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第3章(後)

26.打ち明ける

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 エリオットは呆然としながら目の前の娘に視線を向ける。
 唇を噛んだ彼女は、怒りとも悲しみともつかない表情で自分を見上げていた。

 左の頬が熱い気がした。久しぶりの名で呼ばれた直後、ローゼが手を振り下ろした姿を目にしたので、これはきっと彼女が叩いたのだろう。
 話をしている時の記憶が途中から曖昧なので、彼女はそれで怒っているに違いない、とエリオットは考えた。

「少しぼんやりしていたみたいだ、ごめん」

 エリオットが謝罪の言葉を口にすると、ローゼは目を見開く。輝石のほのかな明かりの下でも、彼女の瞳が潤むのは分かった。
 揺らめく赤い色を綺麗だなと思っていると、ローゼはエリオットの胸にしがみついてくる。

「……なんでそういう顔で、今度は謝るのよぉ……」

 そういう顔、と言われても、エリオットには自分がどんな顔をしているのか分からない。
 村にいた時と同じようにしているつもりなのだが、何かが違うのだろうか。
 それでもローゼが泣きそうだということは分かったので彼女の肩に手を置く。目の前にいる娘の体温を感じながら、エリオットは暗くて小さな部屋に目をやった。

 ここは昔、エリオットの母、シーラが使っていた部屋だ。

 母と、そして妹。

 以前、城にいたころ。エリオットが役目を引き受ける代わりに助けてもらったはずのふたりに関しては、会えないどころか近況を耳にすることすらなかった。無事なのだと信じたいが、さすがに自らをあざむき続けるにも限界がある。

 10歳になって城を離れる日が近くなり、エリオットはようやく精霊たちに話を振った。精霊たちなら、本当の話を聞かせてくれるはずだった。

『大精霊に言われたの。話したら駄目って。怒られちゃうから言わない』

 精霊たちも口は重かった。しかし何度もなだめすかし、話をしてくれるようエリオットは頼みこむ。

 もともと精霊たちはとてもお喋りだ。重い口も一度開いてしまえば、水が流れるように話し続ける。そしてその時こそ「自分はふたりを守れなかった」いう事実がつきつけられた瞬間だった。

 守れたと思っていた自分があまりに滑稽こっけいで、今でもエリオットは、6歳の自分が祖父の部屋に行ったときのことを思い出すたび、何を満足しているのだ、と大声で笑いたくなる。

 いや、6歳の自分だけを笑うことはできない。この年になってすら、エリオットは祖父の思惑の内から出ることさえできないのだ。

 結局のところ自分にはなんの力も無いと思い知らされるばかり、誰を守ることもできはしない。自分の命はせいぜい祖父の名誉を守る程度が似合いだと、エリオットは何度も自嘲していた。

 しかし、とエリオットはローゼを見る。

 ――それでも、彼女だけは。

「ローゼ、来てくれて本当にありがとう。まさかまた会えるとは思っていなかったから嬉しかったよ」

 エリオットは彼女の肩に手を置いたまま、そっと囁く。

「でも明日には帰ったほうがいい。あと2、3日もすれば別の城へ行っていた祖父が戻ってくる。そうなれば警備も厳しくなるから――」
「嫌。あたしは帰らない。だってこの城に来た目的は、公爵に会うことだもの」

 強く言い切ったローゼの言葉に、エリオットは困惑する。

「祖父になんの用が?」
「本気で聞いてるの? さっきからあなたに言ってることや、あたしがここに来るまでのことも含めて、何も思い至ることはないわけ?」
「……ないわけではないよ。でも、ローゼがそこまでしてくれる理由が分からない。だから――」

「ねえ。分からないの? 本当に?」

 そう言って見上げる赤い瞳に、エリオットは鼓動が早くなるのを感じた。
 目の前の娘は7つも年下のはずなのに、探るような視線を寄越す彼女は、妙に大人びて見える。

 正直に言えば、もしかして、という思いはある。しかしそれは、未来のないエリオットが考えてはいけないことだ。だからこそ余計に、可能性には理由をつけ、すべて打ち消していた。

 何も言わないエリオットを見て、ローゼはため息をつく。

「あなたっていっつも、肝心なところには踏み込んでこないのよね。おまけに変に気を回すし、言わないと決めたら絶対だし、本当に面倒」

 エリオットは苦笑する。

「ひどいな」
「事実でしょ」

 ローゼは笑った。

「いいわ。仕方ないからあたしの方から言ってあげる」

 覚悟を決めてローゼは言い切る。

「あたし、アーヴィンが好き」

 何かを言いかける青年を視線で遮り、ローゼは続けた。

「アーヴィンのことを他の誰にも渡したくないの。もちろん、北の領民にも、マリエラにも、シャルトス家にもよ」

 ローゼの肩へ置いてある手に力が入ったように思うが、彼の視線は静かにローゼの瞳へ注がれている。

「だからここまで来たのは、あたし自身の意思。誰に命令されたわけでも、頼まれたわけでもないわ」

 そこまで言って後ろめたくなり、少し視線を外す。

「……ちょっと背中は押してもらったけどね」

 照れたように言って、ローゼは彼の瞳に視線を戻す。

「アーヴィンを手に入れるための手段は探してきたわ。だから次は公爵と交渉するの。――全部うまく行ったら、誰も犠牲になんてならなくて済む。そうしたらあたしは、最後に強敵から答えをもらうの」
「……強敵?」
「あなた自身よ。だってあたしは、エリオットにもアーヴィンを渡したくないんだもの。……だけど」

