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十一
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「ところで、農商務卿の別荘はあとどのくらい遠いのでしょうか」
「半分は来たのでは。だいたい、二里ほど離れているのではないかな」
大山は飛躍した話題にやすやすとついてはきたものの、とっさには仏語に直らず「リ」と発音して、おやと首をかしげた。
「約八キロメートルと言って伝わりますか」
「メートル法は知識としてしか。一キロメートルが〇.六二一マイルですから、ええと」
人力車が揺れるなかでの暗算は難しい。大山とふたり、しばらく黙りこくって、先に声をあげたのは、捨松のほうだった。
「四.九六八マイル!」
「負けた! では、従道の別邸までは約五マイルということで」
「ええ、そういたしましょう」
楽しく会話を転がしていくうちに、話は従兄弟の西郷隆盛、従道兄弟に及んだ。
「彼らとは父同士が兄弟で、子どものころからよく遊んでいました。隆盛というと、実はぴんと来ないのです。彼のことはずっと、吉之介兄さぁと呼んできました。兄さぁも弥助弥助とかわいがってくださったものです。従道はひとつ下でしたが、兄さぁは十四も年上です。前妻の沢子の父も、兄さぁと同年の親友でした」
みなで楽しく過ごしていたはずが、自分の留学中にいつのまにか歯車が狂っていたのだと、大山は回顧した。
「征韓論を譲らない兄さぁを説得するために、志半ばでジュネーブから呼び戻され、鹿児島へむかいましたが、兄さぁの決心は揺らぎませんでした」
大山は、隆盛征討のための司令官のひとりとして、熊本に赴き、戦いのなかで、兄と慕った隆盛に大砲をむけた。
「そんなことのために留学したのではないと思いました。もとはといえば、国力増強を目標に、大砲や他の兵器の技術革新に備えるための渡欧でしたが、それが『人を殺す技術』を磨くためのものであったと、あれほど身にしみたことはありませんでした」
大山の言うのは、西南の役だ。留学中に起きたことゆえ、捨松には詳細な知識はない。けれども、その功績により、浩は名を挙げたのだと伝え聞いている。
捨松はことばを選んだ。どう言っても、傷つけるだけかもしれない。けれども、隣にいつか立つ日が来るならば、知っておきたいと思った。
「では、会津に攻め入ったときは、何もお感じにならなかったのですね」
問いかけに、大山は一度、口を閉ざして考えにふけった。
景色はゆったりと流れていく。時間は刻々と過ぎる。従道別邸への約五マイルはもう残りわずかだ。昼食前に聞けぬなら、帰り道でも構わない。そう、切り出そうとしたときだった。大山はひたと捨松を見て、ことばを紡ぎだした。
「いま考えれば恐ろしいことですが、戊辰のときは何も思いませんでした。相手は逆賊だと、ことばの通じぬ相手だと」
「……ことばの通じぬ逆賊だから、征伐しなければならないと、お思いでしたのね?」
「はい」
大山は短く答えると、青ざめて口元を手でぬぐった。
「はじめて気がつきました。お話していませんでしたが、実は、会津若松城を攻めたとき、薩摩軍にて砲兵隊長をつとめておりました」
「存じております」
捨松の返答に、大山の握りこぶしは、膝のうえで震えていた。捨松は迷ったが、安心させるように、そっと彼の手の甲をうえから押さえた。大山は、捨松を見る十八も年かさの男は、救いを求めるようにこちらを見つめた。乾きはじめたくちびるからこぼれたのは、慇懃な仏語ではなく、薩摩のことばだった。
「会津攻めの当日に被弾し、前線を退きもした。そいから落城の日まで、傷の回復につとめていて、二度と会津に戻うこたあなかったのでござんで。じゃって、薩軍にあっても、おいは立場が違うと、勘違いしておりもした」
先日と異なったのは、捨松が前よりも日本語の聞き取りに慣れていたことだった。捨松には、その日の大山のことばがなんとなくわかった。けれど、そこまでだった。完全に理解することはかなわなかった。
悔しい思いになりながら、捨松は仏語を舌に乗せた。
「構いませんわ。それが大山様の御役目でございましたのでしょう? 責めたてるつもりも、謝罪を要求するつもりもございませんの。あの日、あなたが何を思い、どこにいたのか。それを知りたかったまでですのよ」
捨松は手を離した。
「私は、あの八月二十三日、城のなかにおりました。母と姉と下女とを連れて、城に逃げ、そのまま落城までを過ごしました。砲弾の火薬を作る手伝いもいたしましたし、焼き玉押さえだっていたしました。私たちも、外にいる敵軍が同じ人間だなんて、まして同じ国の人間だなんて思ってはおりませんでした」
人力車の進む先に、豪壮な屋敷が見えてきていた。そちらへ目を遣り、うっすらと微笑みながら、捨松はつぶやくように言った。
「でも、だれもがみな、日本人だったのだわ。私は近ごろ、日本という国の現状がどういったものなのかを知るためにアメリカへ留学したような気さえするのです」
車が門を抜け、敷地へ入る。完全にとまってしまう前に、捨松は車夫にも聞こえぬ声で、大山へささやいた。
「この国を変える気があるかたになら、私はどこへでもついていく気でおりますのよ。ぜひ、それを見極めさせてくださいませ」
