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第3章(後)

29.胸の内

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 ローゼが使っている部屋には家具が4つしかない。
 箪笥、寝台、小さな机と、椅子だ。

 残るのはわずかな空間だが、今はそこに3人で立っている。

 昨日フロランが来た時には5人の護衛を引き連れていた。そんな中でもフロランは勝手に椅子を出すと、空間をゆったり使って腰かけたのだ。後ろに立つ護衛たちは彼のため、できるだけ身を縮めていたようだった。

 その時のことを思い出しながら、ローゼは一応尋ねてみる。

「……椅子。座りますか」

 しかし、小さな机と対になっている椅子はやはり小さい。

 ローゼのようにただの服だったり、貴族とはいえ服の幅がさほどでもない男性ならばともかく、広がるドレスを着ている女性が座りやすいものではないような気がした。
 事実、マリエラは椅子を見ながら眉根を寄せている。

 その様子を見て取ったのだろう、彼女に従う騎士のベルネスは肩からマントを外し、ふわりと寝台にかけた。

「マリエラ様、こちらへどうぞ」

 彼が言うとマリエラは少しばかり悩んでから寝台に座った。

 勝手に寝台を使われたことに加え、そのまま座るなど冗談ではないと言わんばかりの主従の態度にむっとするが、貴族だから仕方ないかと胸の内で呟き、ローゼは机の横、マリエラの正面に立ったまま話を振った。

「……で、なんのご用ですか。というか、どうしてここが分かったんです?」
「問うのは私です」

 ローゼをにらみながら、マリエラは紅を引いた唇を開く。

「お前がここにいる理由は何? 隠さず言いなさい」
「ここにいる理由……は、ここまで来たから、ですけど」

 ローゼがいい加減な返事を投げると、マリエラは手にした扇を握りしめる。

「では、何をしに来たの」
「公爵に会いに」
「そんな物言いに私が騙されるとでも思うのですか。正直におっしゃい。お前はエリオット様に会いに来たのでしょう」

 最初からそう聞けばいいのに、と思いつつローゼは答える。

「まあ、それもあります」

 ローゼの答えを聞いたマリエラは、やはり、と小さく呟いたように見えた。

「エリオット様がようやくこの地に戻っていらしたというのに、なぜお前まで来るの。この、目障りな余所者!」

 ローゼはちいさくうなる。

「目障りな余所者、ね。……あたしが邪魔ですか?」

 意地悪い気分になったローゼが尋ねると、マリエラは目を見開く。

「当たり前でしょう! お前さえいなければ、今ごろ私はもう――」

 言いかけて、マリエラは不自然に口をつぐむ。
 横に立つベルネスが何かを言いかけ、そしてやめたように見えた。

「もう、何ですか? あたしがいなかったら何か起きるんですか?」

 問いかけてもマリエラからの答えはなく、ただ黙ってローゼをにらみつけている。
 その様子を見ながら、ローゼは小さく息を吐いた。

「あたしがいてもいなくても、あなたは婚約者に戻れませんよ」

 瞬間、マリエラの顔から血の気が引いた。
 ベルネスがローゼの方へ踏み込んで腰の剣に手をかけるが、マリエラは力なく手を上げて呟く。

「……命令を忘れたのですか、ベルネス。私はお前ひとりすら満足に動かすことができないの? ……これ以上みじめな気持ちにさせないで」

 彼女の言葉を聞いたベルネスは、はっとしたように立ち尽くす。やがて詫びの言葉と共に元の位置に戻った。

 その後もちらちらとマリエラを窺う騎士からは、不安と、心配する気持ちとが大いに見えていた。どうやら彼はフロランの護衛騎士はもちろん、リュシーの護衛騎士ほどの胆力もないらしい。

 苦笑していると、マリエラがぽつりと言った。

「その話を誰から聞いたの」
「誰からも聞いてません。ただの推測です」
「……そう。では私が失敗したのね。お前に弱みを見せてしまった」

 そもそもローゼには違和感があった。

 フロランからは「マリエラはずっとエリオットを想っていた」と聞いたことはあったが、婚約者だと言っていた覚えはない。
 リュシーに至っては、ローゼとエリオットのことに興味津々だったが、マリエラのことを一度も口に出したことがなかった。

 マリエラがエリオットの婚約者だと聞いたのは、大神殿のジェラルドから。そして次にその言葉を聞いたのは先ほど、本人の口から。ここまでの間で、たったの2回しかなかったのだ。

「……私は子どものころから、一度も婚約破棄を認めた覚えはないわ。それなのにエリオット様が城を離れられる前、父が正式な手続きを進めてしまった……」

 小さな声で話すマリエラは、今にも泣きそうに見える。

「でも、エリオット様は北へお帰りになられたのよ。公爵の位も継がれる。父も破棄したことをを詫びた上で私の意思を尊重すると言ってくれた。だから、すべて元通りにできるはずなのに、どうして婚約は戻してくださらないの? 誰か他の人のことを想っておられるせいなの? ……私はここで、ずっとお待ちしていたのに……」

