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風太と美晴の入れ替わり
少年と少女
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『100ノート』。
100回書き込めば、何でも願いを叶えてくれるというウワサの、素敵な魔法のノート。現在そのノートは、とある少女の手にあった。
まるでウソみたいな話。本当に効果があるのかは、誰にも分からない。しかし少女は、そんなくだらない存在にすがるほど、精神が衰弱しきっていた。
──痛い。辛い。苦しい。
瞳からは涙が溢れ、静かに頬を伝う。少女が着ている白いブラウスの胸の辺りに、涙の雫がポタポタと落ちる。
そのブラウスは、誕生日にお母さんからプレゼントしてもらったものだ。
「お母……さん……」
あと7回。そこまできて、必死に文字を書いていた右手が、止まる。
シャープペンは震える指から逃げ出し、机の上を少し転がった。
……決意が揺らぐ。
少女は手のひらで顔を覆い、雫を受けとめ、「本当にそれを願ってもいいの?」と、自問する。
しかし、身体には惨劇の痕が、今も残っている。それらは消えずに、今なお「わたし」を苦しめている。
ハッと現実を思い出すと、少女の決意はしっかりと固まり、右手はもう一度シャープペンを拾った。
「無理っ……。わたしはもう……耐えられないっ……。ごめんなさい……お母さん……」
全ての文字を、元々は白紙だったページに書き終えた。少女はため息をつき、パタンと裏表紙を閉じた。
そのノートの見た目は、まるでファンタジーな魔導書だった。赤茶色の革で立派に装帳されている、いかにも魔法の力がありそうな、『100ノート』。
少女はノートを胸に抱き、心の中で強く願った。
(わたしをやめたい。こんなどうしようもない戸木田美晴の人生を……かえてほしい)
* * *
まだ少し肌寒い風が吹く、4月の終わりごろ。
待望の昼休みを迎えた月野内小学校では、小学生たちが、各々の自由な時間を過ごしていた。活発な生徒たちはドッジボールや鬼ごっこなどの運動をして汗を流し、大人しい生徒たちは図書室で読書をしたり、校庭のすみにあるウサギ小屋で、ウサギとのふれあいを楽しんだりしている。
どちらかといえば活発な男子である風太は、同じクラスの友達がやっているドッジボールに参加することにした。
「健也、おれも入れてくれ」
健也。風太のクラスのリーダー的存在であり、風太の親友だ。
爽やかな短髪に、小6とは思えないキリッとした瞳。「イケメン」というよりは「ハンサム」な顔立ち。そんなルックスに加え、バツグンの運動神経もあり、健也は男子からも女子からも人気が高かった。きっと彼の将来は、本日の日射しよりも明るい。
「風太、待ってたぞ。人数の少ない方に入ってくれ」
健也はいつものように、遅れて来た親友を、チームの戦力が偏らないように割り振った。風太もそれに快く従い、健也とは別のチームに参加した。
「よし。おれは雪乃と同じチームだな」
雪乃。ミディアムショートの髪をヘアピンで留めた、活発なタイプの女子だ。クラスの女子のなかでも体は小さい方だが、いつも元気いっぱいで性格も明るい。
住んでいる家が近所にあり、年齢も同じなので、風太と雪乃は昔からよく遊んでいる。
「あれ? 風太くんも、わたしとおんなじチーム?」
「おう。今入ったんだ」
「やったぁ! こっちチーム、さいきょーだよっ! 純くんに、翔大くんもいるしっ」
「でも、相手チームには健也がいるぜ。あいつの投げる球は速いから、顔に当たらないように気を付けろよ」
「大丈夫だよ。風太くんが守ってくれるもんっ!」
「えっ!?」
「ボールから、わたしを守ってくれるんでしょ?」
「あ、ああ! うん……」
風太は一瞬動揺し、少し固まってしまった。
雪乃の言葉は、いつも直球だ。健也が投げる球以上に速い直球の言葉を、風太は捕り損ねてしまった。ドッジボールのルールでいうと、完全にアウト。
(いやいや、「守る」って特別な意味じゃないだろ! 何を意識してるんだよ、おれは……!)
