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第9話 壁の華
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暗い。でも、怖くはない。
そこは、羊水(ようすい)のように温かく、そして懐かしい匂いがした。
『パパ、オイシイ』
『パパ、アタタカイ』
脳内に、無邪気な声が響く。
僕の体は、もう輪郭を失っていた。
皮膚が溶け、肉が崩れ、骨が砕かれる。
普通なら発狂するほどの激痛のはずだ。でも、不思議と痛みは遠かった。
麻酔を打たれた時のように、感覚がぼんやりとして、ただ「混ざり合っていく」という事実だけが心地よく感じられる。
(ああ……そうか)
僕は、薄れゆく意識の中で理解した。
これが、シミーの言っていた「家族」なんだ。
食べる側と、食べられる側。
奪う側と、与える側。
その境界線が消滅して、完全な「個」になること。
『パパ、ズット、イッショ』
シミーの喜びが、僕の喜びになる。
シミーの満腹感が、僕の飢餓感を満たしていく。
孤独だった僕の人生に、初めて絶対的な「他者」が入り込んでくる。
(真由美さん……)
ふと、彼女の顔が浮かんだ。
怯えていた顔。軽蔑の眼差し。
「変態」と言われた声。
胸がチクリと痛む。
でも、それすらも黒い粘液に包まれて、甘い記憶へと変わっていく。
彼女は助かった。僕が逃がした。
それだけで十分だ。僕みたいな日陰者ができる、精一杯の愛の証明だ。
『ママハ?』
シミーが尋ねてくる。
(ママは……もういいんだよ、シミー)
僕は心の中で、優しく語りかけた。
(ママは、遠くへ行ったんだ。光の当たる、綺麗な場所へ)
(僕たちは、ここで暮らそう。この薄暗い、湿った壁の中で)
『ウン……ワカッタ』
『パパガ、イルナラ、イイヨ』
シミーが納得して、僕をさらに深く飲み込んでいく。
僕の意識は、黒いインクの一滴となって、巨大な海へと拡散していった。
「……おやすみ、シミー」
『オヤスミ、パパ』
最後に見たのは、天井の蛍光灯の光が、水面のように揺らめいて消える光景だった。
§
翌朝。
通報を受けた警察が「コーポ松風」の203号室に踏み込んだ時、部屋には誰もいなかった。
「……誰もいないぞ! 被害者は!?」
「須藤という住人も見当たりません!」
警官たちが土足で部屋を捜索する。
争った形跡はあった。ちゃぶ台がひっくり返り、雑誌が散乱し、畳には奇妙な黒い粘液のような跡が残っていた。
だが、その粘液はすでに乾燥し、ただの煤(すす)汚れのようになっていた。
「おい、これを見ろ」
一人の警官が、押し入れの奥にあったクーラーボックスを発見した。
厳重に巻かれたガムテープを切り、蓋を開ける。
そこから漂った腐臭に、警官たちは鼻をつまんだ。
中から発見されたのは、行方不明になっていた隣人・荒川の所持品と、人間のものと思われる数本の骨、そして金歯だった。
「……重要参考人だ。須藤健太を全国指名手配しろ!」
怒号が飛び交う。
鑑識が入り、部屋中を調べる。
しかし、須藤健太本人の痕跡は、着ていた衣服と財布、スマホを残して、煙のように消え失せていた。
まるで、部屋そのものに飲み込まれてしまったかのように。
§
それから、三ヶ月が過ぎた。
吉永真由美は、新しいマンションのベランダで、コーヒーを飲んでいた。
セキュリティ万全の、オートロック付きのマンション。
もう、あの古びた木造アパートの恐怖に怯えることはない。
「……須藤さん」
彼女は時折、あの夜のことを思い出す。
自分を突き飛ばし、「逃げろ」と叫んだ、気弱な隣人の姿を。
彼の部屋で見た、あの黒い怪物。
あれは何だったのか。彼が「育てた」とはどういう意味だったのか。
警察に話しても、錯乱しているとしか取られなかった。
「変な人だったけど……」
彼女はカップを両手で包み込んだ。
最後の瞬間、彼の顔は笑っていた気がする。
自分を犠牲にして、何かを守り切ったような、穏やかな笑顔で。
「……ありがとうございました」
彼女は、誰もいない空に向かって小さく呟いた。
風が吹き、彼女の前髪を揺らした。
