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06話*ビックリ事件
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梅雨が過ぎ、例年よりも暑い初夏を迎える。
阿蘇の山も観光シーズンに入り、日増しに観光客やバスが連なるように高級旅館『蒼穹』も予約で埋まりつつあった。
「創業五年ですごいね」
「当然よ。また来ていただくためにアタシたちも頑張ってるんだから」
グレーのズボンスーツに編み込みした髪をひとつに結んだ葵はチェックアウトが過ぎたフロントで驚く。対して予約状況を表示したパソコンの前に座る耳下までの茶髪ウェーブ、空色の着物に白の前掛けをした女性従業員、唐沢 花枝は自信満々に胸を叩いた。
葵が『蒼穹』に就職して三週間。メインはノアの運転手だが、挨拶しないのも変だと麦野を介して従業員とも顔合わせを行った。驚きはされたが時期的に短期バイトも入る上、他県からの就職者も多くすんなりと受け入れられている。後者の花枝も葵の五歳下だが、明るい性格もあって一番のお喋り相手だ。
「あとはまあ、オーナーがイケメンだからよね。あーあ、オーナーとずっといられる葵ちゃんが羨ましい」
「ずっとだったら今ここにいないよ」
頬杖をつく花枝の視線に葵は苦笑するが、内心冷や汗をかいていた。というのも、ノアが『蒼穹』の創業者でありオーナー社長だったからだ。若くして起業したのも驚きだが、両親も別の会社を経営しているそうで、御曹司なのか社長なのか若旦那なのか訳がわからない。
「吹石さん、印刷できたよ」
「あ、ありがとう、森本くん」
混乱を払うように花枝と同じ装いに短髪の黒髪。葵と同齢の男性従業員、森本 大輔から今日の仕事先までの地図を受け取る。
震災後に訪れた時は叔母の運転だったため葵にとっては阿蘇も熊本も初見に等しく、最初の一週間はマユ美の買い物や麦野指導のもと運転三昧。最近やっとノアと二人で行かせてもらえるようになったが、はじめての場所は地図が必須。遅れないよう指で道を辿るが、所々にある通行止に止まる。顔を覗かせた森本は熊本出身なのもあり察したのか肩を竦めた。
「阿蘇大橋が新しくできてからは楽になったけどな」
「五年でできるんだからすごいわよね。葵ちゃんは展望所行った?」
「ううん。車では通ったんだけどね」
震災の影響で多くの道が寸断されただけでなく大動脈のひとつである大橋が陥落。五年後に新しい橋が完成し、展望所ができたのは葵も知っていたが降りたことはなく、寄り道しようか考える。ひとりではなく、二人で。
「アオ」
旅館名とは異なるイントネーションに振り向く。
鳶色の着物にグレーの羽織を揺らすノアの登場に、立ち上がった花枝と森本が一礼。同じく葵も頭を下げようとするが先に口を開かれた。
「宝輝社の次に一本入ったから早めに出るぞ」
「へ? じゃあ、今日四社? 場所は?」
「歩きながら話す。行くぞ」
「ちょ、ちょっと!」
ぶっきらぼうに言いながら踵を返したノアに慌てふためく葵は花枝と森本に頭を下げると地図を持って追い駆ける。『いってらっしゃいませ』と丁寧な御辞儀をした二人は足音が遠退くと互いをチラ見した。
「オーナー、名前で呼ぶことあるんだね」
「怖い顔は変わらないけどな。あれで年下かー」
「アタシには森本さんを睨んでるように見えたけど」
「え、やめて、コワイ。俺、恋人いるってちゃんと言おう」
花枝のジト目にエアコンとは違う寒さを覚えた森本は両腕を擦る。年下とはいえ雇用主。炎暑よりも列寒が訪れる可能性に二人は身震いした。
ノアと二人、社用車に乗り込んだ葵は山を下る。
高低差と急カーブが多くあり、最初の頃は『酔う』と文句を言われたが、慣れた今は曲がる方向やブレーキをかけるタイミングが掴め、会話もできるようになった。が。
