壁のシミを育ててみたら 203号室の怪物

猫森満月

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第7話:壁の耳、闇の目

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「……ただいま」

 コンビニの夜勤明け。重い体を引きずってアパートに帰ると、部屋の中は異様な光景になっていた。

 ちゃぶ台の前で、黒い塊が正座をしている。
 僕の古着のパーカーを着て、下半身は座布団の下でドロドロに溶けて広がっているシミーだ。
 頭部には、あのピンク色のシュシュ。
 そして、その「手」には、手鏡が握られていた。

『オカエリ、パパ』

 シミーが鏡を置いて、僕の方を向く。
 裂けた口が、三日月型に歪む。
 鏡には、雑誌の切り抜きが貼り付けられていた。ファッション誌のモデルの顔だ。
 シミーは鏡の中のモデルと、自分の顔(のっぺらぼうに近い黒い球体)を見比べていたらしい。

「……何してるんだ?」

『レンシュウ』
 シミーが得意げに言った。
『可愛ク、ナルノ。ママ、ミタイニ』

「……そうか」

 僕は力なく答えて、コンビニの廃棄弁当をちゃぶ台に置いた。
 シミーは弁当には見向きもしない。
 最近はもう、人間の食べ物では満足しなくなっていた。肉じゃがを食べたあの夜以来、シミーは「真由美さんの作ったもの」か、あるいは「生きている温かい肉」しか欲しがらなくなった。

 深夜、僕が寝ている間に、シミーがこっそりと外へ抜け出して野良猫やネズミを捕食していることを、僕は薄々勘付いていた。
 朝起きると、玄関に泥がついているし、シミーの体から微かな血の臭いがするからだ。
 でも、僕は何も言わなかった。
 真由美さんを襲わない限りは、それでいいと目を瞑(つむ)っていた。

「……ねえ、須藤さん」

 翌日の夕方。
 ゴミ出しに行こうと廊下に出ると、201号室のドアが開いた。
 真由美さんだ。顔色が悪い。目の下にクマができている。

「あ、こんばんは。……どうしたんですか?」
「あの……変なこと聞くようですけど」

 彼女は周囲を警戒するようにキョロキョロと見回してから、声を潜めた。

「最近、このアパート……変な音、しませんか?」

 ドキリとした。
「お、音ですか?」

「はい。壁の中というか……天井裏というか」
 真由美さんが自身の二の腕をさする。
「ズルズルって、何かを引きずるような音がして。それに……時々、視線を感じるんです」

「視線?」

「部屋に一人でいるはずなのに、誰かに見られているような……。お風呂場とか、寝室とかで」
 彼女は震えていた。
「荒川さんがいなくなって安心したのに、今度はストーカーじゃないかって……怖くて」

