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第八十一話 沈黙のゆりかご
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時:特区権限を得てから最初の一か月後――晩秋。
所:東京・某産婦人科の入口/澄心GIGAビル。
空から、冷たい雨が落ちていた。美咲は産婦人科の軒下に立ち、手の中の一枚の紙を握りしめている。
《人工妊娠中絶 同意書》。
紙の端は雨気を吸い、指先の熱で少しずつ柔らかくなっていた。彼女はGIGA互娯の主力原画師だ。たった今、彼女は『幻星神域2』の中枢開発を走り抜けたばかり――職業人生の分水嶺にいる。その矢先、昨日。妊娠が判明した。
この国の職場の「暗黙のルール」では、それは“チームに迷惑をかける”という罪になる。妊娠を公表した瞬間、プロジェクトから外され、評価を止められ、最悪は自主退職へ追い込まれる。マタハラ――孕(はら)むことが、罰になる社会。
「ごめんね……赤ちゃん……」
美咲はまだ膨らんでもいない腹に手を当て、涙を零した。雨と混ざり、頬を伝って落ちていく。
「ママ……仕事を失えない……」
隣に立つ婚約者の佐藤(Sato)も、苦しげに唇を噛む。給料は上がった。だが、それでも未来に対する根の深い不安が消えない。この国の不安は、給与では解決しない。生活の土台そのものが揺らいでいるからだ。
二人は、命を迎えたいのに、迎える勇気を奪われていた。美咲が震える手で扉へ伸ばした、その瞬間――。
彼女のスマホと、佐藤のスマホが同時に、鋭い振動音を鳴らした。澄心グループ最高レベルの「全員・赤色ポップアップ」。
【緊急・全社員ライブ】
【テーマ:「生命」に関する特別発表会】
【登壇:澄原 龍立】
美咲は息を呑み、反射的に配信を開いた。画面の向こう。龍立は、できたばかりの、まだ空っぽの幼稚園のホールに立っていた。スーツではない。柔らかなベージュのニット。だが、その眼差しの底にある怒りだけは隠せない。静かに燃える、鋼の火だ。
「さっき、会社の下で――一人の女性社員を見た。」
低い声が、画面を貫き、美咲の胸の奥へ真っ直ぐ刺さる。
「彼女は泣いていた。妊娠した。本来ならこの世で一番幸せなはずなのに、彼女は盗人みたいに怯えていた。クビになるのが怖い。育てられないのが怖い。だから――堕ろそうとしていた。」
龍立の声が少し沈む。沈みが、怒りの重さになる。
「俺は腹が立った。彼女にじゃない。“新しい命”を“負担”として扱う――このゴミみたいな社会にだ。」
彼が手を強く振ると、背後の大スクリーンが点いた。F区最新の《生命法案》が、冷たい光で浮かび上がる。
「よく聞け。澄心の社員たち。今、この瞬間から――F区では、“子どもを産む”ことが、最高ランクの仕事(S級任務)になる。」
第一の爆点。
「生育は“就業”と同格だ。妊娠期間および出産後三年間――給与は満額支給。評価は“所属部署の上位平均”を適用する。ポストは永久に保留し、戻る場所は消さない。」
「国家級の養育を保証する。子どもは出生と同時にF区の住民資格を得る。ミルク、オムツ、医療――そして大学卒業までの学費。すべて、会社が負担する。」
「君たちがやるのは、ただ一つ。“愛すること”だけだ。金は、俺が出す。」
美咲の指がほどけた。同意書が手を離れ、水溜まりへ落ちる。雨が紙面の文字を滲ませていく。まるで、“これまでの世界”が溶けていくように。
佐藤はスマホを見つめたまま、声が出ない。「……全部……? 学費まで……?」
第二の爆点。
龍立は、カメラに向けて視線を落とした。その目が、不思議なほど柔らかくなる。
「まだ怖いことがあるのも分かってる。誰が面倒を見る? 体型が崩れる? 眠れない? 自分が壊れる? 大丈夫だ。君たちのために、軍隊を用意した。AIと、最高峰の育児専門家で構成された“軍隊”だ。オムツ替え、寝かしつけ、離乳食――全部やる。」
そして、龍立は突然、カメラ越しに名前を呼んだ。まるで、美咲が見ていることを知っているかのように。
「美咲。」
美咲の心臓が止まった。
「もし今、見ているなら――その同意書を捨てろ。戻ってこい。君の子は、澄心の子だ。“迷惑”と言った奴がいるなら――俺が地球から消してやる。」
産婦人科の入口。美咲は口を押さえ、その場にしゃがみ込んで泣き崩れた。