「じゃあ、益城で一時間ぐらいね?」
「……Yes」
「夜は家で食べられそう?」
「……Yes」
「……茄子料理でもいい?」
「……No」
運転席の後ろに座るノアは景色を見ながら答えるが反応は薄い。否、バックミラーで見なくても声のトーンで不機嫌だとわかる。突拍子もないことや不機嫌な時は英語で答え、短いやり取りになることを葵は既に学んでいた。
先日も二人で身の回りを買いに行く予定がアポなし訪問者でおじゃん。同上の受け答えしかせず苦労したと麦野が嘆いていた。三十にもなった社長様がと呆れる葵だが『我儘』だと本人から聞いている手前なにも言えず考えあぐねると先ほどの話を思い出す。
「……ねえ、ノア。仕事帰りに新しい阿蘇大橋の展望所に行かない?」
「Why?」
「なぜって……」
山を下り終えると信号で停止する。同時に上体を捻らせた葵は後部席のノアと視線を合わせ、羞恥を堪えながら口を開いた。
「わ、私が一緒に行きたいから!」
声が震えていないか、怒られないか不安になる。だが、碧の瞳を丸くさせるノアに頬が熱くなった葵は前を向き直すと青信号にアクセルを踏んだ。
「この時期なら夕日も綺麗だろうし……今日は四件も入ってて無理かもしれないけど、社長様が寄り道していいって言ってくれるなら……っ!」
昼前の大通りに出たせいか渋滞に再び停止すると上体を起こしたノアの両手が首元に回り、シート越しに抱きしめられた。停まっているのに強くブレーキを踏んでしまう葵を他所に小声が届く。
「……行く。アオとなら、昼夜問わず今日でも許す」
シートに顔を埋めていて表情は窺えないが笑っているように聞こえた。安堵する一方、顎や唇を撫でる指先に葵の動悸が速くなる。
「あ、ありがとう……でも、危ないから手は退けンっ」
「だが……」
口を開いた瞬間、指を挿し込まれる。細いのに舌を撫でる力は強く、身体中が疼く葵に、ほくそ笑むノアがミラーに映った。
「寄り道は許すが、俺を『社長』と呼ぶのは許さない。わかったか、アオ?」
怒っているようにも甘く囁いているようにも聞こえるのは病気か。わからない感情よりも必死に頷きを返すと涎を引いた指先を抜かれ、前が動いたぞと指摘される。運転に集中したいのに気が散るのは口内に残る違和感か、はたもやミラー越しに涎が付いた指を舐める様を見せつける意地悪のせいか。
どれにしても大変危険な行為のため、運転手へのイタズラは決して行わないよう叱るのが先だった。
その甲斐あってか道を間違えても『愚か者』と、いつもの調子で話すノアの機嫌も戻り、無事一件目の出版社に到着。迎えた担当社員と入っていく背を見送った葵はひと息つくと社用携帯で麦野に報告した。
あくまで葵は運転手のため同行することはできない。今までは麦野が付き添っていたが旅館が軌道に乗ったことで支配人としての仕事も増え、外業務はノアひとりで行っている状態だ。
「秘書の資格、取っておけばよかったな……」
静まる車内に零す独り言。
趣味で外国語や事務関係の資格は持っていたが、秘書は勉強時間を要するため後回しにしていた。仇となったように無力さを感じる葵だが、頭を横に振ると次の仕事先を確認する。
取材は一時間ほどで終了し、息つく間もなく次の目的地へ向かう。最初は他愛ない話をしてくれたノアだったが、三件目が終了した頃には口数が減り、最後の会社に到着した時には瞼を閉じていた。夕暮れを背に後部席のドアを開けた葵は肩を叩く。
「ノア、着いたよ。大丈夫?」
「ん……ああ、ありがと……大丈夫だ」
上体を起こしたノアはシートベルトを外すと外に出るがふらついている。慌てて支える葵は心配そうに顔を覗かせた。
「顔色も悪いし、今日は断ろうか?」
