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第2話:過去からの着信音
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春臣の生活は、蒼司の屋敷に入って以来、極めて規則正しい。夜明け前に起き、日の出とともに工房で作業を始める。午前中は師の指示に従い、人形の素材となる布や粘土、稀に送られてくる珍しい骨董品の手入れをする。
蒼司は、春臣の才能を急速に開花させた。春臣が創り出す人形は、細く長い指先、どこか憂いを帯びた瞳、そして肌理(きめ)細やかな肌の質感で、見る者の魂を捕らえる。特に、最近は美術雑誌『ART JUNCTION』の「注目の若手作家」として特集が組まれたことで、彼の名は美術界で一躍知られることとなった。
「個展を開けば、確実に売れる」
「月代蒼司の指導のもと、若くして独自の境地に至った」
批評家たちの賛辞は、春臣の心にはあまり届いていない。彼が作品を作る動機は、師への敬愛と、孤独な己の魂を埋める自己充足的な情熱だけだった。
「春臣くんは、俗世間の評価に惑わされるな」
蒼司のその言葉が、彼を世間から守る繭となっていた。
しかし、その静謐な繭を破ろうとする俗悪な現実が、外部から侵入しようとしていた。
春臣は、屋敷の電話に着信があった際、一瞬、心臓が跳ねるのを感じた。発信元は、数年間、音信不通だった伯母、花房麗子からだった。
春臣が十七歳で両親を交通事故で亡くした後、彼を引き取ったのは、父の妹である麗子だった。麗子は表向き「可哀想な甥を引き取った優しい伯母」を演じていたが、その本質は強欲と打算に塗れていた。
麗子は当時、水商売を生業としており、独身だった。春臣の両親が遺した約三千万円の遺産と保険金は、「未成年の春臣の将来のために私が管理する」という名目で、ほぼ麗子の遊興費や見栄のための整形費用、そして男への貢ぎ物へと消えていった。
春臣が十八歳を過ぎ、肉体が成熟し、中性的な美しさが花開いた頃、麗子の春臣に対する態度は歪なものに変わっていった。
「春臣、あなた、本当にきれいになったわね」
麗子の瞳には、甥に対する愛情ではなく、性的対象としてのねっとりとした欲望が宿っていた。春臣はそれに気付き、恐怖と嫌悪で身が竦んだ。蒼司の人形展に出会い、弟子入りを許されたことは、麗子の支配と、その汚らわしい欲望から逃れる、唯一の機会だった。
春臣は電話を取った。
「もしもし」
春臣の声は、普段の繊細なトーンから一変し、硬く冷ややかだった。
『あら、春臣? 伯母さんよ。元気にしてた?』
麗子の甲高く、しかし若作りのために努力した不自然な声が、春臣の耳を刺激する。春臣は五年前の搾取の記憶、そしてあの粘りつくような視線を思い出し、反射的に距離を取った。
「何の御用でしょうか」
『何って、ひどいわね。あなたの個展のことで連絡したのよ!』
麗子の声には、既に「伯母の愛」など微塵もなく、「獲物を見つけた狩人の歓喜」が満ちていた。
『雑誌見たわよ。「注目の若手作家」なんですってね。すごいじゃない! 私が育てた甲斐があったわ』
春臣は、喉の奥で嗤った。あなたが育てたのは、金の亡者としての自分だろう、と。
「伯母さんには関係ありません。僕は蒼司様の元で、自分の作りたいものを作っているだけです」
『あら、なによそれ。綺麗事言っちゃって。いい? あなたはもっと稼げるのよ。マネージメントは伯母さんに任せなさい。商業ベースに乗せれば、年収一千万円は堅いわよ!』
具体的な金額を突きつけ、春臣の成功を金に換算する麗子の言葉は、春臣がこの屋敷で守ろうとしてきた「美の純粋性」を汚す、泥水のような響きを持っていた。
「必要ありません」
春臣は冷たく言い放つ。
『ちょっと! 何よ、その言い方は! あんたを育ててやったのは誰なの! 恩を忘れたの!』
麗子のヒステリックな絶叫が電話の向こうで爆発する寸前、春臣は躊躇なく通話を切った。
春臣は震える手でスマートフォンをテーブルに置いた。電話を切った後の静寂は、彼にとっての救済だったが、麗子が春臣を放っておくはずがないという確信が、彼を深く苛んだ。
ふと、顔を上げると、応接室の奥に続く、「入ってはならない」と厳しく命じられている工房の扉が、春臣の視界に入った。
蒼司は、その部屋の存在を決して口にしない。ただ、「そこは、私が一人で使う場所だ。決して開けるな」と、ただ一度だけ、鋭い眼差しで命じただけだ。
春臣の視線が、扉の向こうに囚われる。まるで、彼の内なる好奇心と、麗子から受けた汚濁を洗い流したいという絶望的な切望が、その扉の向こうの暗闇に、何か救いを求めているかのようだ。
