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命名
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「大旦那様、そちらのお方はどなたでしょうか?」
「うん? ああ、この方は……」
長崎出島から出発する際に、ここまで連れてきた手代の一人に疑問を投げかけられた重三郎。自分の隣にいる者は深々と白い頭巾を被り、顔には病人がするような布を充てがっていた。明らかに怪しげな格好である。
「奉行所で会った方で、長崎奉行の中川様より江戸へ同行するように仰せつかったのだ」
事実を偽らずに誤魔化した言い方をする重三郎。
しかし次の言葉は嘘だらけだった。
「この方は人に移してしまう病を持っている。だからこのような姿をしているのだ」
「はあ……夏になったら大変ですね」
今が春先で良かったと重三郎はホッと胸を撫で下ろす。これが炎天下ならばふとしたときに外してしまうかもしれなかった。身振り手振りで取らぬようにと伝えているが、言葉の通じない異国人シャーロックは分かっているのだろうか。
「肌も真っ白ですね……江戸まで大丈夫ですか?」
元々白い肌の持ち主なのだが手代には病的に見えている。これならば他の者も誤魔化せるだろうと重三郎は人知れず安心した。
シャーロックは己の境遇が分かっているのか、身体を縮こませている。背丈がかなりあるのだが――牢屋では座り込んでいたため気が付かなかった――猫背になっているためあまり大きく見えない。
「それでは参ろうか。ああ、この方の面倒はわしが見る。お前たちは気にしないでいいぞ」
商家の主が直々に面倒を見る。どれほどの方なのかと手代たちは訝しんだが、深くは詮索しなかった。少なからず好奇心はあるものの、立ち入るのも憚れる思いだった。重三郎が旅のお供に選んだのはそういう気遣いができるからでもある。
重三郎がシャーロックの袖を引っ張り歩き出す。するとおずおずしながらついて行く。まるで親子のようだなと、手代たちは口に出さずに思うだけに留めた。
「船の準備はできておるか?」
「ええ。まずは下関まで向かいます。その後は大阪と京を経由して陸路となります」
途中まで陸路ではなく海路を選んだのは関所での詮議を避けるためだった。無論、江戸の手前である箱根の関所に着けば調べを受けることになるが、その間に対策を考えられる。いかにして正体を明かさずにシャーロックを自分の屋敷に連れていくか。頭を悩ます問題だった。
異国人のシャーロックが自分の置かれた状況が分かっているのかと、重三郎は横目で見ながら考える。当人は草鞋で歩くのか慣れていないのか、しきりに足元を気にしていた。
これから長い旅になる。
それも発覚したら命を落とす危険な旅だ。
帰路の旅なのか、死出の旅なのか。判然としなかった。
◆◇◆◇
さて。何事もなく京に辿り着いた一行。廻船の中ではなるべくシャーロックと二人きりとなるようにしていたこともあり、正体が露見することはなかった。
そして今、京の宿屋で一泊していた。
それも指折りの豪華で奢侈な宿屋だった。
重三郎とシャーロックは奥の間で二人だけでいる。手代たちはいない。重三郎が皆に金をやり祇園で遊ぶように仕向けたのだ。
というわけで広い空間に二人となったが、何を話せばいいのか重三郎は分からなかった。ここ数日の旅の中で意思疎通はある程度できるようになったが、互いに言葉が通じないのでどうしようもない。
そんな状況で、部屋の襖に見事描かれた絵を見ているシャーロックに対し、重三郎はこの者は絵に興味があるのだろうかと考えた。牢屋での出来事も脳裏に浮かんだ。
「なあシャーロック。言葉が分からぬと思うが……絵が好きなのか?」
数々の絵師の面倒を見てきた重三郎はなんとなく今シャーロックが絵を描きたいと分かっていた。頭巾と布を取っているので顔が見えている。だからこそ、好奇心旺盛に絵に関心がある様子が窺えた。
「…………」
