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30 自由への憧憬
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——オーランド様の看病をお願いします——
エイブスに当然のようにニッコリと微笑んで言われて、サブリナの頬は引き攣った笑いしか浮かばなかった。
やはりオーランドは王宮と別邸を近衛騎士団の仕事で行ったり来たりした疲れが祟ったのか、咳が出始め発熱していた。
暑い時季とは言え、この地域は夜になると急激に気温が下がり、雨が降ることも多い。王都の公爵邸に戻ればよかったのに、律儀に馬を飛ばしても2時間近い距離を朝晩続ければ、体調だって崩すはずだ。
夫人に報告したところ「あらあら、風邪なんて珍しいこと。ブリーお願いね」とこれまたあっさりとお願いされてしまった。
使用人達もサブリナに全てを任すつもりは変わらず、結局、エイブスに渡された水が入った盤と熱覚ましと咳止めの薬湯を作って、オーランドの寝室に入った。
夫婦の振りをしていても、この別邸でも寝室は分けている。サブリナは夫人にバレないよう、オーランドの妹ナディアが使っていた部屋で寝泊まりしていたから、オーランドの寝室に入るのは初めてだ。
広い室内は深い緑と生成りの紗幕がかかり、若い男性らしい高級感がありながらも簡素な調度品が置かれている。彼はその部屋の真ん中に置かれた大きな寝台で眠っていた。
顔を覗き込むとまだ熱が高いのだろう、顔は赤く寝息は苦しそうだ。脇机に盤や持参した諸々を置く。
盤の水に手拭いを浸して絞り、オーランドの額に乗せると、うっすらと彼が目を開けた。
「ご気分はいかがですか?」
身体を起こそうとして、ゴホッと咳が出る。立て続けに咳をしたので、サブリナは慌てて彼の背中を支えると摩ってやった。
「・・・すまない」
苦しそうな呼吸の合間にぽつりと出た掠れ声に、サブリナは黙って頭を軽く振ると、傍らのカップを手に取った。
「薬湯をお待ちしました。お飲みいただけますか」
頷きカップを手に取ったオーランドのそれに自分も支えるように手を添えながら、薬湯を口に含む彼を見つめる。
「苦い・・・」
一口含んで、普段は端正な顔を思いっきり歪めるオーランドにくすっと笑うと、サブリナは「病を治すためです。頑張ってお飲みください」と励ました。
飲み終わった後も苦い苦いと眉を顰めるオーランドを寝台に横たわらせると、サブリナは持参したもう一つの瓶を手に取った。
「よく頑張りました。今度はこちらを。お口直しです」
瓶から匙でひとすくい。それを指に付けるとオーランドの唇に塗る。
オーランドはそれを舌で舐めとった。
「甘いな・・・」
サブリナはニッコリ微笑むと、クロスグリとはちみつのシロップです、と教えた。彼が寝込んでいる間に作ったのだ。
指を手巾で拭おうとしたが、それは叶わなかった。
「ひぁっ!!」
変な声が上がってしまったのは仕方がない。オーランドがサブリナの手を取り、シロップが付いた指先を舐めたからだ。
突然の性的な触れ方にサブリナは慌てて手を引っ込めると涙目でオーランドを睨んだ。
「お戯れが過ぎます。熱が下がるまで大人しくお休みください」
「なにをいまさら・・・」
ここで散々そういう意味の触れ合いをしてきたから、オーランドの突っ込みは正しい。だからサブリナは言い返すこともできない。
いつもシロップ類は指で患者の唇に塗布していたから、まさかこんなことをされるとは思ってもみなかった。
上気した頬のまま、オーランドに上掛けをしっかり掛けると、咳き込みながらクツクツと含み笑いをするオーランドの顔を見ずに、部屋から逃げるように出て行くことしか出来なかった。
その日の夜もサブリナはオーランドの夜食と薬湯、その他諸々をワゴンに用意し、彼の寝室を訪れた。
夕方に様子を見に行った時は、薬湯の効果と疲労も相まってか、彼はこんこんと眠り続けていた。額を触るとまだ熱が高かったので、額の手巾を変えるだけにして起こさないでいたのだ。