 少し悩んで、ローゼは続ける。

「あなたがアーヴィンよりエリオットを選びたいなら、あたしだって絶対アーヴィンになってとは言わない。そこは安心してね」

「……ローゼは」

 彼は左手でローゼの右頬に触れた。手があたたかい。

「私がエリオットを選ぶと言ったら、どうする?」
「今は答えない。だってあなたは自分がどうしたいのか、まだ考えられないでしょう?」

 青年は視線をさ迷わせる。ローゼはそれを肯定だととらえた。
 服の胸元を掴んでいた手で、今度は短くなった褐色の髪にそっと触れる。

「だから、全部うまくいったら、その時に改めてあなたの名前を教えて」

 最後の返答が「アーヴィン」でも「エリオット」でもローゼは構わないと思っていた。ローゼの本当の望みは彼に生きてもらうこと、ただそれに付随して、彼が傍にいてくれれば『自分が』幸せなのだということに気がついていた。

(あたしは、アーヴィンにいて欲しい。でもこの人が、エリオットがいい、その方が幸せだって言うなら、仕方ないものね)

 そこまで言って悩み、最後に付け加える。

「で、えーと……名前を教えてくれる時に、さっきあたしが言った……その、好きっていう……言葉の、返事もちょうだいね」

 もごもごと言いながら、思わず下を向く。

「……あたしが言いたいことは、それだけよ」

 勢いで言ってしまったが、我に返ってしまえば自分のしていることはとても恥ずかしくなった。

 さらに、この格好はまるで抱き着いているようだと気付いて、慌てて腕も下ろそうとしたとき、左の手首につけた銀の鎖が目に入った。

 確か腕飾りのことで彼に何か伝えなくてはいけなかった気がするが、今は恥ずかしくて頭が回らない。

 それでも何か言おうと、とにかく思いついたことを口にする。

「そっ、そうだ。あのね、儀式の前に、お祝いくれたでしょ、この腕飾り。精霊銀って言うのね。すっごく高価だって、あたし、知らなくて、北方に来て初めて知ったんだけど……」

 しろどろもどろになりながら、なんとか言いたかったことを探して言葉をつぐ。

「実は術士のお守りなんだって聞いて……そうだ、この腕飾りがあったおかげで、あたし命拾いしたの」

 ようやく、ローゼは重要なことを思い出した。

「イリオスの手前あたりで魔物と戦ってる時、うっかり聖剣を落としたら、なんと魔物に聖剣を放り投げられちゃったのよ。さっきあなたが治してくれた傷は、そのときにできたものなんだけどね」

 あのときは危なかったな、と思いながらローゼは話し続ける。

「行方が分からなくなった聖剣を探してるうち、ぬかるみにはまって、おまけに足も痛めて立てなくて……そんな時に運悪く魔物が来たから、もう駄目かなーって思ったんだけど、この腕飾りが助けてくれたの」

「腕飾りが、ローゼを、助けた?」
「そうなの!」

 信じられないと言いたげな青年の声に、弾んだ声でローゼは返す。

「あたしが立てなくって困ってたときに、こんな感じで魔物がぐわーって来てね。だけど腕飾りから不思議な音が聞こえたと思ったら、あたし今度はこういう風に、魔物の姿を後ろで見てるの。びっくりしちゃった」

 どう言ったら良いのかが分からないために、身振り手振りを交えて説明するのだが、あまり伝わった気がしない。
 仕方なくローゼはこれ以上詳しく言うのを諦め、結論だけを伝えることにした。

「つまり、あなたがあたしを守ってくれたのよ。だから改めて、ありがとう」

 そう言ってローゼはにっこりと笑った。
 ローゼの言葉を聞いた青年は呆然と呟く。

「……腕飾りが、ローゼを守った……? もしかして――――ではないけれど、私は、ローゼを、守ることができた……?」

 彼はしばらく笑顔のローゼを見ていた。
 やがて灰青の瞳に涙があふれ、そのまま頬を伝いはじめる。

 まさかそんな反応をされると思わなかったローゼは、予想外のことにおろおろした。

「え、な、なに? あたし悪いこと言った?」

 そこで彼はようやく、自分が泣いていることに気が付いたらしい。
 顔を触り、嘆息しながら、ああ、と呟くと、そのまま壁に背をあててずるずると座り込み、立てた片膝を抱え込むようにした中に頭を落とした。

 神官だった頃の彼が、泣いた人物を慰める姿は幾度も見たことがある。しかし、彼自身が泣く姿など今まで一度も目にしたことがない。
 何があったのか不安になり、ローゼは彼の横に膝をついた。

「どうしたの? どこか痛い? それとも具合悪い?」

 尋ねても、彼は静かに首を横に振り、ただ肩を震わせている。

 彼の様子を見ていたローゼは、迷った末に手を伸ばし、自分の方へと引き寄せた。さほどの抵抗もなく半身を預けてきた青年は、ローゼの左肩に顔を埋めると背に腕を回す。

 そのまま声を殺して彼は泣き続けた。
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