捨松──鹿鳴館に至る道──

渡波みずき

文字の大きさ
8 / 15

しおりを挟む
 とてもすてきな縁談のはずなのに、なぜか不安で、けれども何が不安なのかわからない。
 そのようなことを告白できる相手は、アメリカにいる親友アリスか、もしくはもうひとりの友、梅子しかいない。しかしながら、広く深い太平洋を隔てたアメリカの地は果てしなく遠く、アリスにむけた手紙の返事は、今日明日に届くものではないのだった。
「……それで、うちに来たの?」
 梅子は年上の友人を立って出迎えることもせず、椅子にもたれ、肘をつき、足を組んだ。そうして、目を細める。
「ひとつ、確認していいかな。相手は神田乃武で間違いない?」
 個人名は告げずにおいたが、いつもそばにいた梅子には無意味なことだった。あっさりと看破され、かえって捨松は恥ずかしくなった。
 確認を終えると、梅子は生意気なまでの態度で小首をかしげた。
「スティマツは、きれいな男のひとと、おままごとがしたいの?」
「ままごとなんかじゃないわ」
「へえ?」
 人差し指を一本ふりかざし、梅子は小馬鹿にした調子で、くちびるの片端をあげた。
「神田様と住むのはどんな家?」
「洋館よ。二階建ての木造で、外壁は白く塗られているの」
 理想を口にしてはみたものの、実際は平屋の日本家屋だろうと思った。
「神田様は大学で英語の先生。じゃあ、スティマツはどんな仕事をするの?」
「──女学校の講師、かしら」
 日本語の読み書きさえできるようになれば、先だって文部省から連絡のあったような教師の口は、すぐにも見つかるはずだ。考える間にも、梅子の追及の手はやまない。
「毎日?」
「いいえ、週に何度か。空いた時間には自宅に希望者を呼んでお教えするわ」
「ふぅん、すてきね。きっと、才気溢れる若いかたがたくさん集まるよ。まるでサロンだね、──シゲの家みたい」
 冷ややかで平板な声音だった。梅子は捨松の思い描く結婚生活を鼻で笑い、こちらをギッとねめつけた。
「シゲがうらやましいのはよくわかったよ。でもね、スティマツ。たかが週二、三度教えるだけの講師に何ができるの。理解ある夫がいて、ちょっと女学生に教えていたら、それでわたしたち、満足できるのかな? 週に何度かあなたに習うだけの女学生が、この国を変えてくれるの?」
 そこまで一息に言って、興奮しすぎたことに気づいたらしく、梅子は深く息を吐き、目を伏せ、それから、落ち着いた声に戻った。
「わたし、ずっと考えてた。そりゃ、ステレオタイプな女の幸せをつかむなら、ぜひともシゲを真似するべきだよ。だけど、考えてもみて。わたしやスティマツの一挙手一投足が、未来の日本女性の生きかたを左右するのよ。賢いあなたなら、わかるよね?」
 梅子のことばがそこで仕舞いでないことも、捨松にはよくわかっていた。みなまでは指摘しない梅子に、うなずきを返す。
『あなたなら、わかるよね? 神田様の手を取るべきではないことくらい』
 梅子の声は、まるでほんとうに発されたかのように、胸に響いてきていた。