 扇を両手で握りしめたマリエラは話すのを止めると、うつむいて悲しげなため息をついた。少し悩んで、ローゼは口を開く。

「えーと、さっきも言いましたけど、あなたの婚約に……その、あたしは関係ありません。あの人は、結婚するつもりがない。だから誰とも婚約しない。ただそれだけです」

「どうしてお前がそんなことを知っているの」
「別に知ってるわけじゃありません。ただあの人の性格からすれば、そう思ってるだろうなーと」

 もしも彼に近い存在……つまり妻や子がいれば、民からは同じように怒りが向けられる可能性がある。
 役目のことを考えている今の彼ならば、誰にも累が及ばないようにするため、最期まで独り身を貫くに違いない。

 ローゼには「私はね、1人でいるべきなんだよ」と言う彼の声が聞こえるような気がした。

(本当にあの人らしいわ)

 彼の心の内を慮りながら袖の上から銀の鎖に触れていると、マリエラが小さな声で問いかけてくる。

「お前は、エリオット様とどのくらい一緒にいたの」

 エリオットなんていう人のことは知らない、と思いつつローゼは答えた。

「……うちの村の神官の話をするなら、6年くらいです。でも、毎日会ってたわけじゃないですよ」
「そう。子どものころの私があの方にお会いしたのは3回よ」

 マリエラは床を見ながらぽつりと言う。

「婚約前に1回、婚約後のお礼を申し上げる時に1回、そしてクロード様の葬儀の時に1回」
「はあ」
「王都でお会いして以降は今日まで毎日よ」
「……そうですか」
「そうよ。毎日お会いできるの。……なのにエリオット様は私のことをほとんど見てくださらない」

 彼女の口調はとても寂しげだった。

「イリオスまでの道中だって、私と一緒に馬車に乗ってくださいとお願いしても、うなずいてくださったのは王宮から邸宅へ移動するときだけ。その後は女性と一緒に乗ることはできないと仰って、ずっと馬だった」

 ローゼには状況がなんとなく想像できた。

 グラス村でもアーヴィンは特別な理由がない限り、女性とふたりきりになることを避けていた。
 きっと王宮で馬車に乗ったのは、見知った人物に会えば困るからだろう。帰還中に馬だったのは、もう見られても構わないという気持ちだったからに違いない。

「城に着いてからは日に何度かお部屋へ伺っても、挨拶と、ほんの少し礼を失さない程度の会話をなさるだけ。……でも、この色のドレスを着たときだけは、いつもよりずっと多く私のことをご覧になるのよ」

 マリエラはそう言って、赤いドレスへ視線を落とす。

「着たくもない色のドレスだけど我慢して着るわ。だってご覧になってくださるから、その分お話をしていただけるもの。少しずつでもお話をして親しくなれば、きっといつか私自身を見てくださるようになるはず。そう思っていたのに……」

 ぐっと扇を握りしめ、マリエラは悔しそうに言う。

「昨日、ご挨拶にうかがったら仰るのよ。その色は止めたほうが良いのではありませんか、って。嫌だと申し上げたら、とても困った顔をなさるのよ。でも、この色でなければ、見てくださらないわ。お話もしていただけないの!」

 顔を上げ、マリエラは苛烈な瞳でローゼをにらみつけた。

「急にそんなことを仰るから変だと思ったわ。だから、ご相談申し上げたのよ。そうしたらやはりお前がいた。お前が、エリオット様に何か言ったのね!」
「……ご相談申し上げた?」

 ローゼがこの部屋にいることを知っているのは、フロランとリュシーだけだ。
 他にも彼らの護衛や侍女たちは知っているが、マリエラは「ご相談申し上げた」と言った。ならば身分が高い人物だろう。

 フロランやリュシーが口を割るとは思えない。『彼』が言うはずはない。では他に誰か、この部屋にローゼがいることを知っているのだろうか?

 嫌な汗が背筋を伝ったその時、廊下から近づいてくる靴音がした。
 音は数人、またしてもこの部屋への来客らしい。

(なによ、これは)

 マリエラににらまれながら、ローゼは扉に近寄って鍵をかける。

 しかし鍵をかけたはずの扉は、足音が止まってしばらくすると、かちり、と小さな音をたてた。ローゼは思わず体をこわばらせる。

 きしむ音をたてながら開いた扉の向こうには、数人の護衛を連れた人物がいる。
 彼女は室内を見ると、緊張などまったくない様子で小首をかしげた。

「あら?」

 ローゼの全身に悪寒が走る。

「ふたりをお茶に誘いに来たのだけれど、もしかして、まだお話は終わっていなかったのかしら?」

 そう言ってナターシャは無邪気な笑みを浮かべた。
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