そろそろ少しでも良いから何かを食べて薬湯を飲んで欲しい。
そっと寝室に入り、寝台に近づき様子を伺う。彼はまだ眠っていて、額の手巾がずれて落ちていた。手巾を取り、額に手を当てると少し熱が下がったような感じがする。
サブリナはホッと安堵の息を吐くと、水を変えた盤で手巾を浸して絞り、もう一度オーランドの額に乗せた。
「ん・・・」
額の冷たさにオーランドは身動ぐと、ゆっくりと目を開けた。
「・・・申し訳ございません、起こしてしまいましたね」
「・・・ぁぁ・・・サビぃ・・・ナ」
寝起きでぼんやりしたようなオーランドは子供のように見える。幼い様子にサブリナはふっと笑みを溢すと、身体を起こしかけたオーランドの身体を夫人にするのと同じように支えた。
薄い夜着越しでもはっきりとわかる彼のしなやかな筋肉の動き。オーランドは細身に見えるのに、日頃の鍛錬の成果だろう、鋼のような身体つきだ。彼の身体に夜着越しであっても触れて、思わずサブリナは顔を赤らめた。
オーランドが好んで付けている松の香りと熱でかいた汗の匂いが混じり合って、普段の彼からは想像できない男性的で官能を煽るような香りが鼻腔を擽る。
その胸に抱きしめられたい衝動に駆られて、サブリナははっと我に返った。
——やだ、私ったらなんてことを・・・。
今は看護中だというのに破廉恥な欲求を持ったことに狼狽えてしまう。内心の動揺を押し殺しながらサブリナはオーランドの背に枕を当て、ガウンを羽織らせると顔を覗き込んだ。
「オーツ麦と卵のお粥を作りました。少しでも召し上がれそうですか?」
オーランドはまだぼんやりとした顔だったが、その言葉に頷いた。
「食う・・・」
座り直したオーランドの膝上に、お粥を乗せた盆を置くと、オーランドは匙を取った。まだ湯気が出ている碗を「熱いからお気をつけて」と言って手渡すと待ちきれないように、ひとすくい口に運ぶ。
「美味い・・・!!」
オーランドは空腹を思い出したようにがっつきはじめ、あっという間に完食した。
「食欲は大丈夫ですね、良かった」
これなら明日にも快復するだろう。顔色も元に戻っている。若いし体力もあるだろうから、治るのもあっという間だとサブリナは安堵した。
「このお粥は・・・君が?」
その問いに、はいと肯定すると続けた。
「消化の良いものを召し上がった方が良いので。・・・料理人の手を煩わせるのも、と思って・・・」
最後が尻切れトンボになったのは彼女の思いが透けそうで決まりが悪くなったから。
料理人はもちろんオーランド坊っちゃまのためにお粥を作ると申し出てくれた。
それをやんわりと断ったのは自分だ。
——自分がオーランドのために作りたかったから。
「すごい美味かった・・・ありがとう」
目元を柔らかに細めて礼を言うオーランドにサブリナは一瞬見惚れた。
今日は1日中、オーランドへの想いが溢れそうになってしまう。彼の言動に振り回されているのだ。
サブリナはなんとか視線を彼の手元に落とすと、椀を取り上げ、薬湯が入ったカップを手渡す。
「薬湯を飲んで、もうお休みください。明日には体調も戻るでしょう」
オーランドは心底嫌そうにそれを見たが、諦めたのか意を決したのか、大人しく一気に飲み干した。その様にサブリナはクスリと笑う。
苦い、不味いと文句を言うオーランドに、今度はシロップに漬けて冷やした桃が乗った皿を差し出す。
「お口直しです」
オーランドは皿にチラリと視線をやると、それまでの寝起きのような顔を少し意地悪い表情に変えて口を開いた。
「食べさせてくれないのか」
暗にシロップの時のことを揶揄されて、サブリナは頬をカァッと赤らめると、今度は憮然と顰めっ面をしてみせた。
「いたしません。手が動くのですから、ご自分でどうぞ」
やけにキッパリと力強く言い切ってしまった拒否に彼は苦笑すると、大人しく桃に手をつける。
オーランドが桃を食べるのをサブリナは見守りながら、明日の朝の薬湯の配合を考えていた時だった。彼がぼそりといった言葉に耳を疑った。
「俺は君に情けない姿を見せてばかりだ」
「え?」
「子供扱いも当然だな・・・」
「は?」
ご令息は自嘲気味に口元を歪めると続けた。
