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第七十六話 国家機械の絞首縄
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時刻:早朝 06:00
場所:東京湾・F区(澄心ホーム)入口 & 澄心系各社本部
空は鉛色で、今にも落ちてきそうだった。針のような霧雨が、F区の早起きの住民の頬を刺す。本来は静かなはずのゲートが、今は黒い海に呑まれていた。
無標識の黒いトヨタ・クラウンが数百台。沈黙するサメの群れみたいに、あらゆる出入口を塞いでいる。車のドアが一斉に開いた。
降りてきたのは、濃色のトレンチコートに身を包み、銀色の金属ケースを提げた男たち。胸元で暗い朝光を返す金の徽章――国税局査察部、通称「マルサ」の標章だった。
「関係者以外は退避! 公務執行中だ!」
先頭の査察官は無表情で、声は氷のように冷たい。裁判所発付の特別捜索令状を掲げ、スマホで撮影しようとした若い住民を乱暴に押しのけた。若者はよろめいて倒れ、スマホは遠くへ跳ねて、画面が砕け散った。
――同時刻。数キロ先。澄心銀行本店。
ロビーのシャッターが上がる前に、深い紺の制服の一団が踏み込んだ。金融庁・特別検査班。彼らは主幹サーバーの電源を直に落とし、データセンターに黄色い封印紙を貼った。
理由は短く、致命的だった。「国際マネーロンダリングへの関与の疑い。国家金融安全保障を脅かす恐れ。即時、全業務を凍結。現金引き出しは一日一万円まで。」
――澄心ホールディングス・CEO室。
赤い警報灯が壁面で狂ったように点滅し、電話が鳴り続ける。乱雑な交響曲のような騒音の中へ、吉岡俊介が汗だくで飛び込んできた。手のタブレットが滑り落ちそうになる。
「社長! 国税と金融庁だけじゃありません! さっき国交省が“消防上の危険”を理由に、F区の商業施設を全て営業停止に! 厚労省も精工工場に踏み込んで“労安”の総点検だと言ってます……!」
「全面包囲だ。」佐久間拓也の顔は青ざめ、声が震えた。「大門剛造が動きました。ヤクザみたいな下衆な手じゃない――国家機械そのものを回してきた。一夜で、俺たちの酸素の管を引き抜く気です。」
そのとき、CEO室のドアがゆっくり開いた。松本(CFO)が入ってくる。かつて澄原グループで長年“闇”の帳簿を扱い、半生を影の中で生き延びてきた老会計。今は湯気の立つ茶を二杯、両手で運んでいた。手は少し震えている。だが目は、驚くほど静かだった。
「社長、お茶です。」松本は龍立の前に茶を置き、低く言った。
「下のマルサ……昔、何度も相手にしました。先頭の鬼塚――“カミソリ”です。査察じゃない。難癖をつけに来てる。」
龍立は茶碗を取り、浮いた泡をふっと吹く。外の喧騒が、まるで他人事のように遠い。
「うちの帳簿に瑕疵はあるか。」
「断じてありません。」松本は眼鏡を押し上げ、背筋を伸ばした。「あなたについてから、澄心の金は蒸留水みたいに清潔です。――ただし。」
松本は息を吐いた。重い息だ。「この国では、“潔白”は護符にならない。正当な海外投資を洗浄と断じ、合法の税務設計を脱税に仕立てる。数カ月引き延ばされるだけで流動性が枯れ、仕入れ先が怯え、資金繰りが切れる。そうなれば最後は――破綻処理です。」
下階から、足音と引き出しをひっくり返す騒音が響いた。査察官たちが経理フロアに雪崩れ込み、強盗のようにPCと箱ファイルを運び出している。監視モニター越しに、入社したばかりの若い女性会計が、隅で身を縮めて泣くのが見えた。
龍立は茶碗を置いた。その所作の落ち着きが、室内の混乱に一瞬で“芯”を通す。
「松本。行って、連中と茶でも飲め。帳簿を全部出せ。山にして積め。査ると言うなら、飽めるまで査させろ。」
龍立は立ち上がり、落地窓へ歩く。下に広がるのは、国家暴力装置の黒い車列。雨に濡れたボディが、冷たく光る。
「吉岡。全区放送を開け。俺が、皆に話す。」
数秒後。龍立の声が、霧雨を突き抜け、封鎖されたF区の空へ響き渡った。怯える職員にも、家に閉じ込められた住民にも、等しく届く。
「澄原龍立だ。皆、見ただろう。大物が焦っている。権力を総動員して、俺たちを脅しに来た。なぜだ? 俺たちが“正しいこと”をしたからだ。吸血を拒み、働いた分の給料を満額で払った。農家の野菜を正当な値で買い取った。それが連中には、恐怖なんだ。怖がるな。給料は出す。門を塞ぐなら、俺たちは有給休暇だ。覚えておけ。夜明け前の闇ほど、騒がしい。震えているから、声が大きいんだ。」
下の査察官たちの手が、一瞬だけ止まった。捜索される側が怯えるどころか、見世物を眺めるように余裕を見せる――そんな場面を、彼らは見たことがなかった。