「いや……資料の確認だけだから、三十分もかからない……展望所までの行き方でも調べておけ」
「今日はもう無理……って、ノア」
葵の頭を撫でたノアは『行ってくる』と、建物に向かって歩きだす。その手が熱かったのは気温のせいかわからないが運転席に戻った葵は麦野に報告した。到着したこと、ノアの顔色が悪いこと。だが、時間的にチェックインで忙しいのか既読もつかない。
ひとまず自分の携帯で地図アプリを起動し、展望所までの道のりを確認するが、会社建物と交互に見ているため進まない。一分一秒が長く、嫌な汗が流れるのは『ノア様が“あの日”のようになられたらすぐに連絡を』と口酸っぱく言われているからだ。
“あの日”とはノアとの出会いの日。蹲くまっていた少年が脳裏を過ぎった葵は咄嗟に車を降りると足早に建物へ向かった。同時に玄関の自動扉が開き、青褪めた顔のノアを目にした葵も真っ青になると、側にいた男性社員が気付く。
「お連れ様ですか? 神楽坂社長、具合が悪そうで……」
「あ、お世話かけました。えっと、仕事は……」
「問題ない……帰るぞ」
覚束ない足取りのノアに男性社員と見合った葵は一礼すると後を追う。腕を掴めば簡単に肩に寄り掛かり、なんとか後部席に座らせた。止まらない汗と呼吸の速さに動悸が治まらない葵は社用携帯を取り出すが制止される。
「……しなくていい」
「でも……」
「疲れただけだ……余計なことはするな、愚か者」
“あの日”と同じ台詞。大人になった今では状況が異なり、痩せ我慢しているのもわかるが、真剣な瞳に息をついた葵は携帯を仕舞うと運転席に戻りエンジンをかける。が、窓を少し開けるだけで切り、自販機でペットボトルの水を購入するとノアの隣に座った。
「休憩してから帰ろう。帯も緩めるよ」
蓋を開けたペットボトルを手渡すと彼の腰に腕を回し、着物の帯を緩める。男物とはいえ、マユ美に教わっていてよかったと安堵する頭上でくすりと笑う声がした。
「世話役が板についてきたな」
「おかげさまで。ほら、水分摂って」
「キスがいい」
顔を上げれば囁きが落ちる。日暮れに染まる黒髪が鮮やかな栗色にも見え、具合が悪いのが嘘のような微笑。熱くなる顔を逸らした葵は呟いた。
「み、水……飲んでくれたら」
「言うようになったな」
苦笑するノアはペットボトルに口を付けると喉に流し込む。半分ほど一気に飲むと、ひと息つきながら汗を拭った。吹き通る風がいっそう美しく魅せるが、催促する視線に唾を呑み込んだ葵は顔を寄せる。
「んっ……」
上体を浮かせば唇が重なった。
潤ったばかりの唇は冷たく滑り、啄むような口付けを数度する。静寂の車内にリップ音と吐息が増した。
「んっ……はあ、アオ……舌、出せ……」
「ノア、舌……んっ、好きだね」
「ああ……好きだ」
艶やかな『好き』に葵の身体が震えるのは舌ではなく自分と勘違いしたからだ。キスをし、舌を絡ませているが、これは“おまじない”。そう思わなければいけないのに口付けが深くなるばかりか、掴まれた手が彼の下腹部に乗せられた。
帯が緩められた着物の隙間から肌着を押し上げている硬いモノ。触ればピクピク脈動するソレが何かさすがの葵も理解しているのか慌てふためく。
「ノ、ノア……!?」
裏返った声で呼べばノアははにかむが、ゆっくりと傾いた身体が葵にもたれ掛かった。
「ノア!? ノアっ、大丈……」
顔面蒼白となった葵は狼狽するが、耳元から寝息が聞こえた。汗ばんだ黒髪を払うと眠っているのがわかる。
「よ、よかったー……」
全身の力が抜け、どっと疲れが押し寄せてくる。
祖母を見送ったばかりで心臓に悪いが、膝に寝かせると口と胸元に手を寄せた。呼吸が整っているのを確認すると再び安堵の息をつき、ハンカチで彼の汗を拭う。
「もう……ビックリ事件はいらないよ……愚か者が」