「今まで誰にも言ったことのない愚痴を話してしまったり、体調不良になったり・・・君に呆れられても仕方がない」
オーランドの言葉にサブリナはふっと微笑んだ。別に子供扱いしてるつもりはない。病の床に伏せっている患者に対する態度のつもりだった。
散々、彼の態度に振り回されている。だから、ちょっと意地悪い気持ちになって、彼の自尊心を傷つけるかもと思って、あえて口にしてこなかったことを言ってみる気になった。
「オーランド様は奥様に大切に育てられていらっしゃいます。お気持ちが優しくて、真面目でいらっしゃりすぎるかと・・・それに・・・」
「それに?」
オーランドが首を傾げると、使用人達の間では禁句らしいそれを言った。
「甘えん坊さんでいらっしゃる。ふふっ」
「!?っっ!!」
サブリナがニコニコしながらオーランドを見ると、彼は苦々しげに「母上か」と呟いた。
もちろん夫人から「オーリーは甘えん坊なのよ」と聞いているが、実は執事長のエイブスからも「オーランド坊っちゃまは、大人としてしっかり振る舞われていますが、本当は甘えたいお方なんです」と言われたのは内緒だ。
オーランドの不貞腐れた顔をサブリナは微笑ましく見つめていたが、昨日、オーランドの言葉を聞いてからずっと考えていたことを話そうと決めた。
女が何を言っているのかと・・・生意気かと思われるかもしれない。
でも、彼には自分の想いが伝わるような気もしていた。
オーランドの手から空になった皿を受け取りながらサブリナはゆっくり口を開いた。
「私はオーランド様の方が自由だと思います」
その言葉に令息はハッとしたようにサブリナを見返した。
「そして羨ましい」
「羨ましい?俺が、か?」
はっ!と吐き出されたような自重混じりの返事にはい、と軽やかに頷く。
「オーランド様は国の政《まつりごと》にとても近い場所にいらっしゃいますから」
オーランドの視線がすっと冷えたものに変わったのに気づいたが、続けた。
「今までの戦乱ばかりだった世もやっと終わりました。これからはお若い方々が陛下や王太子殿下と一緒にこの国を復興させ、そして良くしていく時代かと思います。オーランド様はその筆頭ではございませんか」
「その筆頭とやらが、自由だと君は思うのか?」
わけがわからないと言った顔で尋ねるオーランドにサブリナは微笑みながら、力強く答えた。
「はい!!だってこの国を好きなようにする事が出来るんですよ!!国を動かす事が出来る!!これほどの自由がどこにあると言うのですか?」
「君は権力と自由を同義だと考えているのか?しかも重責や犠牲がつきものだ。それが自由だなんて・・・」
納得がいかないと言った顔で言い返す彼に、サブリナは少し厳しい顔をした。
「そんな風には考えておりません。権力で意のままにしたいなどとは、それは欲に塗れた考えでございます。ただ・・・この国を良くしようとする自由は欲しいです・・・人はそれを時に裁量や権限と言うのかもしれませんが・・・私達は・・・父もそうですが、どんなに欲しても、そんな自由は手に入りませんから・・・」
オーランドはサブリナのその言葉に、目線を逸らすと考え込むように、少し俯いた。
「オーランド様の思う自由とはどんなものですか?私はこの国の未来も、この国の民も無視して、自分の享楽に耽る人間が自由だとは思いません。自由とは自分で選んだ道を邁進することだと思うのです」
サブリナは滔々と続けた。
「人は生まれを選ぶことは出来ません・・・けれど、なにを信念とし、どのように生きるかは選ぶ事ができるはずです。それに生きる上で、誰しもが重責も犠牲も強いられます。オーランド様だけではございません。平民であろうが、貴族であろうが、幼な子であろうが大人であろうが、男であろうが女であろうが生きる上では、皆同じだと思います」
サブリナがそこまで言い切ると、オーランドは顔を上げた。両手で顔を擦るとほおっと深い息を吐く。
「参ったな。そんな風に考えたことは無かった」
恵まれ過ぎている立場であっても当事者になれば、それが当たり前過ぎて分からないのは当然だ。だからこそ、気付いて欲しいと、サブリナは昨日から考えていた。