風太は何故かドキドキしてしまい、それ以上の返事をしなかった。小さな雪乃は、照れくさそうに顔を背ける風太を見て、ニコニコと笑っていた。
* *
キンコーン。
昼休み終了のチャイムが鳴り響くと、全校生徒は急いで教室へと戻っていく。これの次に鳴るチャイムが5時間目開始の合図で、それまでに席に着いていないと、先生に怒られてしまうからだ。
「間に合うかな……?」
ドッジボールが終わった後。6年1組の教室から離れた場所にある男子トイレで、風太は少し焦っていた。
小学生というのは、男子トイレで大便をする人の名誉を棄損する性質があるので、個室での排泄はなかなかスリリングな行為となっている。それゆえ風太は、教室から離れた場所のトイレをわざわざ選び、排泄をした結果、こうして焦るハメになってしまったのだ。
トイレから出た風太は、自分のクラスを目指して走り出した。図書室の前の廊下を通って、渡り廊下を渡り、5年生の教室の横を抜ければ、風太のクラスである6年1組へと帰ることができる。
まだ間に合う。教室までのルートと、所要時間を考えながら、風太は図書室の前を急いで通りすぎようとした。
しかし、その時。
「うおっ、何だっ!?」
突然、図書室の扉がガラガラと開き、中から人が出てきた。
(マズいっ! ぶつかるっ!!)
風太の体は完全に勢いに乗っているため、急なブレーキをかけることができない。風太は、相手がこちらに気付いて止まってくれることを願った。
「「あっ!?」」
がつん!
願いは届かず、風太は図書室から出て来た人物と、全力で、思い切り、ぶつかってしまった。
「うっ……!」
目の前の景色は乱れ、全力疾走が止まった。
ぶつかった衝撃で後ろに押し返されるも、打ち所が良かったのか、風太側にダメージはほとんどなかった。ただ問題なのは、風太がフルパワーでタックルをぶちかましてしまった、相手の方。
(うわっ! 女子だ……!)
長い黒髪。その女子の見た目の第一印象は、「学校の怪談」。女子トイレの三番目の個室だかにいそうな、トイレのおばけ。服装も、白いブラウスに紺色の吊りスカートと、いかにもな感じ。しかし、霊体だから透けてぶつからない、なんてことはなかったので、残念ながらおばけではない。
その女子は、「きゃっ」と小さな悲鳴をあげ、床にべたんと倒れ込んだ。そして、その子が図書室で借りたのであろう分厚い本が、宙を舞った後、バサッと地に落ちた。
「あっ、ヤバい……! ご、ごめんっ!」
第一声は、風太の「ごめん」。今の事故は明らかに、安全確認を怠った風太に非がある。
心の底からの「ごめん」を、その子に渡した。本当は「大丈夫かい? ケガはない?」ぐらい言えたら、気遣いもできてカッコいいのだろうが、風太はそれを口に出すのをためらってしまった。
(初めて見る顔だ……)
しゃべったことが一度もない女子だ。
その女子について、風太が確実に分かることは、同じクラスの生徒ではないということ。5年生か、それとも6年2組か3組の生徒だろうか。
倒れた女子は、うつむいたまま長い前髪で両目を隠し、左手で自分の右肩を押さえていた。そこはまさしく、風太が激突してしまった箇所だ。
「だっ、大丈夫か?」
「……」
風太は、とにかくその子に何か話してほしかった。無言の緊張感は、わめき散らされるよりも辛い。
「もしかして泣いちゃうんじゃないか?」「大ケガをさせてしまったのかも……」と、そんな不安が風太の頭をよぎった時、謎の女子はゆっくりと口を開いた。
「は……ぃ……」
すごく小さい声。意識を集中していないと聞き逃してしまいそうになる、小さく高い声。今にも消えそうなロウソクみたいに、少し震えた不安定な声。
しかし今、その声で確実に「はい」と、この女子は言った。風太としては、とりあえず一安心だ。
(ああ、よかった……)
倒れているその子に、手を差し伸べる……なんて、カッコよすぎることが風太にできるわけないので、自力で立ち上がってもらう。その間に、風太はその女子が落とした本を拾い、そっと手渡した。