冗談めかして言って、捨松は車を降りるため、大山に手をさしだした。
「半分は来たのでは。だいたい、二里ほど離れているのではないかな」
大山は飛躍した話題にやすやすとついてはきたものの、とっさには仏語に直らず「リ」と発音して、おやと首をかしげた。
「約八キロメートルと言って伝わりますか」
「メートル法は知識としてしか。一キロメートルが〇.六二一マイルですから、ええと」
人力車が揺れるなかでの暗算は難しい。大山とふたり、しばらく黙りこくって、先に声をあげたのは、捨松のほうだった。
「四.九六八マイル!」
「負けた! では、従道の別邸までは約五マイルということで」
「ええ、そういたしましょう」
楽しく会話を転がしていくうちに、話は従兄弟の西郷隆盛、従道兄弟に及んだ。
「彼らとは父同士が兄弟で、子どものころからよく遊んでいました。隆盛というと、実はぴんと来ないのです。彼のことはずっと、吉之介兄さぁと呼んできました。兄さぁも弥助弥助とかわいがってくださったものです。従道はひとつ下でしたが、兄さぁは十四も年上です。前妻の沢子の父も、兄さぁと同年の親友でした」
みなで楽しく過ごしていたはずが、自分の留学中にいつのまにか歯車が狂っていたのだと、大山は回顧した。
「征韓論を譲らない兄さぁを説得するために、志半ばでジュネーブから呼び戻され、鹿児島へむかいましたが、兄さぁの決心は揺らぎませんでした」
大山は、隆盛征討のための司令官のひとりとして、熊本に赴き、戦いのなかで、兄と慕った隆盛に大砲をむけた。
「そんなことのために留学したのではないと思いました。もとはといえば、国力増強を目標に、大砲や他の兵器の技術革新に備えるための渡欧でしたが、それが『人を殺す技術』を磨くためのものであったと、あれほど身にしみたことはありませんでした」
大山の言うのは、西南の役だ。留学中に起きたことゆえ、捨松には詳細な知識はない。けれども、その功績により、浩は名を挙げたのだと伝え聞いている。
捨松はことばを選んだ。どう言っても、傷つけるだけかもしれない。けれども、隣にいつか立つ日が来るならば、知っておきたいと思った。
「では、会津に攻め入ったときは、何もお感じにならなかったのですね」
問いかけに、大山は一度、口を閉ざして考えにふけった。
景色はゆったりと流れていく。時間は刻々と過ぎる。従道別邸への約五マイルはもう残りわずかだ。昼食前に聞けぬなら、帰り道でも構わない。そう、切り出そうとしたときだった。大山はひたと捨松を見て、ことばを紡ぎだした。
「いま考えれば恐ろしいことですが、戊辰のときは何も思いませんでした。相手は逆賊だと、ことばの通じぬ相手だと」
「……ことばの通じぬ逆賊だから、征伐しなければならないと、お思いでしたのね?」
「はい」
大山は短く答えると、青ざめて口元を手でぬぐった。
「はじめて気がつきました。お話していませんでしたが、実は、会津若松城を攻めたとき、薩摩軍にて砲兵隊長をつとめておりました」
「存じております」
捨松の返答に、大山の握りこぶしは、膝のうえで震えていた。捨松は迷ったが、安心させるように、そっと彼の手の甲をうえから押さえた。大山は、捨松を見る十八も年かさの男は、救いを求めるようにこちらを見つめた。乾きはじめたくちびるからこぼれたのは、慇懃な仏語ではなく、薩摩のことばだった。
「会津攻めの当日に被弾し、前線を退きもした。そいから落城の日まで、傷の回復につとめていて、二度と会津に戻うこたあなかったのでござんで。じゃって、薩軍にあっても、おいは立場が違うと、勘違いしておりもした」
先日と異なったのは、捨松が前よりも日本語の聞き取りに慣れていたことだった。捨松には、その日の大山のことばがなんとなくわかった。けれど、そこまでだった。完全に理解することはかなわなかった。
悔しい思いになりながら、捨松は仏語を舌に乗せた。
「構いませんわ。それが大山様の御役目でございましたのでしょう? 責めたてるつもりも、謝罪を要求するつもりもございませんの。あの日、あなたが何を思い、どこにいたのか。それを知りたかったまでですのよ」
捨松は手を離した。
「私は、あの八月二十三日、城のなかにおりました。母と姉と下女とを連れて、城に逃げ、そのまま落城までを過ごしました。砲弾の火薬を作る手伝いもいたしましたし、焼き玉押さえだっていたしました。私たちも、外にいる敵軍が同じ人間だなんて、まして同じ国の人間だなんて思ってはおりませんでした」
人力車の進む先に、豪壮な屋敷が見えてきていた。そちらへ目を遣り、うっすらと微笑みながら、捨松はつぶやくように言った。
「でも、だれもがみな、日本人だったのだわ。私は近ごろ、日本という国の現状がどういったものなのかを知るためにアメリカへ留学したような気さえするのです」
車が門を抜け、敷地へ入る。完全にとまってしまう前に、捨松は車夫にも聞こえぬ声で、大山へささやいた。
「この国を変える気があるかたになら、私はどこへでもついていく気でおりますのよ。ぜひ、それを見極めさせてくださいませ」
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