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第一百五十三話 眠らぬ街の捕鼠籠
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東京・新宿・歌舞伎町。
真夜中の豪雨は、この街の欲望を消し去るどころか、むしろ焚きつけていた。濡れそぼったアスファルトの上でネオンは滲み、脂粉とアルコールを溶かした彩色の河のように流れていく。空気には、高級な香水と腐敗したゴミが混ざり合った甘い生臭さが漂っていた。これは、この国が抱える最も堕落したフェロモンだ。
黒いマイバッハが水溜まりを音もなく滑り、通りで最も煌びやかな建物――「Club VENUS」の前で止まった。ドアが開き、手工仕立ての黒いオックスフォードシューズが水へ踏み込む。跳ね上がった水滴は、ズボンの裾に一片たりとも触れない。澄原龍立が降り立った。鋭く切り込んだ純黒のカシミヤコートをまとい、襟を立て、表情は氷のように冷ややかだ。その深い眼差しに晒された途端、周囲の客引きの喧噪でさえ凍りついたかのように鈍った。
彼の隣に立つのは劉立。濃いグレーのスーツ、ネクタイは締めず、襟元を少し開けている。彼は艶やかなネオンを見もしない。鼻梁の眼鏡を押し上げると、群衆の向こうへ視線を通し、巨大な牢獄の中にいる獣たちを一匹ずつ点検するかのように見据えた。
「龍立、匂うか?」
劉立の声は低く、心理学者らしい検分が混じる。
「これはホルモンの匂いじゃない。不安と自己破壊の気配だ」
二人は重い金色の扉を押し開けた。
耳を裂く電子音のダンスミュージックが一気に襲いかかる。巨大なシャンデリアの下では、シャンパンタワーがいくつも積み上げられていた。ここは欲望の神殿であり、同時に「愛」という名を付けた屠殺場でもある。
見知らぬ男が二人入ったところで、店内の狂騒は止まらない。だが二人が、中心のVIP席へ真っ直ぐ向かい、止めようとするスタッフをすべて無視して歩いた瞬間、空気だけが微かに変わった。
「ローランドを出せ」
龍立は腰を下ろし、大理石の卓を指先で軽く叩く。声は大きくない。それでも、疑いようのない圧がある。
「今夜の時間を買い切る。そう伝えろ」
五分後、音楽が唐突に止んだ。
一筋のスポットライトが、二階の回転階段を照らす。
ローランド(Roland)がゆっくり降りてきた。白の燕尾服、金髪が光を弾き、顔立ちはショーウィンドウの蝋人形のように精巧だ。その背後には十数人のトップホストが従い、まるで星々が彼を中心に回るようだった。
「金には困っていませんが、センスのあるお客様は好きです」
ローランドは龍立の前まで来ると、優雅に一礼した。だがその眼には、長く他人を操ってきた者に特有の傲慢が潜む。
「今夜、私はあなたのものです」
龍立は彼を見なかった。視線を投げたのは、ローランドの背後、隅の暗がりで酒瓶を整理している少女。
露出の多い赤いドレス。虚ろな眼。手首には分厚い包帯が巻かれている。
葛城 優(ユナ)。
前の巻で、孤児院の名簿から「卒業」した少女。葛城老人が命を懸けて守ろうとした孫娘。
「酒を飲みに来たんじゃない」
龍立は彼女を指した。声はシベリアの寒風のように冷たい。
「連れて帰る。いくらだ。値を付けろ」
ローランドの笑みが一瞬だけ固まる。だがすぐ、さらに眩しく、さらに冷たくなった。
彼は指を鳴らした。
優は従順な飼い犬のように這ってきて、ローランドの脚にしがみつく。頬を高価なズボンへ押し付け、そこだけがこの世の唯一の拠り所であるかのように。
「お客様、誤解されているようですね」
ローランドは懐から、きちんと折り畳まれた「恋愛契約書」を取り出し、龍立の前でひらつかせた。
「この“姫”は私の誕生日を祝うため、昨夜『ルイ十三タワー』の注文を入れたばかりです。今、店には三千万円の“ツケ”がある」
「これは合法の債務です。しかも……」
ローランドは優の髪を慈しむように撫でた。まるで精巧な陶器を扱う手つきで。
「優ちゃん、このおじさんに言って。帰りたいの?」
優が勢いよく顔を上げた。かつて澄んでいた瞳は、いま狂熱と恐怖で濁っている。中毒者の眼だ。
「帰らない! 帰らない!!」
叫びながら、爪をローランドのズボンへ深く食い込ませる。
「ローランド様は私を愛してる! 私は彼の“皇牌”! 稼いで養うの! 彼は私の神! お前ら凡人は消えろ! 稼ぐのの邪魔をするな! おじいちゃんはもう私を要らない、でもローランド様だけは私を要るの!」
龍立は、完全に憑かれたような少女を見つめ、胸の奥が沈んだ。
これはただの借金ではない。
傍らの劉立がため息をつく。眼には憐れみと、刃のような鋭さが同時に宿っていた。
「これが“人格の再構築”だ。彼女は愛と搾取の区別がつかない。自我は破壊され、ローランドが生きる意味の唯一になった」
「龍立、たとえ金を肩代わりしても、彼女はまた火坑へ飛び戻る。なぜなら“心”が、もう死体だからだ」