なかなか立派な、分厚い本だ。表紙に書かれているタイトルは、『おね・はんどれど・のて』。……なんとなく、その文字がローマ字ではなく英語だということは風太にも分かったが、解読には至らなかった。
「じゃ、じゃあ……!」
「……ぁ」
「おれ、行くからっ……! ぶつかってしまって、本当にごめんっ!!」
少女の無事が確認できて良かったものの、もう時間がない。風太は念のためもう一度頭を下げてから、また教室へと向かって全力で駆け出した。
* *
キンコーン。
なんとか開始に間に合った5時間目の授業が、今終了した。これより5分間の休憩時間となり、その間に生徒達は、次の体育の授業の準備をする。本日は、6年生3クラス合同の、体力測定の日だ。
「ねぇ、風太くん。グラウンドに行く時って、図書室の前の廊下を通るよねっ?」
水色の体操服袋を持った雪乃が、着替えの準備をしている風太に、質問をした。
「通る……かな?」
「じゃあさっ、ついでにこの本、返してきてくれない?」
どっさり。
雪乃の机の上には、5冊の児童書が積まれていた。雪乃は見かけによらず読書家なのか、もしくは、ただ返すのを忘れて溜め込んだだけか。
「やだよ。それは自分で返しに行けよ」
「ええー!? わたし、女子だよ!?」
「知ってるよ」
「かよわいから、重くて持てないの。それに、女子は男子と違って、体育の着替えにも時間かかるのっ!」
「なんだよそれ……」
風太としては、雪乃なんかに遣いパシりにされるのは、なんとなく嫌だった。
それに雪乃は、重い物が持てないタイプの女子ではない。「かよわい女子」というのは、さっき風太がぶつかったやつのことを言うのだ。そんなやつですら、分厚い本を一人で運んでいたのに。
風太は遠い目をしながら、さっきの女子のことを思い出していた。
「ねぇ、風太くん聞いてるのっ!?」
聞いてない。
「だから、この通りっ! おーねーがーいー!」
雪乃はぎゅっと目をつぶって、両手のひらを合わせ、風太に懇願した。風太は肩をすくめ、少し考えたあと、そんな雪乃に一つ提案をした。
「よし、じゃあこうしよう。おれにじゃんけんで勝ったら、行ってきてやる」
*
「雪乃って、絶対最初はパー出すよな。自覚はないみたいだけどさ」
体操服に着替え終わった健也が、風太にそう言った。一緒にグラウンドに行こうと、風太の着替え終わりを待っているらしい。
「そうかもな」
今、6年1組の教室には、風太と健也の二人しかいない。他の男子はもうみんなグラウンドに向かっていて、女子は更衣室で着替えをしている。
カーテンが閉まり電気が消えた少し暗い教室で、風太と健也は、雪乃の机の上を見ていた。
「で、カッコいい風太くんは、どうするつもりなんだ? これを」
「図書室まで運ぶしかないだろ。お前も手伝ってくれよ」
「それは断る」
「なんで断るんだ」
「お前が雪乃の前でカッコつけたんだから、本を運ぶのはお前の責任。男としてカッコつけたなら、最後までしっかりカッコつけろよ」
「……」
断られてしまった。しかし、断った健也に対して、風太は全く怒っていなかった。確かに健也の言うことは正しいと、納得したからだ。
「ほら、雪乃は『風太くん』を頼ってるんだろ? 雪乃のことが好きなら、お前が頑張れよ」
「ああ。おれが頑張らないと……って、はあぁ!?」
「おい、大声出すなよ。誰かに聞かれるぞ。お前が雪乃のこと好きだって」
「お、おれは別にっ、雪乃のことはなんとも思ってないっ!!」
「そうか? でも雪乃は、風太のこと好きだぞ。絶対」
「ばっ、バカなこと言うなっ!! おれと雪乃は、ただ近所に住んでるだけでっ! だから……あ、あいつは、そういうのじゃないんだよっ!」
「まあ、いいけどさ。でも、この先もずっと、このままでいられるとは限らないからな。そろそろハッキリした方がいいぞ。風太」
「は、はぁ??」
健也は変なことを言った。
そして、変なことを言われたせいで、風太の頭の中は、雪乃のことでいっぱいになった。馬鹿みたいに呆けた寝顔、頬を膨らませて怒った顔、太陽のように明るい笑顔……。
(違う違うっ!! 雪乃は、そういうのとは違うっ!!)
