黒い板。
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