「綺麗事を言っている自覚はございます。思うようにならないのが世の常ですから。この国だって、やっと奴隷制度が廃止され違法な娼館などは禁止となりましたが、まだまだ闇では人身売買も違法な犯罪も抑えきれていません。それでも、私は自由はそうでありたいと考えてます」
オーランドは何も答えない。その横顔を見つめながらサブリナは彼を思いやった。
「オーランド様はこの国の同じ世代の誰よりもご自身の夢を体現し、自由を謳歌できるお立場にいらっしゃる。だからこそ、最上位貴族の嫡男として、色々なことに葛藤される貴方様はとても真面目にご自分と向き合われていらっしゃると感じます」
オーランドの上掛けの上で握りしめられていた手に、思い切って自分のそれを重ねる。
「・・・サブリナ・・・」
目を見つめ、彼の手の温かさを感じながら続ける。
「愚痴も甘えもいいのでは無いでしょうか。真剣に自分の生き方を考えられている証拠だと私は思います」
ニコリと笑うと今度はオーランドが手のひらを返して、指を絡めて握り返す。
「お父上の言いなりですか?そんなことはございません。オーランド様は今回の・・・私のことに毅然と宰相様へ反論し、怒ってくださいました。そのような事が出来る方が、お父上の操り人形・・・傀儡だとは私は思いません」
だから、とサブリナは続けた。
「恵まれたお生まれを存分に利用して、自由に生きられたらよろしいのではないでしょうか。人間はみな役割を神から与えられて生まれてくると言います。ですから、オーランド様もきっと自由に生きられる役割が見つかるはずです」
「・・・役割」
「はい」
考え込むように黙ってしまったオーランドにサブリナはまた笑みを浮かべると立ち上がった。いくら回復途上とは言え長くなってしまった。
「申し訳ございません、長々とお話ししてしまいました。さあ、もうお休みください」
彼はまだ考え込んだようなままでいたが、サブリナの指示に従って寝台に横たわる。
上掛けをかけて、サブリナはお休みなさいませ、と声をかけると静かに部屋を辞したが、オーランドからの返事は無かった。
エイブスに当然のようにニッコリと微笑んで言われて、サブリナの頬は引き攣った笑いしか浮かばなかった。
やはりオーランドは王宮と別邸を近衛騎士団の仕事で行ったり来たりした疲れが祟ったのか、咳が出始め発熱していた。
暑い時季とは言え、この地域は夜になると急激に気温が下がり、雨が降ることも多い。王都の公爵邸に戻ればよかったのに、律儀に馬を飛ばしても2時間近い距離を朝晩続ければ、体調だって崩すはずだ。
夫人に報告したところ「あらあら、風邪なんて珍しいこと。ブリーお願いね」とこれまたあっさりとお願いされてしまった。
使用人達もサブリナに全てを任すつもりは変わらず、結局、エイブスに渡された水が入った盤と熱覚ましと咳止めの薬湯を作って、オーランドの寝室に入った。
夫婦の振りをしていても、この別邸でも寝室は分けている。サブリナは夫人にバレないよう、オーランドの妹ナディアが使っていた部屋で寝泊まりしていたから、オーランドの寝室に入るのは初めてだ。
広い室内は深い緑と生成りの紗幕がかかり、若い男性らしい高級感がありながらも簡素な調度品が置かれている。彼はその部屋の真ん中に置かれた大きな寝台で眠っていた。
顔を覗き込むとまだ熱が高いのだろう、顔は赤く寝息は苦しそうだ。脇机に盤や持参した諸々を置く。
盤の水に手拭いを浸して絞り、オーランドの額に乗せると、うっすらと彼が目を開けた。
「ご気分はいかがですか?」
身体を起こそうとして、ゴホッと咳が出る。立て続けに咳をしたので、サブリナは慌てて彼の背中を支えると摩ってやった。
「・・・すまない」
苦しそうな呼吸の合間にぽつりと出た掠れ声に、サブリナは黙って頭を軽く振ると、傍らのカップを手に取った。
「薬湯をお待ちしました。お飲みいただけますか」
頷きカップを手に取ったオーランドのそれに自分も支えるように手を添えながら、薬湯を口に含む彼を見つめる。
「苦い・・・」
