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第三章 ◆ 蛇道
第三節 ◇ 試験管
しおりを挟む次の手紙は『ニュートンの揺籃』から少し進んだところに落ちていた。
ボクは立ち止まって振り向いた。
鉄球がぶつかる音がハッキリと聞こえるし、シルエットもハッキリと見える。
「ねえ、トキワ。さっきのニュートンの揺籃から、あまり進んでいないような気がするんだけど……。」
これまでは、ひとつの『象徴』を通り過ぎでしばらくたってから手紙を見つけていた。
だからボクたちには、通り過ぎた『象徴』ついて思い出したことを語り合ったりする時間があった。でも今回は――。
「やはり、君も気になっていたのか。今回はあまりにも近すぎる。」
トキワはくちばしに手紙をくわえ、トコトコと歩いてボクの足元に戻ってきた。ボクは封筒を受け取り、いつも通り慎重に封を切った。
┏━━━━━━━━━━┓
『満たされぬ水』
嘘を吐けば吐くほど
水は満たされない。
┗━━━━━━━━━━┛
「嘘はよくないよね。」
ボクは、ポケットに手紙をしまった。
「誰かを傷つけるような嘘は、確かによくないな。だが、そんなことを私たちに伝えるための手紙ではないと思うぞ。」
そう言うと、トキワはスッと飛び立ち、手紙の内容を表す『象徴』を探した。
さっきのバランスボールから離れていないところに手紙があったのだから『象徴』も近くにあるはずだと、ボクもトキワも考えていた。そしてそれは、思った通り、近くにあった。
「トキワ、見て!」
水をたたえた四本の試験管が、ボクたちの頭上に逆さまで浮かんでいる。栓でふさがれているわけではないので、水が試験管の口のところで波打っているのがハッキリと見える。
水面は光を反射してキラキラときらめき、ボクたちを照らしていた。
鉄錆の道の下には、やはり水をたっぷりとたたえている試験管が四本、逆さまの試験管とちょうど互い違いになるような位置で、口を上に向けて浮かんでいる。
しかし、道の上に浮かぶ試験官と道の下に浮かぶ試験官とでは長さに違いがあった。口を下に向けた試験管は四本とも長さが違うけれど、口を上に向けた試験管は四本とも同じ長さだ。
それより、ボクにはどうしても気になることがある。
「ねぇ、トキワ。水、満たされてるよね。」
手紙には『満たされぬ水』と書いてあったのに、道の上も下も、すべての試験管はあふれそうなほどの水をたたえている。これには、さすがのトキワも肩をすくめて首を振るしかなかった。
「水が満たされているのも気になるけど、気になることがもう一つあるの。どうして上の試験管は長さがそろっていないのかな。下の試験管は同じ長さなのに。」
ボクがそう言うと、座っていたトキワは何か思いついたように突然立ち上がった。そして翼の先を口元に運ぶと、上と下の試験管を交互に見てはぶつぶつ言っている。
「そういえばボクたち、他の道から見たら『逆さま』に立ってるんだよね。」
「そういうことか!」
トキワは、何気なくつぶやいたボクの言葉に大きく反応した。瞳に光を宿して、いきいきとなぞ解きをしている。ボクはトキワの言葉を待った。きっと哲学者トキワがこの『象徴』のことを話してくれるから。
「つまり、この『象徴』自体を『逆さま』に見るべきなんだ。」
トキワは翼を大きく広げてボクを見ると、これは『心』だ、と語った。
「心? この試験管が、心?」
「そうだ。長さがそろっている試験管は、社会的に正しいとされている心を示していると思うのだ。」
「トキワ。社会的にって、つまり、本当に正しいのかどうか分からないけれど、一般的に正しいって言われている正しさってことでいいのかな?」
トキワは、その通り、とうなずいた。
「いわゆる、常識やマナー、法律などのルールや世間体なんかも含まれるだろうな。誰かの価値観できっちりそろっている、ということだ。」
トキワは道の上に浮かぶ試験管を見上げた。ボクもトキワの視線を追って試験管を見た。
「しかし、道の上の試験管は長さがそろっていない。長さがそろっている試験管が『社会的に正しい心』ならば、こっちの試験管は、型にはまるこのとない、伸縮自在な『自分の心』だ。」
トキワは、ボクに視線を移した。
「特に欲求を表しているのではないかと思うのだ。」
欲求……?
どうしてこの試験管が、欲求を表しているといえるのだろう。
それが理解できなかったから、ボクはもう一度、試験管を観察した。一本目の試験管は下の試験管と長さが同じだけど、二本目、三本目と、少しずつ短くなっている。まるで、木琴みたいだ。
「この試験管、だんだん短くなってるね。」
「いいところに気がついたね。その形がヒントだ。」
だんだん短くなっているのが、欲求を表している? それはどういうことだろう。ううん、たぶん違う。短くなっていることそのものが欲求じゃないな。
「私たちは欲深い生きものだ。あれが欲しい、これがしたいと思うだけでなく、あの人がうらやましい、この人が妬ましいと、他者を羨む心も持っている。そんなことを考え出したらキリがない。次から次へと、どんどん湧いてくる。」
たしかにボクにもそういう心がある。
でも、もしそのまま誰かにぶつけていたらどうだろう。
トキワみたいに飛びたいとか、もう歩きたくないとか、思ったことをそのままトキワにぶつけたら――。
「この世界でワガママを言ったところで、出口にたどり着けるわけでもないし、できないことができるようになるわけでもないから、腹をくくって自力でなんとかするしかない。だが、もし、ここがそれなりに願いが叶う世界だったらどうだろうか。もしかしたら君はワガママを言うかもしれない。でもそうすることで、他の誰か――、たとえば私は君をワガママな子だと思うかもしれないね。」
ボクはほっぺをふくらませた。
「ボク、トキワにワガママな子だと思われるよりなら我慢する。嫌われたくないもの。それに、ワガママを言ったらトキワが困るかもしれない。それも嫌だ。」
トキワが、ボクを見てにっこり笑った。
「そう。それが試験管の正体だ。」
トキワは、ゆっくりと試験管に視線を動かした。
「ときには我慢や諦めも必要だけれど、納得できない状態で次々と湧いてくる欲求をうまく処理できないまま、ただただ我慢して試験管を縮めてしまうと、満たされるはずだった水は行き場を失ってしまうのだ。」
ボクの心に、寂しくてむなしい風が吹きこんだ。
「ねぇ、トキワ?」
ボクは寂しさを埋めるようにトキワの背中をなでた。
「心の試験管に入れなかった水は、どこに行くんだろう……。無くなっちゃうのかな?」
「私は無くならないと思っている。水は、必ずどこかに姿を現わすと思っているよ。」
そしてトキワは、気持ちよさそうに目を閉じた。
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