10 / 15
十
しおりを挟む
山川家側が乗り気のうちにと、急いだためだろう。デートの行き先は、西郷従道の夏の別荘だった。別荘で開かれる内々の昼食会に招かれて、同じく出席する大山と人力車で乗り合わせてむかう──デートの筋書きはおおよそこのようなものだった。
お互いに名を知ったうえで会うのは、今日がはじめてだ。あらためて挨拶をするのは、どこか気恥ずかしい。捨松は悩みながら、仏語を口にした。
「はじめましてと、ご挨拶すべきかしら。どうして、はじめてお目にかかったときに、自己紹介をしておかなかったのでしょう」
「こちらはあなたの名がすぐに見当がついたので、あえておうかがいしなかったのです」
大山は言い、捨松の手を取って、人力車の席に座らせた。そうして、自分も乗りこむと、視線を前方へとむけた。
「あなたの兄君はおふたりとも、めざましいご活躍をなさっています。藩閥政治がまかりとおっているなかで、出身を問わず引き立てられるというのは、なかなかあるものではありません。とても、立派なお兄様がたです」
「恐れ入ります」
話が途絶えた。大山はまだ前を見つめたまま、穏やかに微笑んだ。
「二度目も断られると思っていました」
この告白に捨松は驚いたが、その感情は面に出さなかった。自信に満ちあふれて見える大山が、まさかそんな弱気なことを言うとは思わなかったのだ。
「西郷農商務卿がご熱心に勧めてくださるので、兄もこころを動かされたのですわ」
「──では、お兄様の命令で?」
問われて、捨松はきょとんとした。
「兄は、デートをしてから決めろなどとは申しませんわ。兄は私の意思を尊重して、私次第だと言いました」
これではことばが足りないと思って、即座に付け加える。
「軍のかたで娘が三人いると聞いて、大山様のことだと、二度目は私もわかっていました。ですから、もう一度、お会いしたくて」
大山はそっぽをむいて、顔を隠した。そのまま、車の外へむかってひとことふたこと言ったが、捨松には聞こえなかった。
「大山様?」
呼びかけると、大山はしぶしぶと言った体でこちらを見て、すぐにまた目をそらした。目元と耳の縁が赤くなっている。動揺しているのが、見てとれた。
「以前、瓜生氏の披露宴でひどいことを言ったので、嫌われているかと考えていました」
「大山様のおっしゃることは、耳が痛い事柄ばかりでしたわ。けれども、ひどいとは思いませんし、嫌うことだってありません。あのとき、お話しする機会を持たなければ、私は間違った結婚を選んでいたと思います」
「それは、つまり、神田乃武くんとの結婚ということですか」
単刀直入にこられて、捨松はさすがに神田の名誉のために口をつぐもうかとも考えたが、結局、内密にと断ってからうなずいた。大山は少しだけ険しい顔を見せたが、すぐにもとの柔和な表情に戻った。
「なぜ、それが間違った結婚だと?」
「私は官費留学生ですから。お国のために役立つには、まず、一人前と認められなければなりません。それには、結婚することが不可欠だと大山様に教わりました。しかしながら、相手がだれでもよいわけではありません」
この先を告げてよいものか、捨松は迷った。だが、大山との結婚をいずれ考えるのであれば、隠し立てできるものでもない。さて、どこからは話すべきか。
「留学中は女子教育を志しておりましたが、日本はまだ環境が整っておりません。他国に後れをとっているという意識が生まれなければ、世間は女子を教育する気にはならないでしょう。先に手をつけるべきは、日本という国の土台をしっかりと固めることですわ。踏みしめる地面が不安定なうちは、決して、外には目が向きません」
「それが、結婚とどう結びつくのですか」
いじわるな大山の質問に、捨松はくちびるをとがらせる。捨松自身も、いまの説明は迂遠に過ぎたとわかっている。
「土台を固めるには、旧藩同士のいがみ合いを終わらせねばなりませんし、外国と同等の文化や知識を備えねばなりません。そうして、そののち、さらに外国と交流し、日本の国際的な地位を築いていく必要があります」