 その夜、捨松は寝付けずに、寝間着の胸で指を組み、ひたすらに祈っていた。ロザリオを繰りながら祈りのことばをささやくと、こころは自然に凪いで、静まる。同じクリスチャンの神田といっしょになれば、ともにこうした穏やかなひとときを持つこともあったかもしれない。
 あの紳士──大山にやりこめられ、いままた梅子に手ひどく叱られて、捨松には、自分の歩むべき道を見出していた。そして、その道は、伴侶を得た先にある。繁子の真似でも、梅子の言いなりでもない、自分だけの第三の道。日本人と同じことばを話し、同じ境遇にいながらにして、日本を変えることのできる道。
 捨松のあげる声に耳を傾けてもらうためには、このまま独り身でいてはいけない。けれど、相手が神田ではダメなのだ。留学生同士、年の近い同士の結婚に浮かれて、ぬるま湯につかるように、心地よさに身を沈めて、何もかも忘れ去ってしまえたらよかったのに。
 ついさきほど、捨松は神田にあてた手紙を書き終えていた。求婚を断るためのものだ。神田にはきっと、もっとふさわしい縁談があるだろう。捨松は、神田の手は取れない。
 梅子に言われたからではない。彼と過ごすぬるま湯の心地よさのなかでは、捨松は傲り高ぶった考えしか持てなかった。梅子に高尚な理想を語られて、それに憧れる一方で、捨松はそのような自分でありたくなかった。アメリカにいたときの捨松はもっと純粋に、日本にはない素晴らしいことを多くのひとに知って欲しいと、ただそう考えていた。そのための学校設立を夢見ていたはずなのに。
 祈りを唱えるうちに、無心になっていた。捨松はこの、神がかるような、こころが澄みきる感覚を懐かしく思った。
 子どものころ、よく覚えた感じだった。遊びに熱中して、疲れて足が立たなくなるまではしゃぎまわって、草原へ倒れこむと、会津の空が青々と晴れ渡り、自分たちを迎えてくれる。空に飲みこまれるようにして、ぼうっと時を過ごし、しばらくして、また遊ぶ。
 留学してすぐのころは、とにかく会津が恋しかった。母や兄姉が住むのは、もう会津の地ではないのを知っていたけれど、それでも、捨松が見たいのは会津の空だった。
 だが、思いだす空には、いつも凧が舞う。
 徳川家に忠誠をつくした会津藩は賊軍となり、帝を擁した薩摩藩や長州藩は官軍となった。八つだった捨松は家族とともに鶴ヶ城に籠もり、大砲の弾が降るときは、焼き玉押さえに追われていた。飛びこんできた弾に濡れた布団を被せて鎮火する危険な役目だ。実際、兄嫁は焼き玉押さえに失敗して死んだ。捨松も他の砲弾のかけらで、首にけがを負った。
 籠城の前に自刃した親戚もあった。捨松自身も、自害のしかたを母に習った。膝を組んでしばり、水を飲んでから刀を引く。いざというときに、できる自信は無かった。
 籠城が続くと食料も武器も乏しくなる。その生活のなか、城壁の外の敵に会津の意地を思い知らせるため、用いられたのが凧だった。
 大人の言いつけで、子どもはみんな競い合って凧を揚げ、ひさしぶりに大笑いした。城壁のなかはまだ、凧揚げに興じるほどの余裕があるぞと、敵軍に見せつけたのだ。
 捨松にとって、凧は、敵に容易には屈さぬ会津魂の象徴だった。
 明治の世にあって、表面上、出自は問われず、みながみな日本人だと言われるが、ならばなぜ、男子留学生と女子留学生に待遇の差異があるのか。なぜ、女性は結婚せねば半人前なのか。なぜ、相手が薩摩者だから長州の出だからと、憎しみを持ち続けねばならないのか。
 ロザリオを繰る手が止まる。指に触れたメダイを手に握り込み、捨松はくちびるを引き結んだ。
 ──凧を揚げるのだ。敵軍に包囲された城のなかにあっても、悠然と微笑みながら、高々と凧を揚げる。自らの信じるところを行うとき、矜恃はだれにも脅かせない。
 翌朝、朝餉を済ませてすぐに捨松は兄と母とに、神田へ断りの手紙を出すと伝えた。母は大いに悲しみ、良縁を惜しんだが、捨松の決意は変わらなかった。
 それから程なくして、大山巌陸軍卿から、二度目の結婚の申し入れがあった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

小日本帝国

ypaaaaaaa
歴史・時代
日露戦争で判定勝ちを得た日本は韓国などを併合することなく独立させ経済的な植民地とした。これは直接的な併合を主張した大日本主義の対局であるから小日本主義と呼称された。 大日本帝国ならぬ小日本帝国はこうして経済を盤石としてさらなる高みを目指していく… 戦線拡大が甚だしいですが、何卒!

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

とある男の包〇治療体験記

moz34
エッセイ・ノンフィクション
手術の体験記

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...