その扉の向こうには、蒼司の最も深い秘密が、白い糸の繭となって眠っている。春臣はまだ知らない。彼が麗子という「血と金の鎖」から逃れようとするほど、その奥の扉は、彼を「禁忌の愛の鎖」へと引き込むように、微かに口を開き始めていることを。
蒼司は、春臣の才能を急速に開花させた。春臣が創り出す人形は、細く長い指先、どこか憂いを帯びた瞳、そして肌理(きめ)細やかな肌の質感で、見る者の魂を捕らえる。特に、最近は美術雑誌『ART JUNCTION』の「注目の若手作家」として特集が組まれたことで、彼の名は美術界で一躍知られることとなった。
「個展を開けば、確実に売れる」
「月代蒼司の指導のもと、若くして独自の境地に至った」
批評家たちの賛辞は、春臣の心にはあまり届いていない。彼が作品を作る動機は、師への敬愛と、孤独な己の魂を埋める自己充足的な情熱だけだった。
「春臣くんは、俗世間の評価に惑わされるな」
蒼司のその言葉が、彼を世間から守る繭となっていた。
しかし、その静謐な繭を破ろうとする俗悪な現実が、外部から侵入しようとしていた。
春臣は、屋敷の電話に着信があった際、一瞬、心臓が跳ねるのを感じた。発信元は、数年間、音信不通だった伯母、花房麗子からだった。
春臣が十七歳で両親を交通事故で亡くした後、彼を引き取ったのは、父の妹である麗子だった。麗子は表向き「可哀想な甥を引き取った優しい伯母」を演じていたが、その本質は強欲と打算に塗れていた。
麗子は当時、水商売を生業としており、独身だった。春臣の両親が遺した約三千万円の遺産と保険金は、「未成年の春臣の将来のために私が管理する」という名目で、ほぼ麗子の遊興費や見栄のための整形費用、そして男への貢ぎ物へと消えていった。
春臣が十八歳を過ぎ、肉体が成熟し、中性的な美しさが花開いた頃、麗子の春臣に対する態度は歪なものに変わっていった。
「春臣、あなた、本当にきれいになったわね」
麗子の瞳には、甥に対する愛情ではなく、性的対象としてのねっとりとした欲望が宿っていた。春臣はそれに気付き、恐怖と嫌悪で身が竦んだ。蒼司の人形展に出会い、弟子入りを許されたことは、麗子の支配と、その汚らわしい欲望から逃れる、唯一の機会だった。
春臣は電話を取った。
「もしもし」
春臣の声は、普段の繊細なトーンから一変し、硬く冷ややかだった。
『あら、春臣? 伯母さんよ。元気にしてた?』
麗子の甲高く、しかし若作りのために努力した不自然な声が、春臣の耳を刺激する。春臣は五年前の搾取の記憶、そしてあの粘りつくような視線を思い出し、反射的に距離を取った。
「何の御用でしょうか」
『何って、ひどいわね。あなたの個展のことで連絡したのよ!』
麗子の声には、既に「伯母の愛」など微塵もなく、「獲物を見つけた狩人の歓喜」が満ちていた。
『雑誌見たわよ。「注目の若手作家」なんですってね。すごいじゃない! 私が育てた甲斐があったわ』
春臣は、喉の奥で嗤った。あなたが育てたのは、金の亡者としての自分だろう、と。
「伯母さんには関係ありません。僕は蒼司様の元で、自分の作りたいものを作っているだけです」
『あら、なによそれ。綺麗事言っちゃって。いい? あなたはもっと稼げるのよ。マネージメントは伯母さんに任せなさい。商業ベースに乗せれば、年収一千万円は堅いわよ!』
具体的な金額を突きつけ、春臣の成功を金に換算する麗子の言葉は、春臣がこの屋敷で守ろうとしてきた「美の純粋性」を汚す、泥水のような響きを持っていた。
「必要ありません」
春臣は冷たく言い放つ。
『ちょっと! 何よ、その言い方は! あんたを育ててやったのは誰なの! 恩を忘れたの!』
麗子のヒステリックな絶叫が電話の向こうで爆発する寸前、春臣は躊躇なく通話を切った。
春臣は震える手でスマートフォンをテーブルに置いた。電話を切った後の静寂は、彼にとっての救済だったが、麗子が春臣を放っておくはずがないという確信が、彼を深く苛んだ。
ふと、顔を上げると、応接室の奥に続く、「入ってはならない」と厳しく命じられている工房の扉が、春臣の視界に入った。
蒼司は、その部屋の存在を決して口にしない。ただ、「そこは、私が一人で使う場所だ。決して開けるな」と、ただ一度だけ、鋭い眼差しで命じただけだ。
春臣の視線が、扉の向こうに囚われる。まるで、彼の内なる好奇心と、麗子から受けた汚濁を洗い流したいという絶望的な切望が、その扉の向こうの暗闇に、何か救いを求めているかのようだ。
その扉の向こうには、蒼司の最も深い秘密が、白い糸の繭となって眠っている。春臣はまだ知らない。彼が麗子という「血と金の鎖」から逃れようとするほど、その奥の扉は、彼を「禁忌の愛の鎖」へと引き込むように、微かに口を開き始めていることを。
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