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平和状態の美しさについて
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君は「平和」という言葉を聞いて何を思い浮かべるだろう。
「平和」。
国家間の関わりなんかを話し始めると切り口上のように「平和」なんて言葉が出てきたりして、我々にとっては身近な言葉のように感じる。だが、一方で、日常の他愛のない生活の中で「平和」という言葉を自ら発し、吸収することはほとんどない。「平和」という言葉は不思議な言葉だと思う。
今日は今一度この「平和」とはなんであるか、この文章を読んで皆に考えてもらいたい。そんな動機から筆を動かしている。
さて、「平和」という言葉を耳にしたとき、多くの人のファーストインプレッションはやはり「無戦争状態」を思い浮かべる。争いのない、無闇に人間の闘争によって多くの人が死んだりしない世界。全世界どこでも、ほとんど共通意識としてこの「無戦争状態」=「平和」という思考を持っているであろう。そして、世界市民全員が、この理論が理想論に過ぎないことも暗黙の合意をしている。
この「無戦争状態の恒常化」、つまり「永遠平和」は近代ヨーロッパ哲学において重要な問題の一つであった。だが、全世界の暗黙の合意の通り、18世紀にカントが『永遠平和について』の中で永遠平和の永遠平和たる条件を確立した時点でもうこの思想は完全なる机上の空論だと言うことが、確定されてしまった。カントは「永遠平和」実現のための条件を書き出したはずなのに、あろうことか実現へ向かうどころか、かえってその不可能性を高々と証明してしまったのである。だから、今日、「無戦争状態」=「平和」理論をここで論じたところでそれは不毛な提言にすぎないということを諸君に言っておく。
では、我々の「平和」とはこれ以上存在しえないものなのか。
君たちは絶対的な観点に縛られている。
「平和」=「無戦争状態」という絶対的な条件を付与することで、君たちはその「平和」のハードルを無限に高めているのである。
そう、だから我々が目指すべきは絶対的なイコールで結ばれる条件ではなくて、大なり、小なりで表されるようないわば相対的な意味での平和というものが議論されて然るべきだと考える。
相対的な意味での平和。
イメージしてみよう。
アンパンマンを頭の中に思い描く。
アンパンマンの世界というのは市民からしてみると常に「バイキンマン」という平和を脅かす存在からの侵略に怯えなければならない。これは絶対的価値観で言えば、侵略、つまりある種の戦争状態があるのだからまったく平和とはかけ離れている。だが、市民からしてみれば、相対的には平和と言えるかもしれないのだ。なぜならば、「アンパンマン一味」という存在によって必ず懲悪されることが保証されているからである。よって、「アンパンマン一味」がいない場合を考えるとそれよりは『相対的に』「平和」な状態だといえるのである。確実な未来の平和に対する保証が彼らの「平和」をもたらすのである。
しかし、これはマクロ的な視点であってミクロ、つまり個人としてはもっと闘争がある。例えば、カバオくんが実は裏で
バイキンマンと情報の取引をしているとしよう。その取引によって彼がバイキンマンの侵略計画を網羅しているとしたら、彼(カバオくん)は常に市民でありながら、安全である。すなわち、相対的に平和なのだ。他の者に対して安全についての優位性があるという状況が個人的な「平和」を保証することもあるのである。
もう少し、イメージしやすい例をあげようか。生々しい例を君たちに示そうか。
では、あるクラスがあったとしよう。
そこにはいじめられている子がいて、いじめっ子がいて、そして傍観者がいる。
その比率は1:5:24だ。担任はいじめの現状に気づいていない。陰湿な空気がこのクラス中に広がっている。しかし、どうだろう?加害と被害の両者にはもちろん、平和と非平和の関係が成り立つ。
だが、重要なのは傍観者で、彼らは平和だろうか?絶対的な観点に立てば、このようないじめの蔓延る状況は「平和」ではない。しかし、相対的に、つまり自分が被害者になったときのことを考えると今の方が随分と「平和」ではないか?
かくして、このクラスは「平和」になる。
さて、この平和状態について、ここからが今日述べたい本旨になる。
平和状態は我々にとってどのようなものだろう?
このような問いに私はこう答えたい。
「平和状態は美しいものだ。」と。
ある意味、平和状態より芸術的なものはない。それはただ、均一性と整然が眼下で織りなされていることではない。
少し話が脱線するが、絵画や音楽を聴いて、体感した全てに美しさを感じ、感動した覚えは諸君にあるだろうか?
あるいは、高名な画家が書いたただの線にしか見えない絵画、有名な作曲家の雑音としか言えない音楽にそれが一般に芸術とされていても絶対に感動するだろうか?
