81 / 140
第八十一話 沈黙のゆりかご
しおりを挟む
時:特区権限を得てから最初の一か月後――晩秋。
所:東京・某産婦人科の入口/澄心GIGAビル。
空から、冷たい雨が落ちていた。美咲は産婦人科の軒下に立ち、手の中の一枚の紙を握りしめている。
《人工妊娠中絶 同意書》。
紙の端は雨気を吸い、指先の熱で少しずつ柔らかくなっていた。彼女はGIGA互娯の主力原画師だ。たった今、彼女は『幻星神域2』の中枢開発を走り抜けたばかり――職業人生の分水嶺にいる。その矢先、昨日。妊娠が判明した。
この国の職場の「暗黙のルール」では、それは“チームに迷惑をかける”という罪になる。妊娠を公表した瞬間、プロジェクトから外され、評価を止められ、最悪は自主退職へ追い込まれる。マタハラ――孕(はら)むことが、罰になる社会。
「ごめんね……赤ちゃん……」
美咲はまだ膨らんでもいない腹に手を当て、涙を零した。雨と混ざり、頬を伝って落ちていく。
「ママ……仕事を失えない……」
隣に立つ婚約者の佐藤(Sato)も、苦しげに唇を噛む。給料は上がった。だが、それでも未来に対する根の深い不安が消えない。この国の不安は、給与では解決しない。生活の土台そのものが揺らいでいるからだ。
二人は、命を迎えたいのに、迎える勇気を奪われていた。美咲が震える手で扉へ伸ばした、その瞬間――。
彼女のスマホと、佐藤のスマホが同時に、鋭い振動音を鳴らした。澄心グループ最高レベルの「全員・赤色ポップアップ」。
【緊急・全社員ライブ】
【テーマ:「生命」に関する特別発表会】
【登壇:澄原 龍立】
美咲は息を呑み、反射的に配信を開いた。画面の向こう。龍立は、できたばかりの、まだ空っぽの幼稚園のホールに立っていた。スーツではない。柔らかなベージュのニット。だが、その眼差しの底にある怒りだけは隠せない。静かに燃える、鋼の火だ。
「さっき、会社の下で――一人の女性社員を見た。」
低い声が、画面を貫き、美咲の胸の奥へ真っ直ぐ刺さる。
「彼女は泣いていた。妊娠した。本来ならこの世で一番幸せなはずなのに、彼女は盗人みたいに怯えていた。クビになるのが怖い。育てられないのが怖い。だから――堕ろそうとしていた。」
龍立の声が少し沈む。沈みが、怒りの重さになる。
「俺は腹が立った。彼女にじゃない。“新しい命”を“負担”として扱う――このゴミみたいな社会にだ。」
彼が手を強く振ると、背後の大スクリーンが点いた。F区最新の《生命法案》が、冷たい光で浮かび上がる。
「よく聞け。澄心の社員たち。今、この瞬間から――F区では、“子どもを産む”ことが、最高ランクの仕事(S級任務)になる。」
第一の爆点。
「生育は“就業”と同格だ。妊娠期間および出産後三年間――給与は満額支給。評価は“所属部署の上位平均”を適用する。ポストは永久に保留し、戻る場所は消さない。」
「国家級の養育を保証する。子どもは出生と同時にF区の住民資格を得る。ミルク、オムツ、医療――そして大学卒業までの学費。すべて、会社が負担する。」
「君たちがやるのは、ただ一つ。“愛すること”だけだ。金は、俺が出す。」
美咲の指がほどけた。同意書が手を離れ、水溜まりへ落ちる。雨が紙面の文字を滲ませていく。まるで、“これまでの世界”が溶けていくように。
佐藤はスマホを見つめたまま、声が出ない。「……全部……? 学費まで……?」
第二の爆点。
龍立は、カメラに向けて視線を落とした。その目が、不思議なほど柔らかくなる。
「まだ怖いことがあるのも分かってる。誰が面倒を見る? 体型が崩れる? 眠れない? 自分が壊れる? 大丈夫だ。君たちのために、軍隊を用意した。AIと、最高峰の育児専門家で構成された“軍隊”だ。オムツ替え、寝かしつけ、離乳食――全部やる。」
そして、龍立は突然、カメラ越しに名前を呼んだ。まるで、美咲が見ていることを知っているかのように。