一口含んで、普段は端正な顔を思いっきり歪めるオーランドにくすっと笑うと、サブリナは「病を治すためです。頑張ってお飲みください」と励ました。
飲み終わった後も苦い苦いと眉を顰めるオーランドを寝台に横たわらせると、サブリナは持参したもう一つの瓶を手に取った。
「よく頑張りました。今度はこちらを。お口直しです」
瓶から匙でひとすくい。それを指に付けるとオーランドの唇に塗る。
オーランドはそれを舌で舐めとった。
「甘いな・・・」
サブリナはニッコリ微笑むと、クロスグリとはちみつのシロップです、と教えた。彼が寝込んでいる間に作ったのだ。
指を手巾で拭おうとしたが、それは叶わなかった。
「ひぁっ!!」
変な声が上がってしまったのは仕方がない。オーランドがサブリナの手を取り、シロップが付いた指先を舐めたからだ。
突然の性的な触れ方にサブリナは慌てて手を引っ込めると涙目でオーランドを睨んだ。
「お戯れが過ぎます。熱が下がるまで大人しくお休みください」
「なにをいまさら・・・」
ここで散々そういう意味の触れ合いをしてきたから、オーランドの突っ込みは正しい。だからサブリナは言い返すこともできない。
いつもシロップ類は指で患者の唇に塗布していたから、まさかこんなことをされるとは思ってもみなかった。
上気した頬のまま、オーランドに上掛けをしっかり掛けると、咳き込みながらクツクツと含み笑いをするオーランドの顔を見ずに、部屋から逃げるように出て行くことしか出来なかった。
その日の夜もサブリナはオーランドの夜食と薬湯、その他諸々をワゴンに用意し、彼の寝室を訪れた。
夕方に様子を見に行った時は、薬湯の効果と疲労も相まってか、彼はこんこんと眠り続けていた。額を触るとまだ熱が高かったので、額の手巾を変えるだけにして起こさないでいたのだ。
そろそろ少しでも良いから何かを食べて薬湯を飲んで欲しい。
そっと寝室に入り、寝台に近づき様子を伺う。彼はまだ眠っていて、額の手巾がずれて落ちていた。手巾を取り、額に手を当てると少し熱が下がったような感じがする。
サブリナはホッと安堵の息を吐くと、水を変えた盤で手巾を浸して絞り、もう一度オーランドの額に乗せた。
「ん・・・」
額の冷たさにオーランドは身動ぐと、ゆっくりと目を開けた。
「・・・申し訳ございません、起こしてしまいましたね」
「・・・ぁぁ・・・サビぃ・・・ナ」
寝起きでぼんやりしたようなオーランドは子供のように見える。幼い様子にサブリナはふっと笑みを溢すと、身体を起こしかけたオーランドの身体を夫人にするのと同じように支えた。
薄い夜着越しでもはっきりとわかる彼のしなやかな筋肉の動き。オーランドは細身に見えるのに、日頃の鍛錬の成果だろう、鋼のような身体つきだ。彼の身体に夜着越しであっても触れて、思わずサブリナは顔を赤らめた。
オーランドが好んで付けている松の香りと熱でかいた汗の匂いが混じり合って、普段の彼からは想像できない男性的で官能を煽るような香りが鼻腔を擽る。
その胸に抱きしめられたい衝動に駆られて、サブリナははっと我に返った。
——やだ、私ったらなんてことを・・・。
今は看護中だというのに破廉恥な欲求を持ったことに狼狽えてしまう。内心の動揺を押し殺しながらサブリナはオーランドの背に枕を当て、ガウンを羽織らせると顔を覗き込んだ。
「オーツ麦と卵のお粥を作りました。少しでも召し上がれそうですか?」
オーランドはまだぼんやりとした顔だったが、その言葉に頷いた。
「食う・・・」
座り直したオーランドの膝上に、お粥を乗せた盆を置くと、オーランドは匙を取った。まだ湯気が出ている碗を「熱いからお気をつけて」と言って手渡すと待ちきれないように、ひとすくい口に運ぶ。
「美味い・・・!!」
オーランドは空腹を思い出したようにがっつきはじめ、あっという間に完食した。
「食欲は大丈夫ですね、良かった」
これなら明日にも快復するだろう。顔色も元に戻っている。若いし体力もあるだろうから、治るのもあっという間だとサブリナは安堵した。
「このお粥は・・・君が?」
その問いに、はいと肯定すると続けた。