「……気のせいじゃ、ないですかね? 建物も古いですし」
 僕は必死で笑顔を作った。冷や汗が背中を伝う。

「そうですか……。須藤さんが何も感じないなら、私の考えすぎかな」
 彼女は弱々しく笑った。
「ごめんなさい、変なこと言って」

「い、いえ! 何かあったらすぐ呼んでください! 飛んでいきますから!」
「ありがとうございます……」

 彼女が部屋に戻るのを見届けてから、僕は自分の部屋に駆け込んだ。
 鍵をかけ、靴も脱がずに叫んだ。

「シミー! 出てこい!」

 ちゃぶ台の下から、黒い触手がヌラリと伸びてきた。
『パパ、ドウシタノ?』

「お前だろ! 真由美さんの部屋を覗いてるな!?」

 僕はシミーの胸ぐら(パーカーの襟)を掴み上げた。
「バレてるぞ! 怖がってるじゃないか! 何をしたんだ!」

 シミーは悪びれる様子もなく、白い目をパチクリとさせた。

『ミテナイヨ』
『ボク、ヘヤニ、イタヨ』

「嘘をつくな! 天井裏を歩く音が聞こえるって言われたんだ!」

『チガウヨ』
 シミーの口が裂ける。
『天井ジャ、ナイヨ』

「え?」

 シミーが、黒い指先を伸ばして、ある一点を指差した。
 僕の部屋の、壁。
 隣の204号室——失踪した荒川の部屋と接している側の壁だ。

『カベ、ダヨ』

 シミーがパーカーを脱ぎ捨てた。
 黒い粘液状の体が、壁に向かって飛びかかる。
 バシュッ!
 シミーは壁に張り付くと、そのまま「染み込んで」いった。
 砂壁の粒子をすり抜け、向こう側へ。

「おい、待て!」

 僕は壁を叩いた。硬い感触。通り抜けられるわけがない。
 だが、シミーの気配は消えていた。

(まさか……)

 僕は玄関を飛び出し、隣の204号室へ走った。
 ドアノブを回す。鍵はかかっていない。(シミーが内側から開けたままなのだ)
 僕は空き部屋に踏み込んだ。

 荒川の部屋は、あの日以来、時間が止まっていた。
 散乱した競馬新聞。飲みかけのビールの缶。
 そして——壁。
 この部屋と、反対側の隣室……つまり角部屋である真由美さんの201号室と接している壁。

 そこに、巨大な「黒いシミ」が浮き出ていた。

「……シミー」

 シミの中央から、白い目玉がギョロリと覗いた。
『パパ、ココカラ、ヨク見エルヨ』

 シミーの声が、直接脳内に響く。
 このアパートの構造上、204号室と201号室の押し入れは背中合わせになっている。
 シミーは、僕の部屋から204号室へ移動し、そこからさらに壁を透過して、真由美さんの部屋の押し入れの隙間から、彼女を観察していたのだ。

『ママ、イイニオイ』
『キガエル、トコロ、見タヨ』
『ネテル、カオ、見タヨ』

 シミーの喜びの感情が、汚水のように流れ込んでくる。
 僕は吐き気を催した。
 自分の育てた怪物が、壁の中を自在に移動する「生きた隠しカメラ」になっている。
 そして、その映像を、まるで宝物のように僕に共有してこようとする。

『パパモ、見ル?』

「……ふざけるなッ!」

 僕は近くにあった荒川の遺品の灰皿を、壁に投げつけた。
 ガシャン!
 灰皿は壁に当たって砕け散ったが、シミはビクともしない。

「戻れ! 今すぐ僕の部屋に戻れ!」

『イヤダ』
 シミーが初めて、明確に拒絶した。
『ココガ、イイ。ママノ、ソバガ、イイ』

「言うことを聞け!」

『パパ、弱虫』
『ボクガ、ママヲ、守ッテアゲル』
『ダカラ、ボクガ、見テルノ』

 シミが、壁の奥へと沈んでいく。
 真由美さんの部屋の方へ。

「待て! やめろ!」

 壁を叩いても、もう反応はなかった。
 201号室からは、テレビの音と、真由美さんが誰かと電話で話す声が微かに聞こえてくる。
 彼女は気づいていない。
 すぐ背後の壁の中に、飢えた怪物が潜んでいることに。

 僕は204号室の真ん中で立ち尽くした。
 恐怖と、絶望。
 そして、どうしようもない嫉妬。

 シミーは、壁一枚隔てた向こう側で、彼女のすべてを見ている。
 僕には挨拶しか許されない彼女の、最も無防備な姿を独占している。

「……ずるいよ、シミー」

 僕は呟いた。
 怒りなのか、羨望なのか、自分でも分からなかった。
 ただ確かなのは、シミーの「学習」は、僕の想像を遥かに超えて、最悪の方向へ進んでいるということだった。

『ママ……ボクノ、モノ……』

 壁の向こうから、低い唸り声が聞こえた気がした。
 それは、子供の独占欲と、捕食者の食欲が混ざり合った、おぞましい愛の囁(ささや)きだった。
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