「美咲。」
美咲の心臓が止まった。
「もし今、見ているなら――その同意書を捨てろ。戻ってこい。君の子は、澄心の子だ。“迷惑”と言った奴がいるなら――俺が地球から消してやる。」
産婦人科の入口。美咲は口を押さえ、その場にしゃがみ込んで泣き崩れた。
これは、絶望の涙じゃない。巨大な安全保障に包まれた人間が、張り詰めた糸をほどいたときの涙だ。
美咲は佐藤の手を掴み、雨の中へ飛び出した。振り返らない。あの扉へは、二度と戻らない。
所:東京・某産婦人科の入口/澄心GIGAビル。
空から、冷たい雨が落ちていた。美咲は産婦人科の軒下に立ち、手の中の一枚の紙を握りしめている。
《人工妊娠中絶 同意書》。
紙の端は雨気を吸い、指先の熱で少しずつ柔らかくなっていた。彼女はGIGA互娯の主力原画師だ。たった今、彼女は『幻星神域2』の中枢開発を走り抜けたばかり――職業人生の分水嶺にいる。その矢先、昨日。妊娠が判明した。
この国の職場の「暗黙のルール」では、それは“チームに迷惑をかける”という罪になる。妊娠を公表した瞬間、プロジェクトから外され、評価を止められ、最悪は自主退職へ追い込まれる。マタハラ――孕(はら)むことが、罰になる社会。
「ごめんね……赤ちゃん……」
美咲はまだ膨らんでもいない腹に手を当て、涙を零した。雨と混ざり、頬を伝って落ちていく。
「ママ……仕事を失えない……」
隣に立つ婚約者の佐藤(Sato)も、苦しげに唇を噛む。給料は上がった。だが、それでも未来に対する根の深い不安が消えない。この国の不安は、給与では解決しない。生活の土台そのものが揺らいでいるからだ。
二人は、命を迎えたいのに、迎える勇気を奪われていた。美咲が震える手で扉へ伸ばした、その瞬間――。
彼女のスマホと、佐藤のスマホが同時に、鋭い振動音を鳴らした。澄心グループ最高レベルの「全員・赤色ポップアップ」。
【緊急・全社員ライブ】
【テーマ:「生命」に関する特別発表会】
【登壇:澄原 龍立】
美咲は息を呑み、反射的に配信を開いた。画面の向こう。龍立は、できたばかりの、まだ空っぽの幼稚園のホールに立っていた。スーツではない。柔らかなベージュのニット。だが、その眼差しの底にある怒りだけは隠せない。静かに燃える、鋼の火だ。
「さっき、会社の下で――一人の女性社員を見た。」
低い声が、画面を貫き、美咲の胸の奥へ真っ直ぐ刺さる。
「彼女は泣いていた。妊娠した。本来ならこの世で一番幸せなはずなのに、彼女は盗人みたいに怯えていた。クビになるのが怖い。育てられないのが怖い。だから――堕ろそうとしていた。」
龍立の声が少し沈む。沈みが、怒りの重さになる。
「俺は腹が立った。彼女にじゃない。“新しい命”を“負担”として扱う――このゴミみたいな社会にだ。」
彼が手を強く振ると、背後の大スクリーンが点いた。F区最新の《生命法案》が、冷たい光で浮かび上がる。
「よく聞け。澄心の社員たち。今、この瞬間から――F区では、“子どもを産む”ことが、最高ランクの仕事(S級任務)になる。」
第一の爆点。
「生育は“就業”と同格だ。妊娠期間および出産後三年間――給与は満額支給。評価は“所属部署の上位平均”を適用する。ポストは永久に保留し、戻る場所は消さない。」
「国家級の養育を保証する。子どもは出生と同時にF区の住民資格を得る。ミルク、オムツ、医療――そして大学卒業までの学費。すべて、会社が負担する。」
「君たちがやるのは、ただ一つ。“愛すること”だけだ。金は、俺が出す。」
美咲の指がほどけた。同意書が手を離れ、水溜まりへ落ちる。雨が紙面の文字を滲ませていく。まるで、“これまでの世界”が溶けていくように。
佐藤はスマホを見つめたまま、声が出ない。「……全部……? 学費まで……?」
第二の爆点。