「消化の良いものを召し上がった方が良いので。・・・料理人の手を煩わせるのも、と思って・・・」
最後が尻切れトンボになったのは彼女の思いが透けそうで決まりが悪くなったから。
料理人はもちろんオーランド坊っちゃまのためにお粥を作ると申し出てくれた。
それをやんわりと断ったのは自分だ。
——自分がオーランドのために作りたかったから。
「すごい美味かった・・・ありがとう」
目元を柔らかに細めて礼を言うオーランドにサブリナは一瞬見惚れた。
今日は1日中、オーランドへの想いが溢れそうになってしまう。彼の言動に振り回されているのだ。
サブリナはなんとか視線を彼の手元に落とすと、椀を取り上げ、薬湯が入ったカップを手渡す。
「薬湯を飲んで、もうお休みください。明日には体調も戻るでしょう」
オーランドは心底嫌そうにそれを見たが、諦めたのか意を決したのか、大人しく一気に飲み干した。その様にサブリナはクスリと笑う。
苦い、不味いと文句を言うオーランドに、今度はシロップに漬けて冷やした桃が乗った皿を差し出す。
「お口直しです」
オーランドは皿にチラリと視線をやると、それまでの寝起きのような顔を少し意地悪い表情に変えて口を開いた。
「食べさせてくれないのか」
暗にシロップの時のことを揶揄されて、サブリナは頬をカァッと赤らめると、今度は憮然と顰めっ面をしてみせた。
「いたしません。手が動くのですから、ご自分でどうぞ」
やけにキッパリと力強く言い切ってしまった拒否に彼は苦笑すると、大人しく桃に手をつける。
オーランドが桃を食べるのをサブリナは見守りながら、明日の朝の薬湯の配合を考えていた時だった。彼がぼそりといった言葉に耳を疑った。
「俺は君に情けない姿を見せてばかりだ」
「え?」
「子供扱いも当然だな・・・」
「は?」
ご令息は自嘲気味に口元を歪めると続けた。
「今まで誰にも言ったことのない愚痴を話してしまったり、体調不良になったり・・・君に呆れられても仕方がない」
オーランドの言葉にサブリナはふっと微笑んだ。別に子供扱いしてるつもりはない。病の床に伏せっている患者に対する態度のつもりだった。
散々、彼の態度に振り回されている。だから、ちょっと意地悪い気持ちになって、彼の自尊心を傷つけるかもと思って、あえて口にしてこなかったことを言ってみる気になった。
「オーランド様は奥様に大切に育てられていらっしゃいます。お気持ちが優しくて、真面目でいらっしゃりすぎるかと・・・それに・・・」
「それに?」
オーランドが首を傾げると、使用人達の間では禁句らしいそれを言った。
「甘えん坊さんでいらっしゃる。ふふっ」
「!?っっ!!」
サブリナがニコニコしながらオーランドを見ると、彼は苦々しげに「母上か」と呟いた。
もちろん夫人から「オーリーは甘えん坊なのよ」と聞いているが、実は執事長のエイブスからも「オーランド坊っちゃまは、大人としてしっかり振る舞われていますが、本当は甘えたいお方なんです」と言われたのは内緒だ。
オーランドの不貞腐れた顔をサブリナは微笑ましく見つめていたが、昨日、オーランドの言葉を聞いてからずっと考えていたことを話そうと決めた。
女が何を言っているのかと・・・生意気かと思われるかもしれない。
でも、彼には自分の想いが伝わるような気もしていた。
オーランドの手から空になった皿を受け取りながらサブリナはゆっくり口を開いた。
「私はオーランド様の方が自由だと思います」
その言葉に令息はハッとしたようにサブリナを見返した。
「そして羨ましい」
「羨ましい?俺が、か?」
はっ!と吐き出されたような自重混じりの返事にはい、と軽やかに頷く。
「オーランド様は国の政《まつりごと》にとても近い場所にいらっしゃいますから」
オーランドの視線がすっと冷えたものに変わったのに気づいたが、続けた。
「今までの戦乱ばかりだった世もやっと終わりました。これからはお若い方々が陛下や王太子殿下と一緒にこの国を復興させ、そして良くしていく時代かと思います。オーランド様はその筆頭ではございませんか」
「その筆頭とやらが、自由だと君は思うのか?」