シャーロックは重三郎をじっと見つめている。何を話しているのか分からず、どう反応していいのかも不明らしい。
重三郎は手代に用意させていた墨と硯、筆と紙をシャーロックの目の前の机に置いた。
「使っていいぞ……いや伝わらぬか」
重三郎は何かを描く仕草を行なった。それで察しがついたのか、シャーロックは何度も頷いた。
重三郎は手のひらを上に向けて机の上の物を指し示した。
「おぬしの好きなように描いていいぞ」
言葉は分からぬが意味は伝わったらしい。
シャーロックは墨を手に取り、水が注がれた硯を使う。
そして筆に墨を漬け――紙に描き始めた。
「……なんと。これはまた……!」
数多くの絵師を見てきた重三郎は絵の非凡さをよく理解している。
その彼が驚くほど――シャーロックの絵はずば抜けていた。
描いていたのはまた船の絵だった。しかし今まで重三郎が見てきた絵とは違う。
まず黒の一色しかないのに、きちんと海は海、船は船と分かるよう質感を変えて描いている。波の飛沫と船体が明らかに異なっていた。
次に躍動感があった。動かないはずの船が港に向かって航海するのが見て分かる。浮世絵の技法と異なる写実的な描き方だった。
最後に言い表せないほど細部が細やかだった。筆一本でどうやっているのか、絵と絵師を見てきた重三郎にも理解できないほどの技術を持っていた。
この者はいったい何者なのだろう。
重三郎が思う中、シャーロックは水を得た魚のように生き生きと絵を描いている。
シャーロックは金髪碧眼の異国人である。鼻が天狗とまでは言わないが長く伸びていた。少し垂れ眼でおとなしそうな性格を感じさせる。そして知性を持っていると誰もが思うくらいには賢い顔つきをしていた。
そんな異国人が実に楽しそうに絵を描いている。いや見た風景を写しているというべきだろうか。それがなんだか不思議だと重三郎は思う。絵師にありがちだが絵を描いているときは作品に対して真剣に向き合っている。シャーロックも例外ではない。楽しそうだがそれだけに集中している。
絵を描いているのを見ていて、重三郎はふと気づいた。
絵に人が描かれていない。船にも港にもだ。空には鳥が数羽いるが生き物はそれだけだ。
何とも可笑しな絵である。まるで無人で動いている印象を受けた。
「おぬし、何故人を描かない?」
重三郎が問うけれども絵に夢中になっているシャーロックには届かない。
たとえ耳に入ったとしても通じないのだから仕方がないと重三郎は思った。
それから重三郎が部屋の灯りを消すまでずっと絵を描くシャーロック。
陸路の旅の間、シャーロックは宿屋で絵を描き続けた。
しかし人が描かれることはなかったのである。
◆◇◆◇
いよいよ旅の難所である相模国の箱根の関所に着いた重三郎たち。
順に詮議を受けることとなり、その番が回ってくる頃には夕方近くになっていた。
「次。蔦屋重三郎か……」
箱根の関所は上方から江戸に向かう者には検閲は無かった。
形通りの調べを受けて通れるはずで、重三郎は夜になる前に受けることができて良かったと安心した。
しかし関所の責任者である番頭、速水主水が「しばし待て」と言い、なんと詮議を受けることとなった。
「あのう……手前共は一介の商人と奉公人でございます故、禁制品の持ち込みなど……」
「それは荷を改めずとも分かる。その男……」
速水が疑っているのはシャーロックだった。
白い頭巾をずっぽりと被った背の高い怪しげな彼を調べないわけにはいかない。むしろやらねば職務怠慢になるだろう。
「この者の名はなんだ?」
「名でございますか……」
言い訳は考えていたが名のことは失念していた。二人でいたときはシャーロックと呼んでいたからだ。しかしここでその名を出すわけにはいかない。
「なんだ? 言えぬのか?」
速水の顔が徐々に険しくなっていく。
重三郎の頭が目まぐるしく回転し始める。
何でもいい、咄嗟に出さねば――
そのとき、浮かんだのは――楽しそうに絵に写すシャーロックだった。
重三郎は速水の眼を見て堂々と言った。