あわてて、首を横に振る。
健也ごときに弄られるのは、なんだか悔しいので、風太は反撃をしてみることにした。
「そ、そういう健也はどうなんだよ。す、好きな女子、とか……!」
「んー? おれは、お前やクラスのみんなと、サッカーとか野球してる方が楽しいから、そういう恋愛的なものは、まだよく分からないなぁ」
「なっ!? ず、ずるいぞっ!」
飄々とした態度で、健也にはひらりとかわされてしまった。
仕方がないので、健也に反撃することは諦め、風太は自分が「硬派な男子」であると思い込む方へと、頭を切り換えた。
(おれだって、恋愛なんかよりも、サッカーや野球の方が楽しいと思ってるさ)
さらに硬派に。もっと硬派な思考に。
(恋愛なんて、女子が好きなものだし、ダサいだけだろ。サッカーでシュートを決めた時の喜びを、野球でホームランをかっ飛ばした時の気持ちよさを、恋愛なんかが超えられるわけないんだ)
そして、自分に言い聞かせる。
(雪乃とは幼なじみで、友達だ。それ以上でも以下でもないっ!)
むっとしている風太の顔を見て、健也はへらへらと笑った。
「じゃあ、その本持って、そろそろ行こうぜ。雪乃の幼なじみくん」
「うるさいなっ!」
風太は体操服に着替え終わり、雪乃の机の上にあった本を、しっかりと抱え込んだ。
教室の外では、健也が待ってくれている。あまり待たせるわけにはいかない。
(よし、準備はできた。待っててくれよ。今から歩いて、そっちへ……)
なんだか脚がふらつく。
(あれ? 急に……眠たくなって……きた……。頭がぼーっとして……意識が……)
視界が、どんどん暗くなっていく。
(あっ……)
ドサッ。
「風太? おい、風太!! 大丈夫かっ!?」
目の前の光景に、健也は動揺した。
風太は教室の床に倒れ、完全に意識を失っていた。
100回書き込めば、何でも願いを叶えてくれるというウワサの、素敵な魔法のノート。現在そのノートは、とある少女の手にあった。
まるでウソみたいな話。本当に効果があるのかは、誰にも分からない。しかし少女は、そんなくだらない存在にすがるほど、精神が衰弱しきっていた。
──痛い。辛い。苦しい。
瞳からは涙が溢れ、静かに頬を伝う。少女が着ている白いブラウスの胸の辺りに、涙の雫がポタポタと落ちる。
そのブラウスは、誕生日にお母さんからプレゼントしてもらったものだ。
「お母……さん……」
あと7回。そこまできて、必死に文字を書いていた右手が、止まる。
シャープペンは震える指から逃げ出し、机の上を少し転がった。
……決意が揺らぐ。
少女は手のひらで顔を覆い、雫を受けとめ、「本当にそれを願ってもいいの?」と、自問する。
しかし、身体には惨劇の痕が、今も残っている。それらは消えずに、今なお「わたし」を苦しめている。
ハッと現実を思い出すと、少女の決意はしっかりと固まり、右手はもう一度シャープペンを拾った。
「無理っ……。わたしはもう……耐えられないっ……。ごめんなさい……お母さん……」
全ての文字を、元々は白紙だったページに書き終えた。少女はため息をつき、パタンと裏表紙を閉じた。
そのノートの見た目は、まるでファンタジーな魔導書だった。赤茶色の革で立派に装帳されている、いかにも魔法の力がありそうな、『100ノート』。
少女はノートを胸に抱き、心の中で強く願った。
(わたしをやめたい。こんなどうしようもない戸木田美晴の人生を……かえてほしい)
* * *
まだ少し肌寒い風が吹く、4月の終わりごろ。
待望の昼休みを迎えた月野内小学校では、小学生たちが、各々の自由な時間を過ごしていた。活発な生徒たちはドッジボールや鬼ごっこなどの運動をして汗を流し、大人しい生徒たちは図書室で読書をしたり、校庭のすみにあるウサギ小屋で、ウサギとのふれあいを楽しんだりしている。