いつもの仕返しとばかりに綺麗な顔を突く。その頬にポツポツ落ちるのは涙。葬儀以来の雫を拭いながら顔を寄せると、小さな隙間が開いた唇に口付けた。
辛く、苦しくさせた責任と、良い夢が見れる願いを込めて──。
阿蘇の山も観光シーズンに入り、日増しに観光客やバスが連なるように高級旅館『蒼穹』も予約で埋まりつつあった。
「創業五年ですごいね」
「当然よ。また来ていただくためにアタシたちも頑張ってるんだから」
グレーのズボンスーツに編み込みした髪をひとつに結んだ葵はチェックアウトが過ぎたフロントで驚く。対して予約状況を表示したパソコンの前に座る耳下までの茶髪ウェーブ、空色の着物に白の前掛けをした女性従業員、唐沢 花枝は自信満々に胸を叩いた。
葵が『蒼穹』に就職して三週間。メインはノアの運転手だが、挨拶しないのも変だと麦野を介して従業員とも顔合わせを行った。驚きはされたが時期的に短期バイトも入る上、他県からの就職者も多くすんなりと受け入れられている。後者の花枝も葵の五歳下だが、明るい性格もあって一番のお喋り相手だ。
「あとはまあ、オーナーがイケメンだからよね。あーあ、オーナーとずっといられる葵ちゃんが羨ましい」
「ずっとだったら今ここにいないよ」
頬杖をつく花枝の視線に葵は苦笑するが、内心冷や汗をかいていた。というのも、ノアが『蒼穹』の創業者でありオーナー社長だったからだ。若くして起業したのも驚きだが、両親も別の会社を経営しているそうで、御曹司なのか社長なのか若旦那なのか訳がわからない。
「吹石さん、印刷できたよ」
「あ、ありがとう、森本くん」
混乱を払うように花枝と同じ装いに短髪の黒髪。葵と同齢の男性従業員、森本 大輔から今日の仕事先までの地図を受け取る。
震災後に訪れた時は叔母の運転だったため葵にとっては阿蘇も熊本も初見に等しく、最初の一週間はマユ美の買い物や麦野指導のもと運転三昧。最近やっとノアと二人で行かせてもらえるようになったが、はじめての場所は地図が必須。遅れないよう指で道を辿るが、所々にある通行止に止まる。顔を覗かせた森本は熊本出身なのもあり察したのか肩を竦めた。
「阿蘇大橋が新しくできてからは楽になったけどな」
「五年でできるんだからすごいわよね。葵ちゃんは展望所行った?」
「ううん。車では通ったんだけどね」
震災の影響で多くの道が寸断されただけでなく大動脈のひとつである大橋が陥落。五年後に新しい橋が完成し、展望所ができたのは葵も知っていたが降りたことはなく、寄り道しようか考える。ひとりではなく、二人で。
「アオ」
旅館名とは異なるイントネーションに振り向く。
鳶色の着物にグレーの羽織を揺らすノアの登場に、立ち上がった花枝と森本が一礼。同じく葵も頭を下げようとするが先に口を開かれた。
「宝輝社の次に一本入ったから早めに出るぞ」
「へ? じゃあ、今日四社? 場所は?」
「歩きながら話す。行くぞ」
「ちょ、ちょっと!」
ぶっきらぼうに言いながら踵を返したノアに慌てふためく葵は花枝と森本に頭を下げると地図を持って追い駆ける。『いってらっしゃいませ』と丁寧な御辞儀をした二人は足音が遠退くと互いをチラ見した。
「オーナー、名前で呼ぶことあるんだね」
「怖い顔は変わらないけどな。あれで年下かー」
「アタシには森本さんを睨んでるように見えたけど」
「え、やめて、コワイ。俺、恋人いるってちゃんと言おう」
花枝のジト目にエアコンとは違う寒さを覚えた森本は両腕を擦る。年下とはいえ雇用主。炎暑よりも列寒が訪れる可能性に二人は身震いした。
ノアと二人、社用車に乗り込んだ葵は山を下る。
高低差と急カーブが多くあり、最初の頃は『酔う』と文句を言われたが、慣れた今は曲がる方向やブレーキをかけるタイミングが掴め、会話もできるようになった。が。
「じゃあ、益城で一時間ぐらいね?」
「……Yes」