そんなことはないはずだ。
芸術とは個人の価値判断によって大きくその効果が変わるのが芸術であり、そうあるべきなのだ。
それは「平和状態」についても全く同様に言えることで、個人の価値観によって大きくその在り方が変わるのが「平和」である。
だが、芸術作品が批評家や聴衆の口コミによってその評価を確定するのと同じように、社会的な一般論が最大多数の価値観によって形成され、結局のところ「平和」というエゴが掲げられてしまう。
だから、今我々が平和かどうかというのは最大多数を占める価値観が決めることであって、結局我々個人には「平和」がなんであるかを決めることはできない。
「平和状態は美しいものだが、美しくないかもしれない。」
これは先のカントの理論を前提として、平和状態を定義した言葉である。
だが、真に我々が目指すべきはそうではなくて、個人が決めることができないこの「平和」というエゴに対して、許容し、
「とてもというわけではないが、多分に美しい。」
というような妥協点を見つけることが求められるだろう。
「平和」。
国家間の関わりなんかを話し始めると切り口上のように「平和」なんて言葉が出てきたりして、我々にとっては身近な言葉のように感じる。だが、一方で、日常の他愛のない生活の中で「平和」という言葉を自ら発し、吸収することはほとんどない。「平和」という言葉は不思議な言葉だと思う。
今日は今一度この「平和」とはなんであるか、この文章を読んで皆に考えてもらいたい。そんな動機から筆を動かしている。
さて、「平和」という言葉を耳にしたとき、多くの人のファーストインプレッションはやはり「無戦争状態」を思い浮かべる。争いのない、無闇に人間の闘争によって多くの人が死んだりしない世界。全世界どこでも、ほとんど共通意識としてこの「無戦争状態」=「平和」という思考を持っているであろう。そして、世界市民全員が、この理論が理想論に過ぎないことも暗黙の合意をしている。
この「無戦争状態の恒常化」、つまり「永遠平和」は近代ヨーロッパ哲学において重要な問題の一つであった。だが、全世界の暗黙の合意の通り、18世紀にカントが『永遠平和について』の中で永遠平和の永遠平和たる条件を確立した時点でもうこの思想は完全なる机上の空論だと言うことが、確定されてしまった。カントは「永遠平和」実現のための条件を書き出したはずなのに、あろうことか実現へ向かうどころか、かえってその不可能性を高々と証明してしまったのである。だから、今日、「無戦争状態」=「平和」理論をここで論じたところでそれは不毛な提言にすぎないということを諸君に言っておく。
では、我々の「平和」とはこれ以上存在しえないものなのか。
君たちは絶対的な観点に縛られている。
「平和」=「無戦争状態」という絶対的な条件を付与することで、君たちはその「平和」のハードルを無限に高めているのである。
そう、だから我々が目指すべきは絶対的なイコールで結ばれる条件ではなくて、大なり、小なりで表されるようないわば相対的な意味での平和というものが議論されて然るべきだと考える。
相対的な意味での平和。
イメージしてみよう。
アンパンマンを頭の中に思い描く。
アンパンマンの世界というのは市民からしてみると常に「バイキンマン」という平和を脅かす存在からの侵略に怯えなければならない。これは絶対的価値観で言えば、侵略、つまりある種の戦争状態があるのだからまったく平和とはかけ離れている。だが、市民からしてみれば、相対的には平和と言えるかもしれないのだ。なぜならば、「アンパンマン一味」という存在によって必ず懲悪されることが保証されているからである。よって、「アンパンマン一味」がいない場合を考えるとそれよりは『相対的に』「平和」な状態だといえるのである。確実な未来の平和に対する保証が彼らの「平和」をもたらすのである。
しかし、これはマクロ的な視点であってミクロ、つまり個人としてはもっと闘争がある。例えば、カバオくんが実は裏で
バイキンマンと情報の取引をしているとしよう。その取引によって彼がバイキンマンの侵略計画を網羅しているとしたら、彼(カバオくん)は常に市民でありながら、安全である。すなわち、相対的に平和なのだ。他の者に対して安全についての優位性があるという状況が個人的な「平和」を保証することもあるのである。
もう少し、イメージしやすい例をあげようか。生々しい例を君たちに示そうか。
では、あるクラスがあったとしよう。
そこにはいじめられている子がいて、いじめっ子がいて、そして傍観者がいる。
その比率は1:5:24だ。担任はいじめの現状に気づいていない。陰湿な空気がこのクラス中に広がっている。しかし、どうだろう?加害と被害の両者にはもちろん、平和と非平和の関係が成り立つ。
だが、重要なのは傍観者で、彼らは平和だろうか?絶対的な観点に立てば、このようないじめの蔓延る状況は「平和」ではない。しかし、相対的に、つまり自分が被害者になったときのことを考えると今の方が随分と「平和」ではないか?
かくして、このクラスは「平和」になる。
さて、この平和状態について、ここからが今日述べたい本旨になる。
平和状態は我々にとってどのようなものだろう?
このような問いに私はこう答えたい。
「平和状態は美しいものだ。」と。
ある意味、平和状態より芸術的なものはない。それはただ、均一性と整然が眼下で織りなされていることではない。
少し話が脱線するが、絵画や音楽を聴いて、体感した全てに美しさを感じ、感動した覚えは諸君にあるだろうか?
あるいは、高名な画家が書いたただの線にしか見えない絵画、有名な作曲家の雑音としか言えない音楽にそれが一般に芸術とされていても絶対に感動するだろうか?
そんなことはないはずだ。
芸術とは個人の価値判断によって大きくその効果が変わるのが芸術であり、そうあるべきなのだ。
それは「平和状態」についても全く同様に言えることで、個人の価値観によって大きくその在り方が変わるのが「平和」である。
だが、芸術作品が批評家や聴衆の口コミによってその評価を確定するのと同じように、社会的な一般論が最大多数の価値観によって形成され、結局のところ「平和」というエゴが掲げられてしまう。
だから、今我々が平和かどうかというのは最大多数を占める価値観が決めることであって、結局我々個人には「平和」がなんであるかを決めることはできない。
「平和状態は美しいものだが、美しくないかもしれない。」
これは先のカントの理論を前提として、平和状態を定義した言葉である。
だが、真に我々が目指すべきはそうではなくて、個人が決めることができないこの「平和」というエゴに対して、許容し、
「とてもというわけではないが、多分に美しい。」
というような妥協点を見つけることが求められるだろう。
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