どちらかといえば活発な男子である風太は、同じクラスの友達がやっているドッジボールに参加することにした。
「健也、おれも入れてくれ」
健也。風太のクラスのリーダー的存在であり、風太の親友だ。
爽やかな短髪に、小6とは思えないキリッとした瞳。「イケメン」というよりは「ハンサム」な顔立ち。そんなルックスに加え、バツグンの運動神経もあり、健也は男子からも女子からも人気が高かった。きっと彼の将来は、本日の日射しよりも明るい。
「風太、待ってたぞ。人数の少ない方に入ってくれ」
健也はいつものように、遅れて来た親友を、チームの戦力が偏らないように割り振った。風太もそれに快く従い、健也とは別のチームに参加した。
「よし。おれは雪乃と同じチームだな」
雪乃。ミディアムショートの髪をヘアピンで留めた、活発なタイプの女子だ。クラスの女子のなかでも体は小さい方だが、いつも元気いっぱいで性格も明るい。
住んでいる家が近所にあり、年齢も同じなので、風太と雪乃は昔からよく遊んでいる。
「あれ? 風太くんも、わたしとおんなじチーム?」
「おう。今入ったんだ」
「やったぁ! こっちチーム、さいきょーだよっ! 純くんに、翔大くんもいるしっ」
「でも、相手チームには健也がいるぜ。あいつの投げる球は速いから、顔に当たらないように気を付けろよ」
「大丈夫だよ。風太くんが守ってくれるもんっ!」
「えっ!?」
「ボールから、わたしを守ってくれるんでしょ?」
「あ、ああ! うん……」
風太は一瞬動揺し、少し固まってしまった。
雪乃の言葉は、いつも直球だ。健也が投げる球以上に速い直球の言葉を、風太は捕り損ねてしまった。ドッジボールのルールでいうと、完全にアウト。
(いやいや、「守る」って特別な意味じゃないだろ! 何を意識してるんだよ、おれは……!)
風太は何故かドキドキしてしまい、それ以上の返事をしなかった。小さな雪乃は、照れくさそうに顔を背ける風太を見て、ニコニコと笑っていた。
* *
キンコーン。
昼休み終了のチャイムが鳴り響くと、全校生徒は急いで教室へと戻っていく。これの次に鳴るチャイムが5時間目開始の合図で、それまでに席に着いていないと、先生に怒られてしまうからだ。
「間に合うかな……?」
ドッジボールが終わった後。6年1組の教室から離れた場所にある男子トイレで、風太は少し焦っていた。
小学生というのは、男子トイレで大便をする人の名誉を棄損する性質があるので、個室での排泄はなかなかスリリングな行為となっている。それゆえ風太は、教室から離れた場所のトイレをわざわざ選び、排泄をした結果、こうして焦るハメになってしまったのだ。
トイレから出た風太は、自分のクラスを目指して走り出した。図書室の前の廊下を通って、渡り廊下を渡り、5年生の教室の横を抜ければ、風太のクラスである6年1組へと帰ることができる。
まだ間に合う。教室までのルートと、所要時間を考えながら、風太は図書室の前を急いで通りすぎようとした。
しかし、その時。
「うおっ、何だっ!?」
突然、図書室の扉がガラガラと開き、中から人が出てきた。
(マズいっ! ぶつかるっ!!)
風太の体は完全に勢いに乗っているため、急なブレーキをかけることができない。風太は、相手がこちらに気付いて止まってくれることを願った。
「「あっ!?」」
がつん!
願いは届かず、風太は図書室から出て来た人物と、全力で、思い切り、ぶつかってしまった。
「うっ……!」
目の前の景色は乱れ、全力疾走が止まった。
ぶつかった衝撃で後ろに押し返されるも、打ち所が良かったのか、風太側にダメージはほとんどなかった。ただ問題なのは、風太がフルパワーでタックルをぶちかましてしまった、相手の方。
(うわっ! 女子だ……!)