「夜は家で食べられそう?」
「……Yes」
「……茄子料理でもいい?」
「……No」
運転席の後ろに座るノアは景色を見ながら答えるが反応は薄い。否、バックミラーで見なくても声のトーンで不機嫌だとわかる。突拍子もないことや不機嫌な時は英語で答え、短いやり取りになることを葵は既に学んでいた。
先日も二人で身の回りを買いに行く予定がアポなし訪問者でおじゃん。同上の受け答えしかせず苦労したと麦野が嘆いていた。三十にもなった社長様がと呆れる葵だが『我儘』だと本人から聞いている手前なにも言えず考えあぐねると先ほどの話を思い出す。
「……ねえ、ノア。仕事帰りに新しい阿蘇大橋の展望所に行かない?」
「Why?」
「なぜって……」
山を下り終えると信号で停止する。同時に上体を捻らせた葵は後部席のノアと視線を合わせ、羞恥を堪えながら口を開いた。
「わ、私が一緒に行きたいから!」
声が震えていないか、怒られないか不安になる。だが、碧の瞳を丸くさせるノアに頬が熱くなった葵は前を向き直すと青信号にアクセルを踏んだ。
「この時期なら夕日も綺麗だろうし……今日は四件も入ってて無理かもしれないけど、社長様が寄り道していいって言ってくれるなら……っ!」
昼前の大通りに出たせいか渋滞に再び停止すると上体を起こしたノアの両手が首元に回り、シート越しに抱きしめられた。停まっているのに強くブレーキを踏んでしまう葵を他所に小声が届く。
「……行く。アオとなら、昼夜問わず今日でも許す」
シートに顔を埋めていて表情は窺えないが笑っているように聞こえた。安堵する一方、顎や唇を撫でる指先に葵の動悸が速くなる。
「あ、ありがとう……でも、危ないから手は退けンっ」
「だが……」
口を開いた瞬間、指を挿し込まれる。細いのに舌を撫でる力は強く、身体中が疼く葵に、ほくそ笑むノアがミラーに映った。
「寄り道は許すが、俺を『社長』と呼ぶのは許さない。わかったか、アオ?」
怒っているようにも甘く囁いているようにも聞こえるのは病気か。わからない感情よりも必死に頷きを返すと涎を引いた指先を抜かれ、前が動いたぞと指摘される。運転に集中したいのに気が散るのは口内に残る違和感か、はたもやミラー越しに涎が付いた指を舐める様を見せつける意地悪のせいか。
どれにしても大変危険な行為のため、運転手へのイタズラは決して行わないよう叱るのが先だった。
その甲斐あってか道を間違えても『愚か者』と、いつもの調子で話すノアの機嫌も戻り、無事一件目の出版社に到着。迎えた担当社員と入っていく背を見送った葵はひと息つくと社用携帯で麦野に報告した。
あくまで葵は運転手のため同行することはできない。今までは麦野が付き添っていたが旅館が軌道に乗ったことで支配人としての仕事も増え、外業務はノアひとりで行っている状態だ。
「秘書の資格、取っておけばよかったな……」
静まる車内に零す独り言。
趣味で外国語や事務関係の資格は持っていたが、秘書は勉強時間を要するため後回しにしていた。仇となったように無力さを感じる葵だが、頭を横に振ると次の仕事先を確認する。
取材は一時間ほどで終了し、息つく間もなく次の目的地へ向かう。最初は他愛ない話をしてくれたノアだったが、三件目が終了した頃には口数が減り、最後の会社に到着した時には瞼を閉じていた。夕暮れを背に後部席のドアを開けた葵は肩を叩く。
「ノア、着いたよ。大丈夫?」
「ん……ああ、ありがと……大丈夫だ」
上体を起こしたノアはシートベルトを外すと外に出るがふらついている。慌てて支える葵は心配そうに顔を覗かせた。
「顔色も悪いし、今日は断ろうか?」
「いや……資料の確認だけだから、三十分もかからない……展望所までの行き方でも調べておけ」
「今日はもう無理……って、ノア」
