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一年は普段通りパソコンへ向かい、業務を黙々とこなしていた。
しかし、いつもと何ら変わらない、不愛想で冷ややかな仮面の下では、内実複雑な感情が渦を巻き、彼を神経質にさせていたのだった。
不可解、困惑、傷つけられた誇り、怒り・・・。
そのような感情を覚える度、彼は不愉快を覚えた。
どうしてこうまでむしゃくしゃするのだろう。
心当たりはあった。恐らく、縁談を断られたからだろう。
だが、それによって不機嫌になるのはおかしいだろうと、彼はおのれを省みた。
あ、そうか。
突然一年は閃くと、頭の中で理論を展開した。
香は妻帯者と不倫しているのだろうが、にも拘わらず、真面目で好感の持てる人物だった。
しかし、彼があれだけ忠告したというのに、彼女はまだ、不毛な泥沼に浸かっていたいらしい。
よって、自分は苛立っている。
だが他方で、香が申し出を断り、不倫を続けようが続けまいが、彼にとっては一切関係のない話だというのに、これほどまで気にかかることにおいて、一年はちっとも合点がいかなかった。
そして、こうした煩悶は忘れ去るに限る、と決心すると、一年は書類を手に席から立ち上がり、上司のもとへ向かおうとした。
「海瀬さん」
直後、彼を呼び止める声が後ろから聴こえ、一年は背後を振り返った。
そこには後輩にあたる女性、渡邉水奈が立ち、彼が尻ポケットから落としたハンカチを手に持っていた。
「落としましたよ」
水奈はにこりと微笑むと、ぶっきらぼうな礼を言う先輩へハンカチを渡した。
「あー、ありがとう」
それは香に貸したハンカチと同じもので、ふとした瞬間、彼女にまつわる記憶が、再び舞い込んできた一年の神経は、イラッと逆立った。
「あの、海瀬さん。実は相談がありまして。お昼をご一緒してもいいですか?」
「いいよ」
「いらっしゃいませ~!」
自動ドアが開くと、蕎麦屋の店員が呼びかけた。案内されるまま、一年と水奈はテーブル席に腰をかけると、出されたお茶やおしぼりを手に取った。
一年は盛り蕎麦、水奈は掛け蕎麦を注文した。
それから蕎麦が出来上がる間、一年は後輩の相談事に耳を傾けた。水奈は既婚者の上司に言い寄られ、困っている現状を説明した。
「実はここ一か月ずっとなんですけど、黒木さんが『ご飯に行こう』って、しつこくって・・・」
「飯くらい一回付き合ってあげれば?」
「でも、黒木さんは結婚してるんですよ?」
「? それが?」
「変な噂が立ったらどうするんですか・・・!」
「あー・・・」
「それに、黒木さんは酒癖が悪いって、他の人から聞いたことあるし・・・」
「うん。それは合ってる」
そして話が一通り済むと、蕎麦がちょうどよく供され、一年は蕎麦をズルズルと啜った。
一年は先輩として、水奈の話へ耳を一応貸したものの、その実内心では、全くもって面倒臭いと思っていた。
こういった半ば自慢のような相談は、恋人にでも聴いてもらうような代物ではないのか?
そうか、いれば最初から相談しないわな。
にしても、黒木さんか~・・・。
元気だなー。
確か娘がいたんじゃなかったっけ?
高校生くらいの。
つーか公務員にとって、不倫スキャンダルは命取りなのに、よくやるな~・・・。
「・・・海瀬さん?」
「・・・それ、伸びるよ」
手が付けられていない掛け蕎麦を見て言うと、指で眼鏡のブリッジをくいと押し上げてから、一年は提案した。
「他の上司に言ってみたら?例えば、溝口さんとか」
しかし、訳あり顔の後輩は視線を外し、口を濁した。
「溝口さんは・・・」
「同じ女性の溝口さんなら、力になってくれるんじゃない?」
一年は尤もらしく訊き返した。
だが、水奈はそれでも、その・・・とか、でも・・・とか言って、首を縦に振らないものだから、一年はげんなりと考えた。
・・・女の確執、面倒くせー・・・!
「・・・上司の人たちには何かと相談しづらくて。先輩の方がいいかなって」
「あ、そう」
一年は味気ない返事を返したが、頭の中では、よりによってどうして自分なのだと、嘆いていた。
「すみません。迷惑ですよね」
先輩の心中を察したのか、水奈はしおらしく謝ると、伸びかけた蕎麦をゆっくりと啜った。
「いや、そんなことないけど。第一、不倫はよくないしね」
発言は口から咄嗟につき、見合いの席では是認していた意見が、突如一転したことに対して、一年はびっくりした。
「海瀬さん・・・!」
頼もしそうに、水奈の顔が明るく輝いた。
あ、まずい。
逆に、消極的な未来を直感した一年の無表情は、暗くなった。
「あの、わたし考えたんです。きっと黒木さんも、わたしの付き合ってる人が身近にいるって分かれば、諦めてくれると思うんです・・・!だから、海瀬さん・・・!わたしと付き合ってるふりをしてくれませんか・・・!?」
何!?
仏頂面を変えずに、一年は驚愕した。
動揺が箸を持つ手に現れ、掴んだ蕎麦がつゆの中へポチャンと落下した。
だが、後輩は見合いを引き合いに出すと、案をそそくさと取り下げた。
「あっ、すみません・・・。お見合いしたんでしたよね・・・」
「いや、あれは断った」
一年は見栄を張り、嘘をついた。
「そうだったんですか?それなら・・・!」
期待の眼差しを込めた水奈は、向かいの先輩を見据えた。
しまった、墓穴を掘った!
