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第十三章
266話 無意識の誘惑
「ヒオゥネっ」
その胸に飛び付けば、ヒオゥネは身体をビクつかせる。ちょっとだけよじ登って頭を並べるようにハグをする。
ヒオゥネの匂いだ……。
「あの、ヴァントリア様?」
ヒオゥネの声だ……。
「…………あの、お風呂に数日入れていないので、嗅ぐのはやめてもらえませんか」
「か、嗅いでない!」
「そんなに臭かったですか?」
いきなり抱きついて匂いを嗅ぎだしたからそんなふうに思ってしまったのか?
「あの……」
ずっとぎゅうううっとくっついて離れないでいれば、腰を掴まれて離されそうになる。それに抵抗してぎゅうぎゅうしていたら、その力は弱まる。
「…………なぜ泣いてるんですか?」
言われて気がついた、頰を流れる湿った感覚。以前のように、苦しいのを全部出そうとするような涙じゃない。
心の底から出てきたあったかい涙だ。
自分の身体はヒオゥネに支えられていないと倒れてしまいそうなくらい力が抜けている。なのに、腕だけはヒオゥネを離さない。身体は震えているし、息をするのも、難しい。
でも、痛みはない。少し胸が苦しいけれど、嫌じゃない。
ずっと心臓が鳴り止まない、胸と胸が密着しているから、ヒオゥネに振動が伝わってしまうんじゃないかと、もっともっと心臓が激しく音を立て始めた。
腰にあったヒオゥネの手が、背中へ回される。よしよしと、背中を撫でる手を感じていたら、幸せで幸せで、嬉しくて嬉しくて嬉しい涙が止まらなくなる。
「ヴァントリア様、まだどこか痛いんですか?」
頭を振れば、ヒオゥネの頭が擦り付けられる。違う。甘えたわけじゃない。
身体を少し離して、ヒオゥネの顔を見上げる。
「…………」
ヒオゥネの身体が固まる。触っているところが硬くなったので、筋肉が引き締められているのが分かった。
全く動かなくなって、どうしたんだとじっと顔を眺めるけれど、相変わらず顔の表情は読めない。
ヒオゥネに見つめられている状態であることがわかり出してきたあたりで、どんどん顔が熱くなってくる。離れていても熱を寄越してくるのか、その体温は遠隔操作も可能なのか。
そんな中、目をそらすことが出来なくてこちらからも見つめ返していた。
もう無理だと言わんばかりに、自然に睫毛が視界を降りてくる。降り切れば、ヒオゥネの顔は見えなくなる。
ちょっとだけ顔を上げて、唇を伸ばす。
「…………っ」
ヒオゥネの身体がビクつく。
――し、しまった。またキスをねだってしまった。また、拒絶される。
すぐに目を開いて、なかったことにしようと少し顎を引く。
勘違いだったと思ってくれたらいいけど……。
……ヒオゥネには、好きな人がいる。それに、こんな気持ちは許されない。
男同士なんて……例えヒオゥネがウロボス一族だったとしても、難しい話だ。ヒオゥネが女の子を好きなら、望みは薄い。いや、一般的には男性が女性に惹かれることが普通のことなんだ。ヒオゥネだって女の子になら恋をするかもしれないけど、男の俺にそんな気持ちを抱くなんて、奇跡が起きない限り難しいことだ。
それに、俺には婚約者がいる。ウラティカは今でも待っててくれている。俺が王族でなくなった時も、彼女は俺との婚約を破棄しないと断り続けていたらしい。彼女は色々とアレだがとても素敵な人だ。
……俺にウラティカと言う婚約者がいるように、ヒオゥネにも婚約者がいるかもしれない。
でも、好きになってからずっと、諦めようって頑張ってきた。死んじゃった後も、忘れようって頑張ってた。忘れられてると思っていた。
まだ、好きだ。どんなに悪い奴でも好きなまんまだった。きっと、もっと悪いところを見ても、好きなまんまだ。
俺はいつになったら、ヒオゥネのことを忘れられるんだろう……。
「…………何故泣くんですか?」
「……どうしたらいいのか、わからないんだ」
「どうしたら?」
どうしたら好きでいるのをやめられるんだろう。恋なんて本能的な繁殖の為の行動だろ、好きなだけでいいじゃないか、苦しくなる必要なんかあるか? いやそもそも男同士だから繁殖なんて出来ないけど。ヒオゥネと俺の子供……って俺は何を考えてるんだ!!
やっぱり、恋なんかに、心を乱されるなんてのは、おかしい。
胸は苦しいまんまだ、不安もたくさんある。なのに、熱い体温を感じていると、不思議と安心して、胸はドキドキする。
「…………ヒオゥネが生きててくれて、凄く嬉しい」
「え……」
「本当に嬉しい」
胸に擦り寄ると、ヒオゥネはビクつく。ハッとしてすぐに身体を離す。
男に胸に擦り寄られるなんて、気持ち悪いに決まってる。それに俺はヴァントリアだし、男よりも望みは薄いし。
「……不思議なことを言いますね。僕はあなたの敵ですよ」
「ヒオゥネが死んだから、悲しいって言ったろ」
「そう言えばそんなこと言ってましたね」
そんなことってなんだよ、一生分は泣いたんだぞ。ずっと苦しいまんまだったんだぞ。身体の中央にぽっかり穴を開けられたみたいに痛かったんだ。自分の半身を引き裂かれた時よりももっと苦しくて怖かった。
「生きててくれて、嬉しい」
「…………本当に貴方は不思議な人ですね」
ヒオゥネの指先が目尻に触れてくる。
顔を上げれば、その手は頰を撫でてくる。ドキン、ドキンと大きく胸が鳴る。それに比例するように徐々に、ヒオゥネの顔が近づいてきた。
ヒオゥネの睫毛が降りていくのを追いかけるように、自分の睫毛も降りていく。
どんな気持ちで、受け止めればいいのかわからない。ヒオゥネの考えていることがわからない。
唇に熱い感触が押し付けられる。感情も声も心臓も、壊れてしまいそうだ。
以前よりももっと熱く感じるその唇に、ちゅっと吸い付けば、やはり、ギクッとヒオゥネが反応を示した。
……何なんだよ、さっきから。散々キスしてきたくせに、散々、俺からキスしてこいって言ってきたくせに。
自分の両手をヒオゥネの背中から退けて、ヒオゥネの首に巻き付くように移動させる。
ちゅうっとこちらからキスしていけば、ヒオゥネは逃げようとするが、離さん!