――同じ頃、永田町。
大門剛造は広い議員事務所で、F区のリアルタイム映像を見ていた。口元に、残酷な笑みが浮かぶ。「強がるか。なら、その口を縫ってやる。」
彼はメディア中枢へ直通する赤い専用電話を取った。「始めろ。今夜以降、“澄原龍立”という名を、国中が唾を吐く“通り魔ネズミ”にしてやる。」
場所:東京湾・F区(澄心ホーム)入口 & 澄心系各社本部
空は鉛色で、今にも落ちてきそうだった。針のような霧雨が、F区の早起きの住民の頬を刺す。本来は静かなはずのゲートが、今は黒い海に呑まれていた。
無標識の黒いトヨタ・クラウンが数百台。沈黙するサメの群れみたいに、あらゆる出入口を塞いでいる。車のドアが一斉に開いた。
降りてきたのは、濃色のトレンチコートに身を包み、銀色の金属ケースを提げた男たち。胸元で暗い朝光を返す金の徽章――国税局査察部、通称「マルサ」の標章だった。
「関係者以外は退避! 公務執行中だ!」
先頭の査察官は無表情で、声は氷のように冷たい。裁判所発付の特別捜索令状を掲げ、スマホで撮影しようとした若い住民を乱暴に押しのけた。若者はよろめいて倒れ、スマホは遠くへ跳ねて、画面が砕け散った。
――同時刻。数キロ先。澄心銀行本店。
ロビーのシャッターが上がる前に、深い紺の制服の一団が踏み込んだ。金融庁・特別検査班。彼らは主幹サーバーの電源を直に落とし、データセンターに黄色い封印紙を貼った。
理由は短く、致命的だった。「国際マネーロンダリングへの関与の疑い。国家金融安全保障を脅かす恐れ。即時、全業務を凍結。現金引き出しは一日一万円まで。」
――澄心ホールディングス・CEO室。
赤い警報灯が壁面で狂ったように点滅し、電話が鳴り続ける。乱雑な交響曲のような騒音の中へ、吉岡俊介が汗だくで飛び込んできた。手のタブレットが滑り落ちそうになる。
「社長! 国税と金融庁だけじゃありません! さっき国交省が“消防上の危険”を理由に、F区の商業施設を全て営業停止に! 厚労省も精工工場に踏み込んで“労安”の総点検だと言ってます……!」
「全面包囲だ。」佐久間拓也の顔は青ざめ、声が震えた。「大門剛造が動きました。ヤクザみたいな下衆な手じゃない――国家機械そのものを回してきた。一夜で、俺たちの酸素の管を引き抜く気です。」
そのとき、CEO室のドアがゆっくり開いた。松本(CFO)が入ってくる。かつて澄原グループで長年“闇”の帳簿を扱い、半生を影の中で生き延びてきた老会計。今は湯気の立つ茶を二杯、両手で運んでいた。手は少し震えている。だが目は、驚くほど静かだった。
「社長、お茶です。」松本は龍立の前に茶を置き、低く言った。
「下のマルサ……昔、何度も相手にしました。先頭の鬼塚――“カミソリ”です。査察じゃない。難癖をつけに来てる。」
龍立は茶碗を取り、浮いた泡をふっと吹く。外の喧騒が、まるで他人事のように遠い。
「うちの帳簿に瑕疵はあるか。」
「断じてありません。」松本は眼鏡を押し上げ、背筋を伸ばした。「あなたについてから、澄心の金は蒸留水みたいに清潔です。――ただし。」
松本は息を吐いた。重い息だ。「この国では、“潔白”は護符にならない。正当な海外投資を洗浄と断じ、合法の税務設計を脱税に仕立てる。数カ月引き延ばされるだけで流動性が枯れ、仕入れ先が怯え、資金繰りが切れる。そうなれば最後は――破綻処理です。」
下階から、足音と引き出しをひっくり返す騒音が響いた。査察官たちが経理フロアに雪崩れ込み、強盗のようにPCと箱ファイルを運び出している。監視モニター越しに、入社したばかりの若い女性会計が、隅で身を縮めて泣くのが見えた。
龍立は茶碗を置いた。その所作の落ち着きが、室内の混乱に一瞬で“芯”を通す。
「松本。行って、連中と茶でも飲め。帳簿を全部出せ。山にして積め。査ると言うなら、飽めるまで査させろ。」
龍立は立ち上がり、落地窓へ歩く。下に広がるのは、国家暴力装置の黒い車列。雨に濡れたボディが、冷たく光る。
「吉岡。全区放送を開け。俺が、皆に話す。」
数秒後。龍立の声が、霧雨を突き抜け、封鎖されたF区の空へ響き渡った。怯える職員にも、家に閉じ込められた住民にも、等しく届く。
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下の査察官たちの手が、一瞬だけ止まった。捜索される側が怯えるどころか、見世物を眺めるように余裕を見せる――そんな場面を、彼らは見たことがなかった。
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