長い黒髪。その女子の見た目の第一印象は、「学校の怪談」。女子トイレの三番目の個室だかにいそうな、トイレのおばけ。服装も、白いブラウスに紺色の吊りスカートと、いかにもな感じ。しかし、霊体だから透けてぶつからない、なんてことはなかったので、残念ながらおばけではない。
その女子は、「きゃっ」と小さな悲鳴をあげ、床にべたんと倒れ込んだ。そして、その子が図書室で借りたのであろう分厚い本が、宙を舞った後、バサッと地に落ちた。
「あっ、ヤバい……! ご、ごめんっ!」
第一声は、風太の「ごめん」。今の事故は明らかに、安全確認を怠った風太に非がある。
心の底からの「ごめん」を、その子に渡した。本当は「大丈夫かい? ケガはない?」ぐらい言えたら、気遣いもできてカッコいいのだろうが、風太はそれを口に出すのをためらってしまった。
(初めて見る顔だ……)
しゃべったことが一度もない女子だ。
その女子について、風太が確実に分かることは、同じクラスの生徒ではないということ。5年生か、それとも6年2組か3組の生徒だろうか。
倒れた女子は、うつむいたまま長い前髪で両目を隠し、左手で自分の右肩を押さえていた。そこはまさしく、風太が激突してしまった箇所だ。
「だっ、大丈夫か?」
「……」
風太は、とにかくその子に何か話してほしかった。無言の緊張感は、わめき散らされるよりも辛い。
「もしかして泣いちゃうんじゃないか?」「大ケガをさせてしまったのかも……」と、そんな不安が風太の頭をよぎった時、謎の女子はゆっくりと口を開いた。
「は……ぃ……」
すごく小さい声。意識を集中していないと聞き逃してしまいそうになる、小さく高い声。今にも消えそうなロウソクみたいに、少し震えた不安定な声。
しかし今、その声で確実に「はい」と、この女子は言った。風太としては、とりあえず一安心だ。
(ああ、よかった……)
倒れているその子に、手を差し伸べる……なんて、カッコよすぎることが風太にできるわけないので、自力で立ち上がってもらう。その間に、風太はその女子が落とした本を拾い、そっと手渡した。
なかなか立派な、分厚い本だ。表紙に書かれているタイトルは、『おね・はんどれど・のて』。……なんとなく、その文字がローマ字ではなく英語だということは風太にも分かったが、解読には至らなかった。
「じゃ、じゃあ……!」
「……ぁ」
「おれ、行くからっ……! ぶつかってしまって、本当にごめんっ!!」
少女の無事が確認できて良かったものの、もう時間がない。風太は念のためもう一度頭を下げてから、また教室へと向かって全力で駆け出した。
* *
キンコーン。
なんとか開始に間に合った5時間目の授業が、今終了した。これより5分間の休憩時間となり、その間に生徒達は、次の体育の授業の準備をする。本日は、6年生3クラス合同の、体力測定の日だ。
「ねぇ、風太くん。グラウンドに行く時って、図書室の前の廊下を通るよねっ?」
水色の体操服袋を持った雪乃が、着替えの準備をしている風太に、質問をした。
「通る……かな?」
「じゃあさっ、ついでにこの本、返してきてくれない?」
どっさり。
雪乃の机の上には、5冊の児童書が積まれていた。雪乃は見かけによらず読書家なのか、もしくは、ただ返すのを忘れて溜め込んだだけか。
「やだよ。それは自分で返しに行けよ」
「ええー!? わたし、女子だよ!?」
「知ってるよ」
「かよわいから、重くて持てないの。それに、女子は男子と違って、体育の着替えにも時間かかるのっ!」
「なんだよそれ……」
風太としては、雪乃なんかに遣いパシりにされるのは、なんとなく嫌だった。
それに雪乃は、重い物が持てないタイプの女子ではない。「かよわい女子」というのは、さっき風太がぶつかったやつのことを言うのだ。そんなやつですら、分厚い本を一人で運んでいたのに。
風太は遠い目をしながら、さっきの女子のことを思い出していた。
「ねぇ、風太くん聞いてるのっ!?」
聞いてない。
「だから、この通りっ! おーねーがーいー!」