俺はいろんな奴に散々キスされたんだからな!
サイオンにもディスゲル兄様にも、セルにも……キスされすぎじゃないか、俺。
ずっと、拒んできたんだぞ、お前じゃないからって。……無理矢理されちゃったけど。
なのに、拒絶するなんて生意気だ! 俺なんていやでもたくさんされたんだからお前も受けろ! 喰らえ! ヴァントリアのクセになる唇を! さあ!
――しかし、その腕はあっけなく外されてしまった。
「……うう」
力がないって不憫……。
好きじゃない奴には無理矢理キスされるし、好きな人に無理矢理キスしようとしたら止められちゃうし。
「……何で拒むんだよ。そっちからはキスしてくるくせに……」
「ヴァントリア様……」
じっと観察されて、いたたまれなくなる。心の中を読もうとしているみたいに見えて、見せてたまるかと睨み付ければ、相手はぽっと頰を赤く染めた。そう言えばコイツ、睨まれるのが好きだったな。
「嫌なのか? 俺とキスするの……」
「え、いや、そう言う訳では……」
「じゃあ……何で、止めさせるんだよ……」
「それは……」
ちょっとだけ責めるように見つめていたら、ヒオゥネは口元を手で抑え、さっと目を逸らした。
「理性が……その」
「りせい……?」
「貴方の方から、キスしてくれることは滅多にないことじゃないですか。今までしてくれと頼んでもしてくれなかったですし」
「……したいと思ったら、ダメ、なのか?」
それじゃあおねだりするしかないってのか。でもこっちからもちゅーしたいのに。
じっと見つめていたら、さらに、ぷい、と、そっぽを向かれる。
「…………止めてください理性が死にかけてるじゃないですか。僕の理性を殺す気ですか?」
「そっちからはたくさんキスしてきたくせに……こっちからもしたっていいじゃないか」
「でも、キスで止まらなくなりそうで……」
ポカン、と口を開け放てば、ちら、とヒオゥネがこちらの反応を伺う。
「…………………………」
「……は?」
自分から出た声は今まで聞いたこともないような、ドスの効いた声だった。
「無理やり俺を抱いたことを忘れたのか」
「あれは無理やりではありませんでした。あの時も意地悪な貴方のせいで理性が……」
ヒオゥネははぁ、とわざとらしくため息をつく。
「俺のこと愛してないって言っただろ」
もしかして、やっぱり会ってないけど愛している人と言うのは俺のことなのか? そう考えて尋ねようとする前に、ヒオゥネはピシリと言い渡す。
「愛していません」
「な、なら理性なんて……」
「好きではありますから」
「意味わかんねえよ!!」
だいたい最初から意味わかんなかったんだ。恋愛感情でない好きだとか言いながらたくさんキスをしてきたり、愛してないとか言いながら抱いてきたり、訳わかんない。
「ヴァントリア様は僕に抱かれたいんですか?」
「はあ!?」
「愛しているんですよね、僕のことを」
「んなッ!?」
まだそうだと気づいていない段階で言った言葉を思い出されて無性に腹が立った。お前が死んだ時にやっと愛してるって気持ちがわかったなんて言ってやらない!
「あ、愛してるけど、まだ、そんな……」
「まだ?」
「へ?」
「まだってことは、抱かれたいとは思っているんですか?」
――さっきからなんなんだよ!!
ムカつく、ムカつく、俺の気持ち知ってるくせに。
「そうだって言ったら、今ここで抱いてくれるのか!」
顔を真っ赤にしてそう言い放てば、相手は顔色一つ変えずに言った。
「僕は本物じゃありませんし。貴方が望まないでしょう」
……本物じゃ、ない? つまり死んだヒオゥネも本物じゃなかったってことか!? じゃああの時悲しんだ俺って……よく考えたら未来のヒオゥネがいる時点で生きてるじゃん!!
ああ、もう、なんなんだよそれ……。
「泣かないでください。僕が本物じゃないことがそんなにショックでしたか」
「自分に腹が立ってるだけだ」
ヒオゥネから距離を取り、そう言うと、ヒオゥネは「そうですか」と言って台から降りる。
「僕はやることがあるので帰ります。……ではお別れの接吻を」
「んな!? な!?」
まだこっちはそれどころじゃないのに!
でも、結局拒絶できずに、目を瞑って受け入れてしまう。キスが終わると、口を押さえてヒオゥネに背を向ける。
もう、俺は何をしてるんだよ、もおおお!
振り返って文句を言おうとすれば、既にヒオゥネの姿は消えていた。空間を移動したのだろう。
ヒオゥネが生きていてくれたことは嬉しい、でも、実験を止めるためには厄介な敵となるだろう。
「ヒオゥネ……」
一筋だけ涙が溢れる。それを思いっきり拭って、俺は外へ出ようと扉へ向かって歩き出した。
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