ローランドは得意げに二人を見た。挑発に満ちじた眼。
「見えましたか? これが愛の力です。金臭い資本家のあなた方には、一生わからない」
真夜中の豪雨は、この街の欲望を消し去るどころか、むしろ焚きつけていた。濡れそぼったアスファルトの上でネオンは滲み、脂粉とアルコールを溶かした彩色の河のように流れていく。空気には、高級な香水と腐敗したゴミが混ざり合った甘い生臭さが漂っていた。これは、この国が抱える最も堕落したフェロモンだ。
黒いマイバッハが水溜まりを音もなく滑り、通りで最も煌びやかな建物――「Club VENUS」の前で止まった。ドアが開き、手工仕立ての黒いオックスフォードシューズが水へ踏み込む。跳ね上がった水滴は、ズボンの裾に一片たりとも触れない。澄原龍立が降り立った。鋭く切り込んだ純黒のカシミヤコートをまとい、襟を立て、表情は氷のように冷ややかだ。その深い眼差しに晒された途端、周囲の客引きの喧噪でさえ凍りついたかのように鈍った。
彼の隣に立つのは劉立。濃いグレーのスーツ、ネクタイは締めず、襟元を少し開けている。彼は艶やかなネオンを見もしない。鼻梁の眼鏡を押し上げると、群衆の向こうへ視線を通し、巨大な牢獄の中にいる獣たちを一匹ずつ点検するかのように見据えた。
「龍立、匂うか?」
劉立の声は低く、心理学者らしい検分が混じる。
「これはホルモンの匂いじゃない。不安と自己破壊の気配だ」
二人は重い金色の扉を押し開けた。
耳を裂く電子音のダンスミュージックが一気に襲いかかる。巨大なシャンデリアの下では、シャンパンタワーがいくつも積み上げられていた。ここは欲望の神殿であり、同時に「愛」という名を付けた屠殺場でもある。
見知らぬ男が二人入ったところで、店内の狂騒は止まらない。だが二人が、中心のVIP席へ真っ直ぐ向かい、止めようとするスタッフをすべて無視して歩いた瞬間、空気だけが微かに変わった。
「ローランドを出せ」
龍立は腰を下ろし、大理石の卓を指先で軽く叩く。声は大きくない。それでも、疑いようのない圧がある。
「今夜の時間を買い切る。そう伝えろ」
五分後、音楽が唐突に止んだ。
一筋のスポットライトが、二階の回転階段を照らす。
ローランド(Roland)がゆっくり降りてきた。白の燕尾服、金髪が光を弾き、顔立ちはショーウィンドウの蝋人形のように精巧だ。その背後には十数人のトップホストが従い、まるで星々が彼を中心に回るようだった。
「金には困っていませんが、センスのあるお客様は好きです」
ローランドは龍立の前まで来ると、優雅に一礼した。だがその眼には、長く他人を操ってきた者に特有の傲慢が潜む。
「今夜、私はあなたのものです」
龍立は彼を見なかった。視線を投げたのは、ローランドの背後、隅の暗がりで酒瓶を整理している少女。
露出の多い赤いドレス。虚ろな眼。手首には分厚い包帯が巻かれている。
葛城 優(ユナ)。
前の巻で、孤児院の名簿から「卒業」した少女。葛城老人が命を懸けて守ろうとした孫娘。
「酒を飲みに来たんじゃない」
龍立は彼女を指した。声はシベリアの寒風のように冷たい。
「連れて帰る。いくらだ。値を付けろ」
ローランドの笑みが一瞬だけ固まる。だがすぐ、さらに眩しく、さらに冷たくなった。
彼は指を鳴らした。
優は従順な飼い犬のように這ってきて、ローランドの脚にしがみつく。頬を高価なズボンへ押し付け、そこだけがこの世の唯一の拠り所であるかのように。
「お客様、誤解されているようですね」
ローランドは懐から、きちんと折り畳まれた「恋愛契約書」を取り出し、龍立の前でひらつかせた。
「この“姫”は私の誕生日を祝うため、昨夜『ルイ十三タワー』の注文を入れたばかりです。今、店には三千万円の“ツケ”がある」
「これは合法の債務です。しかも……」
ローランドは優の髪を慈しむように撫でた。まるで精巧な陶器を扱う手つきで。
「優ちゃん、このおじさんに言って。帰りたいの?」
優が勢いよく顔を上げた。かつて澄んでいた瞳は、いま狂熱と恐怖で濁っている。中毒者の眼だ。
「帰らない! 帰らない!!」
叫びながら、爪をローランドのズボンへ深く食い込ませる。
「ローランド様は私を愛してる! 私は彼の“皇牌”! 稼いで養うの! 彼は私の神! お前ら凡人は消えろ! 稼ぐのの邪魔をするな! おじいちゃんはもう私を要らない、でもローランド様だけは私を要るの!」
龍立は、完全に憑かれたような少女を見つめ、胸の奥が沈んだ。
これはただの借金ではない。
傍らの劉立がため息をつく。眼には憐れみと、刃のような鋭さが同時に宿っていた。
「これが“人格の再構築”だ。彼女は愛と搾取の区別がつかない。自我は破壊され、ローランドが生きる意味の唯一になった」
「龍立、たとえ金を肩代わりしても、彼女はまた火坑へ飛び戻る。なぜなら“心”が、もう死体だからだ」
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