「この者の名は――写楽。写すことが楽しいと書いて写楽と申します――」
「うん? ああ、この方は……」
長崎出島から出発する際に、ここまで連れてきた手代の一人に疑問を投げかけられた重三郎。自分の隣にいる者は深々と白い頭巾を被り、顔には病人がするような布を充てがっていた。明らかに怪しげな格好である。
「奉行所で会った方で、長崎奉行の中川様より江戸へ同行するように仰せつかったのだ」
事実を偽らずに誤魔化した言い方をする重三郎。
しかし次の言葉は嘘だらけだった。
「この方は人に移してしまう病を持っている。だからこのような姿をしているのだ」
「はあ……夏になったら大変ですね」
今が春先で良かったと重三郎はホッと胸を撫で下ろす。これが炎天下ならばふとしたときに外してしまうかもしれなかった。身振り手振りで取らぬようにと伝えているが、言葉の通じない異国人シャーロックは分かっているのだろうか。
「肌も真っ白ですね……江戸まで大丈夫ですか?」
元々白い肌の持ち主なのだが手代には病的に見えている。これならば他の者も誤魔化せるだろうと重三郎は人知れず安心した。
シャーロックは己の境遇が分かっているのか、身体を縮こませている。背丈がかなりあるのだが――牢屋では座り込んでいたため気が付かなかった――猫背になっているためあまり大きく見えない。
「それでは参ろうか。ああ、この方の面倒はわしが見る。お前たちは気にしないでいいぞ」
商家の主が直々に面倒を見る。どれほどの方なのかと手代たちは訝しんだが、深くは詮索しなかった。少なからず好奇心はあるものの、立ち入るのも憚れる思いだった。重三郎が旅のお供に選んだのはそういう気遣いができるからでもある。
重三郎がシャーロックの袖を引っ張り歩き出す。するとおずおずしながらついて行く。まるで親子のようだなと、手代たちは口に出さずに思うだけに留めた。
「船の準備はできておるか?」
「ええ。まずは下関まで向かいます。その後は大阪と京を経由して陸路となります」
途中まで陸路ではなく海路を選んだのは関所での詮議を避けるためだった。無論、江戸の手前である箱根の関所に着けば調べを受けることになるが、その間に対策を考えられる。いかにして正体を明かさずにシャーロックを自分の屋敷に連れていくか。頭を悩ます問題だった。
異国人のシャーロックが自分の置かれた状況が分かっているのかと、重三郎は横目で見ながら考える。当人は草鞋で歩くのか慣れていないのか、しきりに足元を気にしていた。
これから長い旅になる。
それも発覚したら命を落とす危険な旅だ。
帰路の旅なのか、死出の旅なのか。判然としなかった。
◆◇◆◇
さて。何事もなく京に辿り着いた一行。廻船の中ではなるべくシャーロックと二人きりとなるようにしていたこともあり、正体が露見することはなかった。
そして今、京の宿屋で一泊していた。
それも指折りの豪華で奢侈な宿屋だった。
重三郎とシャーロックは奥の間で二人だけでいる。手代たちはいない。重三郎が皆に金をやり祇園で遊ぶように仕向けたのだ。
というわけで広い空間に二人となったが、何を話せばいいのか重三郎は分からなかった。ここ数日の旅の中で意思疎通はある程度できるようになったが、互いに言葉が通じないのでどうしようもない。
そんな状況で、部屋の襖に見事描かれた絵を見ているシャーロックに対し、重三郎はこの者は絵に興味があるのだろうかと考えた。牢屋での出来事も脳裏に浮かんだ。
「なあシャーロック。言葉が分からぬと思うが……絵が好きなのか?」
数々の絵師の面倒を見てきた重三郎はなんとなく今シャーロックが絵を描きたいと分かっていた。頭巾と布を取っているので顔が見えている。だからこそ、好奇心旺盛に絵に関心がある様子が窺えた。
「…………」
シャーロックは重三郎をじっと見つめている。何を話しているのか分からず、どう反応していいのかも不明らしい。
重三郎は手代に用意させていた墨と硯、筆と紙をシャーロックの目の前の机に置いた。