どこかで、懐かしいような、少しカビ臭いような匂いがした気がした。
§
「こちらが203号室になります。南向きで日当たりもいいですよ」
不動産屋の明るい声が、空っぽになった部屋に響いた。
「コーポ松風」203号室。
「失踪事件」の噂も薄れ、クリーニングを済ませて再び募集に出されたのだ。
「へえ、結構広いっすね」
内見に来たのは、茶髪の若い男だった。
フリーター風の、少し軽薄そうな青年。
「家賃も安いし、コンビニも近いし。いいじゃないっすか」
男は部屋を見回し、壁をコンコンと叩いた。
「壁薄いって聞きましたけど、まあ俺、音楽とか聴くんで平気っす」
「あはは、そうですね。では、契約ということで……」
不動産屋が書類を取り出そうとした時、男がふと動きを止めた。
「ん? なんだこれ」
男は、部屋の奥の壁——以前、荒川の部屋と接していた側の壁に近づいた。
クリーニング業者が何度擦っても落ちなかった、頑固な汚れ。
「壁紙、張り替えてないんすか? ここ、すげえデカいシミがありますけど」
そこには、人の背丈ほどもある、巨大な黒いシミが浮き出ていた。
歪(いびつ)な形。
でも、よく見ると、二人の人間が抱き合っているようにも見えるし、あるいは一人の人間が誰かを肩車しているようにも見える。
「ああ、それは……湿気の関係で、どうしても浮き出てきちゃうみたいで……」
不動産屋が苦しい言い訳をする。
「ふーん。まあ、ポスターでも貼れば隠れるか」
男は気にせず、シミの目の前に立った。
「よろしくな、俺の部屋」
男がニカっと笑った。
その瞬間。
男の背後で、壁のシミが「動いた」気がした。
抱き合っていた二つの影が、一つに溶け合い、そして巨大な「口」の形に裂ける。
『……ヨロシク』
『オニイサン、オイシソウ……』
声なき声が、部屋の空気を振動させる。
男は気づかない。
不動産屋も気づかない。
ただ、壁の奥底で。
二つの意識が溶け合った「それ」は、新しい家族(エサ)の訪れを、心から歓迎していた。
壁のシミは、今日もそこで育ち続けている。
あなたの部屋の壁にも、ほら。
見覚えのないシミが、一つ増えてはいませんか?
そこは、羊水(ようすい)のように温かく、そして懐かしい匂いがした。
『パパ、オイシイ』
『パパ、アタタカイ』
脳内に、無邪気な声が響く。
僕の体は、もう輪郭を失っていた。
皮膚が溶け、肉が崩れ、骨が砕かれる。
普通なら発狂するほどの激痛のはずだ。でも、不思議と痛みは遠かった。
麻酔を打たれた時のように、感覚がぼんやりとして、ただ「混ざり合っていく」という事実だけが心地よく感じられる。
(ああ……そうか)
僕は、薄れゆく意識の中で理解した。
これが、シミーの言っていた「家族」なんだ。
食べる側と、食べられる側。
奪う側と、与える側。
その境界線が消滅して、完全な「個」になること。
『パパ、ズット、イッショ』
シミーの喜びが、僕の喜びになる。
シミーの満腹感が、僕の飢餓感を満たしていく。
孤独だった僕の人生に、初めて絶対的な「他者」が入り込んでくる。
(真由美さん……)
ふと、彼女の顔が浮かんだ。
怯えていた顔。軽蔑の眼差し。
「変態」と言われた声。
胸がチクリと痛む。
でも、それすらも黒い粘液に包まれて、甘い記憶へと変わっていく。
彼女は助かった。僕が逃がした。
それだけで十分だ。僕みたいな日陰者ができる、精一杯の愛の証明だ。
『ママハ?』
シミーが尋ねてくる。
(ママは……もういいんだよ、シミー)
僕は心の中で、優しく語りかけた。
(ママは、遠くへ行ったんだ。光の当たる、綺麗な場所へ)
(僕たちは、ここで暮らそう。この薄暗い、湿った壁の中で)
『ウン……ワカッタ』
『パパガ、イルナラ、イイヨ』
シミーが納得して、僕をさらに深く飲み込んでいく。
僕の意識は、黒いインクの一滴となって、巨大な海へと拡散していった。
「……おやすみ、シミー」
『オヤスミ、パパ』
最後に見たのは、天井の蛍光灯の光が、水面のように揺らめいて消える光景だった。
§
翌朝。
通報を受けた警察が「コーポ松風」の203号室に踏み込んだ時、部屋には誰もいなかった。