龍立は、カメラに向けて視線を落とした。その目が、不思議なほど柔らかくなる。
「まだ怖いことがあるのも分かってる。誰が面倒を見る? 体型が崩れる? 眠れない? 自分が壊れる? 大丈夫だ。君たちのために、軍隊を用意した。AIと、最高峰の育児専門家で構成された“軍隊”だ。オムツ替え、寝かしつけ、離乳食――全部やる。」
そして、龍立は突然、カメラ越しに名前を呼んだ。まるで、美咲が見ていることを知っているかのように。
「美咲。」
美咲の心臓が止まった。
「もし今、見ているなら――その同意書を捨てろ。戻ってこい。君の子は、澄心の子だ。“迷惑”と言った奴がいるなら――俺が地球から消してやる。」
産婦人科の入口。美咲は口を押さえ、その場にしゃがみ込んで泣き崩れた。
これは、絶望の涙じゃない。巨大な安全保障に包まれた人間が、張り詰めた糸をほどいたときの涙だ。
美咲は佐藤の手を掴み、雨の中へ飛び出した。振り返らない。あの扉へは、二度と戻らない。
1
あなたにおすすめの小説
『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
見捨ててくれてありがとうございます。あとはご勝手に。
有賀冬馬
恋愛
「君のような女は俺の格を下げる」――そう言って、侯爵家嫡男の婚約者は、わたしを社交界で公然と捨てた。
選んだのは、華やかで高慢な伯爵令嬢。
涙に暮れるわたしを慰めてくれたのは、王国最強の騎士団副団長だった。
彼に守られ、真実の愛を知ったとき、地味で陰気だったわたしは、もういなかった。
やがて、彼は新妻の悪行によって失脚。復縁を求めて縋りつく元婚約者に、わたしは冷たく告げる。
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
【完結】お父様の再婚相手は美人様
すみ 小桜(sumitan)
恋愛
シャルルの父親が子連れと再婚した!
二人は美人親子で、当主であるシャルルをあざ笑う。
でもこの国では、美人だけではどうにもなりませんよ。
各務課長が「君の時間を十分ください」と言った結果
汐埼ゆたか
恋愛
実花子はカフェで恋人と待ち合わせしているが、彼はなかなか来ない。
あと十分でカフェを出ようとしたところで偶然上司の各務と会う。
各務から出し抜けに「君の時間を十分ください」と言われ、反射的に「はい」と返事をしたら、なぜか恋人役をすることになり――。
*☼*――――――――――*☼*
佐伯 実花子(さえき みかこ) 27歳
文具メーカー『株式会社MAO』企画部勤務
仕事人間で料理は苦手
×
各務 尊(かがみ たける) 30歳
実花子の上司で新人研修時代の指導担当
海外勤務から本社の最年少課長になったエリート
*☼*――――――――――*☼*
『十分』が実花子の運命を思わぬ方向へ変えていく。
――――――――――
※他サイトからの転載
※※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
※無断転載禁止。
辺境伯夫人は領地を紡ぐ
やまだごんた
恋愛
王命によりヴァルデン辺境伯に嫁ぐことになった、前ベルンシュタイン公爵令嬢のマルグリット。
しかし、彼女を待っていたのは60年にも及ぶ戦争で荒廃し、冬を越す薪すら足りない現実だった。
物資も人手も足りない中、マルグリットは領地の立て直しに乗り出す。
戦しか知らなかったと自省する夫と向き合いながら、少しずつ築かれていく夫婦の距離。
これは、1人の女性が領地を紡ぎ、夫と共に未来を作る「内政×溺愛」の物語です。
全50話の予定です
※表紙はイメージです
※アルファポリス先行公開(なろうにも転載予定です)
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる