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七
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数日後、文部省から仕事の話が舞いこんだ。東京女子師範学校の教師が辞めるので、あとを引き受けないかと言われ、捨松は喜んだ。対象科目の生物と生理学は、捨松の得意とするところだ。給料もよかった。もし、引き受けたなら、国いちばんの高給取りの女性になっただろう。
──捨松は、引き受けなかった。
正確には、引き受けられなかった。二週間以内に着任せよと言われたためだ。
日本語の会話こそできるようになってきていたが、読み書きはとうてい追いついていなかった。師範学校で教科書を読みあげ、板書をし、生徒たちの手書きの文字を読むなど、不可能に近かったのだ。
紳士に指摘されたとおりだった。知識があり、意欲があっても、それを発揮するためには障害がある。そのことに、捨松はあらためて気がついていた。
多くのひとびとは、学士である自分の言うことを理解できない。彼らには、アメリカの大学で教わるような知識の土台がないからだ。そんなふうに思いこんでいた。奢りだった。それも、とても鼻持ちならない考えだった。
もし、みなが自分と同じアメリカの知識をもっていれば、すぐにも国が変わる。きっと、日本もアメリカのようになれる。そうなれば、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国に侮られる国ではなくなる。それはきっと事実だ。だが、捨松の目の前の現状に足りないのは、学校という環境や設備ではなかった。
官費留学生であったという経歴を『ひとびとの上に立つべきエリートの持つものだ』と思いあがり、ろくに日本語を学ぼうともしなかった。自分の目には、見えていなかったのだ。変えたいと願っていた日本という国のひとびとが、かけらも。対等に話すべき相手だと、認識できていなかった。
神田から結婚の申し込みが来たのは、繁子の披露宴から一週間ほどしてからだった。
はじめての仕事を断らざるを得ず、家族共々消沈していた捨松のもとに、その知らせはやってきた。
「東京帝国大学の教授とは、またとない良縁でねえか。年が三つしか違わねえのに、にしゃを娶ってくださろうなんて」
母は喜んで、姉たちと抱き合わんばかりだった。母の前では平静でいたが、捨松もまた、すっかりと舞い上がっていた。
繁子と瓜生氏のような恋愛結婚に、こころの奥底では憧れがあった。それだけに、求婚してきた相手が神田であることが、途方もなくうれしかった。
「なじょなかたなんだべ?」
「やさしくて、美男子で、とても賢いかたです」
日本語では当たり障りのないことばしか出てこず、もどかしい気持ちになりながらも、捨松はつい先日、目にしたばかりの繁子たちの披露宴を思い起こしていた。
上背があり、眉目秀麗な神田ならば、紋付き袴でも、燕尾服でも、どちらでも似合う。捨松も着物の優雅さには惚れ込んでいたし、ドレスでの身のこなしはすっかり板についている。どちらでも構わないと夢想した。
その夢想を、ぷつん、と、途切れさせたのは、母の不用意なひとことだった。
「薩摩のお偉いかたとの縁談など、断ってしまって正解だ」
薩摩と聞いて、まるで汚いものでも見たかのように姉が眉をひそめる。
「めでたい話さしているときになんだべ」
「浩の上役から、後妻にと話さいただいていたんだ」
「後妻って……」
「三人も娘がいるとか」
母と姉の小声のやりとりに、捨松はふりかえった。長兄、浩は陸軍少将だ。浩のさらに上役ということは、陸軍の高官である。
捨松の脳裏には、披露宴で再会した紳士の姿がはっきりと思いだされていた。
「そのかた、なんておっしゃるの?」
「大山、大山巌様」
捨松は、はじめて耳にしたその名に、『名は体をあらわす』とはこのことかと思った。つい、ゆるんだ口元を手で覆いかくし、姉と母の会話の行く末に耳を傾ける。
ふたりにかかれば、大山に三姉妹があることも、後妻になることも、薩摩出身者であることも、兄の上官であることも何もかもが論外のようだった。いまのところ、神田からの求婚に勝る縁談はないということらしい。
捨松にとっても、これは願ってもない話なのだった。恋い慕う神田の妻になれることもさることながら、既婚者となれば、いまのように軽くあしらわれることなどなくなり、きちんと一人前として扱われるのではないかという淡い期待が胸にはあった。
返事は長兄に相談してからと口では言うものの、捨松のこころも、母や姉のこころも、すでに決まりかけていた。
いつもならば、こうしたとき、訪ねるのは繁子の家だった。だが、なぜだろうか。神田から求婚されて以降、捨松は積極的に瓜生家へ行こうとは思わなくなった。
呼ばれればむかうし、たとえ会合の席に神田がいても、お互いにするのは目配せだけで、周囲が恥ずかしくなるようなやりとりはない。
瓜生氏と神田は親友のためか、繁子は打ち明ける前から、神田が捨松に求婚したことを知っていた。彼女は大いに賛成し、いくらかの賛辞を母に吹き込んだらしく、母までもが会ったこともない神田をべた褒めし、捨松に結婚をうながすようになった。
神田夫人になることを、いつしか、捨松は疑いもしなくなっていた。求婚されて、ほんの二週間ほどで、具体的なことは何ひとつとして決まっていないのに、である。