と気付くのも時すでに遅く、蕎麦を食べ終わる頃には、嫌々ながらも、一年は後輩の偽装彼氏になることを了承していたのだった。
しかし、いつもと何ら変わらない、不愛想で冷ややかな仮面の下では、内実複雑な感情が渦を巻き、彼を神経質にさせていたのだった。
不可解、困惑、傷つけられた誇り、怒り・・・。
そのような感情を覚える度、彼は不愉快を覚えた。
どうしてこうまでむしゃくしゃするのだろう。
心当たりはあった。恐らく、縁談を断られたからだろう。
だが、それによって不機嫌になるのはおかしいだろうと、彼はおのれを省みた。
あ、そうか。
突然一年は閃くと、頭の中で理論を展開した。
香は妻帯者と不倫しているのだろうが、にも拘わらず、真面目で好感の持てる人物だった。
しかし、彼があれだけ忠告したというのに、彼女はまだ、不毛な泥沼に浸かっていたいらしい。
よって、自分は苛立っている。
だが他方で、香が申し出を断り、不倫を続けようが続けまいが、彼にとっては一切関係のない話だというのに、これほどまで気にかかることにおいて、一年はちっとも合点がいかなかった。
そして、こうした煩悶は忘れ去るに限る、と決心すると、一年は書類を手に席から立ち上がり、上司のもとへ向かおうとした。
「海瀬さん」
直後、彼を呼び止める声が後ろから聴こえ、一年は背後を振り返った。
そこには後輩にあたる女性、渡邉水奈が立ち、彼が尻ポケットから落としたハンカチを手に持っていた。
「落としましたよ」
水奈はにこりと微笑むと、ぶっきらぼうな礼を言う先輩へハンカチを渡した。
「あー、ありがとう」
それは香に貸したハンカチと同じもので、ふとした瞬間、彼女にまつわる記憶が、再び舞い込んできた一年の神経は、イラッと逆立った。
「あの、海瀬さん。実は相談がありまして。お昼をご一緒してもいいですか?」
「いいよ」
「いらっしゃいませ~!」
自動ドアが開くと、蕎麦屋の店員が呼びかけた。案内されるまま、一年と水奈はテーブル席に腰をかけると、出されたお茶やおしぼりを手に取った。
一年は盛り蕎麦、水奈は掛け蕎麦を注文した。
それから蕎麦が出来上がる間、一年は後輩の相談事に耳を傾けた。水奈は既婚者の上司に言い寄られ、困っている現状を説明した。
「実はここ一か月ずっとなんですけど、黒木さんが『ご飯に行こう』って、しつこくって・・・」
「飯くらい一回付き合ってあげれば?」
「でも、黒木さんは結婚してるんですよ?」
「? それが?」
「変な噂が立ったらどうするんですか・・・!」
「あー・・・」
「それに、黒木さんは酒癖が悪いって、他の人から聞いたことあるし・・・」
「うん。それは合ってる」
そして話が一通り済むと、蕎麦がちょうどよく供され、一年は蕎麦をズルズルと啜った。
一年は先輩として、水奈の話へ耳を一応貸したものの、その実内心では、全くもって面倒臭いと思っていた。
こういった半ば自慢のような相談は、恋人にでも聴いてもらうような代物ではないのか?
そうか、いれば最初から相談しないわな。
にしても、黒木さんか~・・・。
元気だなー。
確か娘がいたんじゃなかったっけ?
高校生くらいの。
つーか公務員にとって、不倫スキャンダルは命取りなのに、よくやるな~・・・。
「・・・海瀬さん?」
「・・・それ、伸びるよ」
手が付けられていない掛け蕎麦を見て言うと、指で眼鏡のブリッジをくいと押し上げてから、一年は提案した。
「他の上司に言ってみたら?例えば、溝口さんとか」
しかし、訳あり顔の後輩は視線を外し、口を濁した。
「溝口さんは・・・」
「同じ女性の溝口さんなら、力になってくれるんじゃない?」
一年は尤もらしく訊き返した。
だが、水奈はそれでも、その・・・とか、でも・・・とか言って、首を縦に振らないものだから、一年はげんなりと考えた。
・・・女の確執、面倒くせー・・・!
「・・・上司の人たちには何かと相談しづらくて。先輩の方がいいかなって」
「あ、そう」
一年は味気ない返事を返したが、頭の中では、よりによってどうして自分なのだと、嘆いていた。
「すみません。迷惑ですよね」
先輩の心中を察したのか、水奈はしおらしく謝ると、伸びかけた蕎麦をゆっくりと啜った。
「いや、そんなことないけど。第一、不倫はよくないしね」
発言は口から咄嗟につき、見合いの席では是認していた意見が、突如一転したことに対して、一年はびっくりした。
「海瀬さん・・・!」
頼もしそうに、水奈の顔が明るく輝いた。
あ、まずい。
逆に、消極的な未来を直感した一年の無表情は、暗くなった。
「あの、わたし考えたんです。きっと黒木さんも、わたしの付き合ってる人が身近にいるって分かれば、諦めてくれると思うんです・・・!だから、海瀬さん・・・!わたしと付き合ってるふりをしてくれませんか・・・!?」
何!?
仏頂面を変えずに、一年は驚愕した。
動揺が箸を持つ手に現れ、掴んだ蕎麦がつゆの中へポチャンと落下した。
だが、後輩は見合いを引き合いに出すと、案をそそくさと取り下げた。
「あっ、すみません・・・。お見合いしたんでしたよね・・・」
「いや、あれは断った」
一年は見栄を張り、嘘をついた。
「そうだったんですか?それなら・・・!」
期待の眼差しを込めた水奈は、向かいの先輩を見据えた。
しまった、墓穴を掘った!
と気付くのも時すでに遅く、蕎麦を食べ終わる頃には、嫌々ながらも、一年は後輩の偽装彼氏になることを了承していたのだった。
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