これは、絶望の涙じゃない。巨大な安全保障に包まれた人間が、張り詰めた糸をほどいたときの涙だ。
美咲は佐藤の手を掴み、雨の中へ飛び出した。振り返らない。あの扉へは、二度と戻らない。
所:東京・某産婦人科の入口/澄心GIGAビル。
空から、冷たい雨が落ちていた。美咲は産婦人科の軒下に立ち、手の中の一枚の紙を握りしめている。
《人工妊娠中絶 同意書》。
紙の端は雨気を吸い、指先の熱で少しずつ柔らかくなっていた。彼女はGIGA互娯の主力原画師だ。たった今、彼女は『幻星神域2』の中枢開発を走り抜けたばかり――職業人生の分水嶺にいる。その矢先、昨日。妊娠が判明した。
この国の職場の「暗黙のルール」では、それは“チームに迷惑をかける”という罪になる。妊娠を公表した瞬間、プロジェクトから外され、評価を止められ、最悪は自主退職へ追い込まれる。マタハラ――孕(はら)むことが、罰になる社会。
「ごめんね……赤ちゃん……」
美咲はまだ膨らんでもいない腹に手を当て、涙を零した。雨と混ざり、頬を伝って落ちていく。
「ママ……仕事を失えない……」
隣に立つ婚約者の佐藤(Sato)も、苦しげに唇を噛む。給料は上がった。だが、それでも未来に対する根の深い不安が消えない。この国の不安は、給与では解決しない。生活の土台そのものが揺らいでいるからだ。
二人は、命を迎えたいのに、迎える勇気を奪われていた。美咲が震える手で扉へ伸ばした、その瞬間――。
彼女のスマホと、佐藤のスマホが同時に、鋭い振動音を鳴らした。澄心グループ最高レベルの「全員・赤色ポップアップ」。
【緊急・全社員ライブ】
【テーマ:「生命」に関する特別発表会】
【登壇:澄原 龍立】
美咲は息を呑み、反射的に配信を開いた。画面の向こう。龍立は、できたばかりの、まだ空っぽの幼稚園のホールに立っていた。スーツではない。柔らかなベージュのニット。だが、その眼差しの底にある怒りだけは隠せない。静かに燃える、鋼の火だ。
「さっき、会社の下で――一人の女性社員を見た。」
低い声が、画面を貫き、美咲の胸の奥へ真っ直ぐ刺さる。
「彼女は泣いていた。妊娠した。本来ならこの世で一番幸せなはずなのに、彼女は盗人みたいに怯えていた。クビになるのが怖い。育てられないのが怖い。だから――堕ろそうとしていた。」
龍立の声が少し沈む。沈みが、怒りの重さになる。
「俺は腹が立った。彼女にじゃない。“新しい命”を“負担”として扱う――このゴミみたいな社会にだ。」
彼が手を強く振ると、背後の大スクリーンが点いた。F区最新の《生命法案》が、冷たい光で浮かび上がる。
「よく聞け。澄心の社員たち。今、この瞬間から――F区では、“子どもを産む”ことが、最高ランクの仕事(S級任務)になる。」
第一の爆点。
「生育は“就業”と同格だ。妊娠期間および出産後三年間――給与は満額支給。評価は“所属部署の上位平均”を適用する。ポストは永久に保留し、戻る場所は消さない。」
「国家級の養育を保証する。子どもは出生と同時にF区の住民資格を得る。ミルク、オムツ、医療――そして大学卒業までの学費。すべて、会社が負担する。」
「君たちがやるのは、ただ一つ。“愛すること”だけだ。金は、俺が出す。」
美咲の指がほどけた。同意書が手を離れ、水溜まりへ落ちる。雨が紙面の文字を滲ませていく。まるで、“これまでの世界”が溶けていくように。
佐藤はスマホを見つめたまま、声が出ない。「……全部……? 学費まで……?」
第二の爆点。
龍立は、カメラに向けて視線を落とした。その目が、不思議なほど柔らかくなる。
「まだ怖いことがあるのも分かってる。誰が面倒を見る? 体型が崩れる? 眠れない? 自分が壊れる? 大丈夫だ。君たちのために、軍隊を用意した。AIと、最高峰の育児専門家で構成された“軍隊”だ。オムツ替え、寝かしつけ、離乳食――全部やる。」
そして、龍立は突然、カメラ越しに名前を呼んだ。まるで、美咲が見ていることを知っているかのように。
「美咲。」
美咲の心臓が止まった。
「もし今、見ているなら――その同意書を捨てろ。戻ってこい。君の子は、澄心の子だ。“迷惑”と言った奴がいるなら――俺が地球から消してやる。」
産婦人科の入口。美咲は口を押さえ、その場にしゃがみ込んで泣き崩れた。
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