「使っていいぞ……いや伝わらぬか」
重三郎は何かを描く仕草を行なった。それで察しがついたのか、シャーロックは何度も頷いた。
重三郎は手のひらを上に向けて机の上の物を指し示した。
「おぬしの好きなように描いていいぞ」
言葉は分からぬが意味は伝わったらしい。
シャーロックは墨を手に取り、水が注がれた硯を使う。
そして筆に墨を漬け――紙に描き始めた。
「……なんと。これはまた……!」
数多くの絵師を見てきた重三郎は絵の非凡さをよく理解している。
その彼が驚くほど――シャーロックの絵はずば抜けていた。
描いていたのはまた船の絵だった。しかし今まで重三郎が見てきた絵とは違う。
まず黒の一色しかないのに、きちんと海は海、船は船と分かるよう質感を変えて描いている。波の飛沫と船体が明らかに異なっていた。
次に躍動感があった。動かないはずの船が港に向かって航海するのが見て分かる。浮世絵の技法と異なる写実的な描き方だった。
最後に言い表せないほど細部が細やかだった。筆一本でどうやっているのか、絵と絵師を見てきた重三郎にも理解できないほどの技術を持っていた。
この者はいったい何者なのだろう。
重三郎が思う中、シャーロックは水を得た魚のように生き生きと絵を描いている。
シャーロックは金髪碧眼の異国人である。鼻が天狗とまでは言わないが長く伸びていた。少し垂れ眼でおとなしそうな性格を感じさせる。そして知性を持っていると誰もが思うくらいには賢い顔つきをしていた。
そんな異国人が実に楽しそうに絵を描いている。いや見た風景を写しているというべきだろうか。それがなんだか不思議だと重三郎は思う。絵師にありがちだが絵を描いているときは作品に対して真剣に向き合っている。シャーロックも例外ではない。楽しそうだがそれだけに集中している。
絵を描いているのを見ていて、重三郎はふと気づいた。
絵に人が描かれていない。船にも港にもだ。空には鳥が数羽いるが生き物はそれだけだ。
何とも可笑しな絵である。まるで無人で動いている印象を受けた。
「おぬし、何故人を描かない?」
重三郎が問うけれども絵に夢中になっているシャーロックには届かない。
たとえ耳に入ったとしても通じないのだから仕方がないと重三郎は思った。
それから重三郎が部屋の灯りを消すまでずっと絵を描くシャーロック。
陸路の旅の間、シャーロックは宿屋で絵を描き続けた。
しかし人が描かれることはなかったのである。
◆◇◆◇
いよいよ旅の難所である相模国の箱根の関所に着いた重三郎たち。
順に詮議を受けることとなり、その番が回ってくる頃には夕方近くになっていた。
「次。蔦屋重三郎か……」
箱根の関所は上方から江戸に向かう者には検閲は無かった。
形通りの調べを受けて通れるはずで、重三郎は夜になる前に受けることができて良かったと安心した。
しかし関所の責任者である番頭、速水主水が「しばし待て」と言い、なんと詮議を受けることとなった。
「あのう……手前共は一介の商人と奉公人でございます故、禁制品の持ち込みなど……」
「それは荷を改めずとも分かる。その男……」
速水が疑っているのはシャーロックだった。
白い頭巾をずっぽりと被った背の高い怪しげな彼を調べないわけにはいかない。むしろやらねば職務怠慢になるだろう。
「この者の名はなんだ?」
「名でございますか……」
言い訳は考えていたが名のことは失念していた。二人でいたときはシャーロックと呼んでいたからだ。しかしここでその名を出すわけにはいかない。
「なんだ? 言えぬのか?」
速水の顔が徐々に険しくなっていく。
重三郎の頭が目まぐるしく回転し始める。
何でもいい、咄嗟に出さねば――
そのとき、浮かんだのは――楽しそうに絵に写すシャーロックだった。
重三郎は速水の眼を見て堂々と言った。
「この者の名は――写楽。写すことが楽しいと書いて写楽と申します――」
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