「……誰もいないぞ! 被害者は!?」
「須藤という住人も見当たりません!」
警官たちが土足で部屋を捜索する。
争った形跡はあった。ちゃぶ台がひっくり返り、雑誌が散乱し、畳には奇妙な黒い粘液のような跡が残っていた。
だが、その粘液はすでに乾燥し、ただの煤(すす)汚れのようになっていた。
「おい、これを見ろ」
一人の警官が、押し入れの奥にあったクーラーボックスを発見した。
厳重に巻かれたガムテープを切り、蓋を開ける。
そこから漂った腐臭に、警官たちは鼻をつまんだ。
中から発見されたのは、行方不明になっていた隣人・荒川の所持品と、人間のものと思われる数本の骨、そして金歯だった。
「……重要参考人だ。須藤健太を全国指名手配しろ!」
怒号が飛び交う。
鑑識が入り、部屋中を調べる。
しかし、須藤健太本人の痕跡は、着ていた衣服と財布、スマホを残して、煙のように消え失せていた。
まるで、部屋そのものに飲み込まれてしまったかのように。
§
それから、三ヶ月が過ぎた。
吉永真由美は、新しいマンションのベランダで、コーヒーを飲んでいた。
セキュリティ万全の、オートロック付きのマンション。
もう、あの古びた木造アパートの恐怖に怯えることはない。
「……須藤さん」
彼女は時折、あの夜のことを思い出す。
自分を突き飛ばし、「逃げろ」と叫んだ、気弱な隣人の姿を。
彼の部屋で見た、あの黒い怪物。
あれは何だったのか。彼が「育てた」とはどういう意味だったのか。
警察に話しても、錯乱しているとしか取られなかった。
「変な人だったけど……」
彼女はカップを両手で包み込んだ。
最後の瞬間、彼の顔は笑っていた気がする。
自分を犠牲にして、何かを守り切ったような、穏やかな笑顔で。
「……ありがとうございました」
彼女は、誰もいない空に向かって小さく呟いた。
風が吹き、彼女の前髪を揺らした。
どこかで、懐かしいような、少しカビ臭いような匂いがした気がした。
§
「こちらが203号室になります。南向きで日当たりもいいですよ」
不動産屋の明るい声が、空っぽになった部屋に響いた。
「コーポ松風」203号室。
「失踪事件」の噂も薄れ、クリーニングを済ませて再び募集に出されたのだ。
「へえ、結構広いっすね」
内見に来たのは、茶髪の若い男だった。
フリーター風の、少し軽薄そうな青年。
「家賃も安いし、コンビニも近いし。いいじゃないっすか」
男は部屋を見回し、壁をコンコンと叩いた。
「壁薄いって聞きましたけど、まあ俺、音楽とか聴くんで平気っす」
「あはは、そうですね。では、契約ということで……」
不動産屋が書類を取り出そうとした時、男がふと動きを止めた。
「ん? なんだこれ」
男は、部屋の奥の壁——以前、荒川の部屋と接していた側の壁に近づいた。
クリーニング業者が何度擦っても落ちなかった、頑固な汚れ。
「壁紙、張り替えてないんすか? ここ、すげえデカいシミがありますけど」
そこには、人の背丈ほどもある、巨大な黒いシミが浮き出ていた。
歪(いびつ)な形。
でも、よく見ると、二人の人間が抱き合っているようにも見えるし、あるいは一人の人間が誰かを肩車しているようにも見える。
「ああ、それは……湿気の関係で、どうしても浮き出てきちゃうみたいで……」
不動産屋が苦しい言い訳をする。
「ふーん。まあ、ポスターでも貼れば隠れるか」
男は気にせず、シミの目の前に立った。
「よろしくな、俺の部屋」
男がニカっと笑った。
その瞬間。
男の背後で、壁のシミが「動いた」気がした。
抱き合っていた二つの影が、一つに溶け合い、そして巨大な「口」の形に裂ける。
『……ヨロシク』
『オニイサン、オイシソウ……』
声なき声が、部屋の空気を振動させる。
男は気づかない。
不動産屋も気づかない。
ただ、壁の奥底で。
二つの意識が溶け合った「それ」は、新しい家族(エサ)の訪れを、心から歓迎していた。
壁のシミは、今日もそこで育ち続けている。
あなたの部屋の壁にも、ほら。
見覚えのないシミが、一つ増えてはいませんか?
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