──そう。この結婚話は、何も進んではいなかった。捨松は一方でとても乗り気であったにも関わらず、もう一方で、どこか不安を抱えていたのである。
──捨松は、引き受けなかった。
正確には、引き受けられなかった。二週間以内に着任せよと言われたためだ。
日本語の会話こそできるようになってきていたが、読み書きはとうてい追いついていなかった。師範学校で教科書を読みあげ、板書をし、生徒たちの手書きの文字を読むなど、不可能に近かったのだ。
紳士に指摘されたとおりだった。知識があり、意欲があっても、それを発揮するためには障害がある。そのことに、捨松はあらためて気がついていた。
多くのひとびとは、学士である自分の言うことを理解できない。彼らには、アメリカの大学で教わるような知識の土台がないからだ。そんなふうに思いこんでいた。奢りだった。それも、とても鼻持ちならない考えだった。
もし、みなが自分と同じアメリカの知識をもっていれば、すぐにも国が変わる。きっと、日本もアメリカのようになれる。そうなれば、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国に侮られる国ではなくなる。それはきっと事実だ。だが、捨松の目の前の現状に足りないのは、学校という環境や設備ではなかった。
官費留学生であったという経歴を『ひとびとの上に立つべきエリートの持つものだ』と思いあがり、ろくに日本語を学ぼうともしなかった。自分の目には、見えていなかったのだ。変えたいと願っていた日本という国のひとびとが、かけらも。対等に話すべき相手だと、認識できていなかった。
神田から結婚の申し込みが来たのは、繁子の披露宴から一週間ほどしてからだった。
はじめての仕事を断らざるを得ず、家族共々消沈していた捨松のもとに、その知らせはやってきた。
「東京帝国大学の教授とは、またとない良縁でねえか。年が三つしか違わねえのに、にしゃを娶ってくださろうなんて」
母は喜んで、姉たちと抱き合わんばかりだった。母の前では平静でいたが、捨松もまた、すっかりと舞い上がっていた。
繁子と瓜生氏のような恋愛結婚に、こころの奥底では憧れがあった。それだけに、求婚してきた相手が神田であることが、途方もなくうれしかった。
「なじょなかたなんだべ?」
「やさしくて、美男子で、とても賢いかたです」
日本語では当たり障りのないことばしか出てこず、もどかしい気持ちになりながらも、捨松はつい先日、目にしたばかりの繁子たちの披露宴を思い起こしていた。
上背があり、眉目秀麗な神田ならば、紋付き袴でも、燕尾服でも、どちらでも似合う。捨松も着物の優雅さには惚れ込んでいたし、ドレスでの身のこなしはすっかり板についている。どちらでも構わないと夢想した。
その夢想を、ぷつん、と、途切れさせたのは、母の不用意なひとことだった。
「薩摩のお偉いかたとの縁談など、断ってしまって正解だ」
薩摩と聞いて、まるで汚いものでも見たかのように姉が眉をひそめる。
「めでたい話さしているときになんだべ」
「浩の上役から、後妻にと話さいただいていたんだ」
「後妻って……」
「三人も娘がいるとか」
母と姉の小声のやりとりに、捨松はふりかえった。長兄、浩は陸軍少将だ。浩のさらに上役ということは、陸軍の高官である。
捨松の脳裏には、披露宴で再会した紳士の姿がはっきりと思いだされていた。
「そのかた、なんておっしゃるの?」
「大山、大山巌様」
捨松は、はじめて耳にしたその名に、『名は体をあらわす』とはこのことかと思った。つい、ゆるんだ口元を手で覆いかくし、姉と母の会話の行く末に耳を傾ける。
ふたりにかかれば、大山に三姉妹があることも、後妻になることも、薩摩出身者であることも、兄の上官であることも何もかもが論外のようだった。いまのところ、神田からの求婚に勝る縁談はないということらしい。
捨松にとっても、これは願ってもない話なのだった。恋い慕う神田の妻になれることもさることながら、既婚者となれば、いまのように軽くあしらわれることなどなくなり、きちんと一人前として扱われるのではないかという淡い期待が胸にはあった。
返事は長兄に相談してからと口では言うものの、捨松のこころも、母や姉のこころも、すでに決まりかけていた。
いつもならば、こうしたとき、訪ねるのは繁子の家だった。だが、なぜだろうか。神田から求婚されて以降、捨松は積極的に瓜生家へ行こうとは思わなくなった。
呼ばれればむかうし、たとえ会合の席に神田がいても、お互いにするのは目配せだけで、周囲が恥ずかしくなるようなやりとりはない。
瓜生氏と神田は親友のためか、繁子は打ち明ける前から、神田が捨松に求婚したことを知っていた。彼女は大いに賛成し、いくらかの賛辞を母に吹き込んだらしく、母までもが会ったこともない神田をべた褒めし、捨松に結婚をうながすようになった。
神田夫人になることを、いつしか、捨松は疑いもしなくなっていた。求婚されて、ほんの二週間ほどで、具体的なことは何ひとつとして決まっていないのに、である。
──そう。この結婚話は、何も進んではいなかった。捨松は一方でとても乗り気であったにも関わらず、もう一方で、どこか不安を抱えていたのである。
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