葵の頭を撫でたノアは『行ってくる』と、建物に向かって歩きだす。その手が熱かったのは気温のせいかわからないが運転席に戻った葵は麦野に報告した。到着したこと、ノアの顔色が悪いこと。だが、時間的にチェックインで忙しいのか既読もつかない。
ひとまず自分の携帯で地図アプリを起動し、展望所までの道のりを確認するが、会社建物と交互に見ているため進まない。一分一秒が長く、嫌な汗が流れるのは『ノア様が“あの日”のようになられたらすぐに連絡を』と口酸っぱく言われているからだ。
“あの日”とはノアとの出会いの日。蹲くまっていた少年が脳裏を過ぎった葵は咄嗟に車を降りると足早に建物へ向かった。同時に玄関の自動扉が開き、青褪めた顔のノアを目にした葵も真っ青になると、側にいた男性社員が気付く。
「お連れ様ですか? 神楽坂社長、具合が悪そうで……」
「あ、お世話かけました。えっと、仕事は……」
「問題ない……帰るぞ」
覚束ない足取りのノアに男性社員と見合った葵は一礼すると後を追う。腕を掴めば簡単に肩に寄り掛かり、なんとか後部席に座らせた。止まらない汗と呼吸の速さに動悸が治まらない葵は社用携帯を取り出すが制止される。
「……しなくていい」
「でも……」
「疲れただけだ……余計なことはするな、愚か者」
“あの日”と同じ台詞。大人になった今では状況が異なり、痩せ我慢しているのもわかるが、真剣な瞳に息をついた葵は携帯を仕舞うと運転席に戻りエンジンをかける。が、窓を少し開けるだけで切り、自販機でペットボトルの水を購入するとノアの隣に座った。
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「世話役が板についてきたな」
「おかげさまで。ほら、水分摂って」
「キスがいい」
顔を上げれば囁きが落ちる。日暮れに染まる黒髪が鮮やかな栗色にも見え、具合が悪いのが嘘のような微笑。熱くなる顔を逸らした葵は呟いた。
「み、水……飲んでくれたら」
「言うようになったな」
苦笑するノアはペットボトルに口を付けると喉に流し込む。半分ほど一気に飲むと、ひと息つきながら汗を拭った。吹き通る風がいっそう美しく魅せるが、催促する視線に唾を呑み込んだ葵は顔を寄せる。
「んっ……」
上体を浮かせば唇が重なった。
潤ったばかりの唇は冷たく滑り、啄むような口付けを数度する。静寂の車内にリップ音と吐息が増した。
「んっ……はあ、アオ……舌、出せ……」
「ノア、舌……んっ、好きだね」
「ああ……好きだ」
艶やかな『好き』に葵の身体が震えるのは舌ではなく自分と勘違いしたからだ。キスをし、舌を絡ませているが、これは“おまじない”。そう思わなければいけないのに口付けが深くなるばかりか、掴まれた手が彼の下腹部に乗せられた。
帯が緩められた着物の隙間から肌着を押し上げている硬いモノ。触ればピクピク脈動するソレが何かさすがの葵も理解しているのか慌てふためく。
「ノ、ノア……!?」
裏返った声で呼べばノアははにかむが、ゆっくりと傾いた身体が葵にもたれ掛かった。
「ノア!? ノアっ、大丈……」
顔面蒼白となった葵は狼狽するが、耳元から寝息が聞こえた。汗ばんだ黒髪を払うと眠っているのがわかる。
「よ、よかったー……」
全身の力が抜け、どっと疲れが押し寄せてくる。
祖母を見送ったばかりで心臓に悪いが、膝に寝かせると口と胸元に手を寄せた。呼吸が整っているのを確認すると再び安堵の息をつき、ハンカチで彼の汗を拭う。
「もう……ビックリ事件はいらないよ……愚か者が」
いつもの仕返しとばかりに綺麗な顔を突く。その頬にポツポツ落ちるのは涙。葬儀以来の雫を拭いながら顔を寄せると、小さな隙間が開いた唇に口付けた。
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