わけがわからないと言った顔で尋ねるオーランドにサブリナは微笑みながら、力強く答えた。
「はい!!だってこの国を好きなようにする事が出来るんですよ!!国を動かす事が出来る!!これほどの自由がどこにあると言うのですか?」
「君は権力と自由を同義だと考えているのか?しかも重責や犠牲がつきものだ。それが自由だなんて・・・」
納得がいかないと言った顔で言い返す彼に、サブリナは少し厳しい顔をした。
「そんな風には考えておりません。権力で意のままにしたいなどとは、それは欲に塗れた考えでございます。ただ・・・この国を良くしようとする自由は欲しいです・・・人はそれを時に裁量や権限と言うのかもしれませんが・・・私達は・・・父もそうですが、どんなに欲しても、そんな自由は手に入りませんから・・・」
オーランドはサブリナのその言葉に、目線を逸らすと考え込むように、少し俯いた。
「オーランド様の思う自由とはどんなものですか?私はこの国の未来も、この国の民も無視して、自分の享楽に耽る人間が自由だとは思いません。自由とは自分で選んだ道を邁進することだと思うのです」
サブリナは滔々と続けた。
「人は生まれを選ぶことは出来ません・・・けれど、なにを信念とし、どのように生きるかは選ぶ事ができるはずです。それに生きる上で、誰しもが重責も犠牲も強いられます。オーランド様だけではございません。平民であろうが、貴族であろうが、幼な子であろうが大人であろうが、男であろうが女であろうが生きる上では、皆同じだと思います」
サブリナがそこまで言い切ると、オーランドは顔を上げた。両手で顔を擦るとほおっと深い息を吐く。
「参ったな。そんな風に考えたことは無かった」
恵まれ過ぎている立場であっても当事者になれば、それが当たり前過ぎて分からないのは当然だ。だからこそ、気付いて欲しいと、サブリナは昨日から考えていた。
「綺麗事を言っている自覚はございます。思うようにならないのが世の常ですから。この国だって、やっと奴隷制度が廃止され違法な娼館などは禁止となりましたが、まだまだ闇では人身売買も違法な犯罪も抑えきれていません。それでも、私は自由はそうでありたいと考えてます」
オーランドは何も答えない。その横顔を見つめながらサブリナは彼を思いやった。
「オーランド様はこの国の同じ世代の誰よりもご自身の夢を体現し、自由を謳歌できるお立場にいらっしゃる。だからこそ、最上位貴族の嫡男として、色々なことに葛藤される貴方様はとても真面目にご自分と向き合われていらっしゃると感じます」
オーランドの上掛けの上で握りしめられていた手に、思い切って自分のそれを重ねる。
「・・・サブリナ・・・」
目を見つめ、彼の手の温かさを感じながら続ける。
「愚痴も甘えもいいのでは無いでしょうか。真剣に自分の生き方を考えられている証拠だと私は思います」
ニコリと笑うと今度はオーランドが手のひらを返して、指を絡めて握り返す。
「お父上の言いなりですか?そんなことはございません。オーランド様は今回の・・・私のことに毅然と宰相様へ反論し、怒ってくださいました。そのような事が出来る方が、お父上の操り人形・・・傀儡だとは私は思いません」
だから、とサブリナは続けた。
「恵まれたお生まれを存分に利用して、自由に生きられたらよろしいのではないでしょうか。人間はみな役割を神から与えられて生まれてくると言います。ですから、オーランド様もきっと自由に生きられる役割が見つかるはずです」
「・・・役割」
「はい」
考え込むように黙ってしまったオーランドにサブリナはまた笑みを浮かべると立ち上がった。いくら回復途上とは言え長くなってしまった。
「申し訳ございません、長々とお話ししてしまいました。さあ、もうお休みください」
彼はまだ考え込んだようなままでいたが、サブリナの指示に従って寝台に横たわる。
上掛けをかけて、サブリナはお休みなさいませ、と声をかけると静かに部屋を辞したが、オーランドからの返事は無かった。
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