雪乃はぎゅっと目をつぶって、両手のひらを合わせ、風太に懇願した。風太は肩をすくめ、少し考えたあと、そんな雪乃に一つ提案をした。
「よし、じゃあこうしよう。おれにじゃんけんで勝ったら、行ってきてやる」
*
「雪乃って、絶対最初はパー出すよな。自覚はないみたいだけどさ」
体操服に着替え終わった健也が、風太にそう言った。一緒にグラウンドに行こうと、風太の着替え終わりを待っているらしい。
「そうかもな」
今、6年1組の教室には、風太と健也の二人しかいない。他の男子はもうみんなグラウンドに向かっていて、女子は更衣室で着替えをしている。
カーテンが閉まり電気が消えた少し暗い教室で、風太と健也は、雪乃の机の上を見ていた。
「で、カッコいい風太くんは、どうするつもりなんだ? これを」
「図書室まで運ぶしかないだろ。お前も手伝ってくれよ」
「それは断る」
「なんで断るんだ」
「お前が雪乃の前でカッコつけたんだから、本を運ぶのはお前の責任。男としてカッコつけたなら、最後までしっかりカッコつけろよ」
「……」
断られてしまった。しかし、断った健也に対して、風太は全く怒っていなかった。確かに健也の言うことは正しいと、納得したからだ。
「ほら、雪乃は『風太くん』を頼ってるんだろ? 雪乃のことが好きなら、お前が頑張れよ」
「ああ。おれが頑張らないと……って、はあぁ!?」
「おい、大声出すなよ。誰かに聞かれるぞ。お前が雪乃のこと好きだって」
「お、おれは別にっ、雪乃のことはなんとも思ってないっ!!」
「そうか? でも雪乃は、風太のこと好きだぞ。絶対」
「ばっ、バカなこと言うなっ!! おれと雪乃は、ただ近所に住んでるだけでっ! だから……あ、あいつは、そういうのじゃないんだよっ!」
「まあ、いいけどさ。でも、この先もずっと、このままでいられるとは限らないからな。そろそろハッキリした方がいいぞ。風太」
「は、はぁ??」
健也は変なことを言った。
そして、変なことを言われたせいで、風太の頭の中は、雪乃のことでいっぱいになった。馬鹿みたいに呆けた寝顔、頬を膨らませて怒った顔、太陽のように明るい笑顔……。
(違う違うっ!! 雪乃は、そういうのとは違うっ!!)
あわてて、首を横に振る。
健也ごときに弄られるのは、なんだか悔しいので、風太は反撃をしてみることにした。
「そ、そういう健也はどうなんだよ。す、好きな女子、とか……!」
「んー? おれは、お前やクラスのみんなと、サッカーとか野球してる方が楽しいから、そういう恋愛的なものは、まだよく分からないなぁ」
「なっ!? ず、ずるいぞっ!」
飄々とした態度で、健也にはひらりとかわされてしまった。
仕方がないので、健也に反撃することは諦め、風太は自分が「硬派な男子」であると思い込む方へと、頭を切り換えた。
(おれだって、恋愛なんかよりも、サッカーや野球の方が楽しいと思ってるさ)
さらに硬派に。もっと硬派な思考に。
(恋愛なんて、女子が好きなものだし、ダサいだけだろ。サッカーでシュートを決めた時の喜びを、野球でホームランをかっ飛ばした時の気持ちよさを、恋愛なんかが超えられるわけないんだ)
そして、自分に言い聞かせる。
(雪乃とは幼なじみで、友達だ。それ以上でも以下でもないっ!)
むっとしている風太の顔を見て、健也はへらへらと笑った。
「じゃあ、その本持って、そろそろ行こうぜ。雪乃の幼なじみくん」
「うるさいなっ!」
風太は体操服に着替え終わり、雪乃の机の上にあった本を、しっかりと抱え込んだ。
教室の外では、健也が待ってくれている。あまり待たせるわけにはいかない。
(よし、準備はできた。待っててくれよ。今から歩いて、そっちへ……)
なんだか脚がふらつく。
(あれ? 急に……眠たくなって……きた……。頭がぼーっとして……意識が……)
視界が、どんどん暗くなっていく。
(あっ……)
ドサッ。
「風太? おい、風太!! 大丈夫かっ!?」
目の前の光景に、健也は動揺した。
風太は教室の床に倒れ、完全に意識を失っていた。
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