「それで?」
茶々を入れるようなあいづちに、大山を軽くにらんで、捨松はようやく本題に入った。
「私は、自分の結婚が『いがみ合い』を止める一助になればうれしく思いますし、私が政府高官やその奥様がたと交流することで、アメリカの文化や知識を広めることができればと考えます。また、土台が整ったのち、外国と交流する際には、自分の語学力や社交の能力がきっと国のお役にたてると信じています」
「──あなたのおっしゃることを実現するには、条件に当てはまる人物が非常に少ないのでは? いまのは、ほとんどプロポーズに聞こえましたが」
声をたてて笑いながらのひとことに、頬が熱くなる。そのとおりだ。
「それなら、婚約の儀を急ぎましょう。夏には沢子の喪が明けます。祝言はそのあとにはなりますが、」
「お待ちください、大山様」
捨松のひと声に、大山の暴走はぴたりと止まった。捨松は、敢えてささやくような声音で彼をいさめた。
「あくまで私は、希望を述べたまでですわ。大山様との結婚はまだ検討段階にあります」
「これはこれは」
やられたと言いたげなようすで大山は笑い、額をぴしゃりと打った。
お互いに名を知ったうえで会うのは、今日がはじめてだ。あらためて挨拶をするのは、どこか気恥ずかしい。捨松は悩みながら、仏語を口にした。
「はじめましてと、ご挨拶すべきかしら。どうして、はじめてお目にかかったときに、自己紹介をしておかなかったのでしょう」
「こちらはあなたの名がすぐに見当がついたので、あえておうかがいしなかったのです」
大山は言い、捨松の手を取って、人力車の席に座らせた。そうして、自分も乗りこむと、視線を前方へとむけた。
「あなたの兄君はおふたりとも、めざましいご活躍をなさっています。藩閥政治がまかりとおっているなかで、出身を問わず引き立てられるというのは、なかなかあるものではありません。とても、立派なお兄様がたです」
「恐れ入ります」
話が途絶えた。大山はまだ前を見つめたまま、穏やかに微笑んだ。
「二度目も断られると思っていました」
この告白に捨松は驚いたが、その感情は面に出さなかった。自信に満ちあふれて見える大山が、まさかそんな弱気なことを言うとは思わなかったのだ。
「西郷農商務卿がご熱心に勧めてくださるので、兄もこころを動かされたのですわ」
「──では、お兄様の命令で?」
問われて、捨松はきょとんとした。
「兄は、デートをしてから決めろなどとは申しませんわ。兄は私の意思を尊重して、私次第だと言いました」
これではことばが足りないと思って、即座に付け加える。
「軍のかたで娘が三人いると聞いて、大山様のことだと、二度目は私もわかっていました。ですから、もう一度、お会いしたくて」
大山はそっぽをむいて、顔を隠した。そのまま、車の外へむかってひとことふたこと言ったが、捨松には聞こえなかった。
「大山様?」
呼びかけると、大山はしぶしぶと言った体でこちらを見て、すぐにまた目をそらした。目元と耳の縁が赤くなっている。動揺しているのが、見てとれた。
「以前、瓜生氏の披露宴でひどいことを言ったので、嫌われているかと考えていました」
「大山様のおっしゃることは、耳が痛い事柄ばかりでしたわ。けれども、ひどいとは思いませんし、嫌うことだってありません。あのとき、お話しする機会を持たなければ、私は間違った結婚を選んでいたと思います」
「それは、つまり、神田乃武くんとの結婚ということですか」
単刀直入にこられて、捨松はさすがに神田の名誉のために口をつぐもうかとも考えたが、結局、内密にと断ってからうなずいた。大山は少しだけ険しい顔を見せたが、すぐにもとの柔和な表情に戻った。
「なぜ、それが間違った結婚だと?」
「私は官費留学生ですから。お国のために役立つには、まず、一人前と認められなければなりません。それには、結婚することが不可欠だと大山様に教わりました。しかしながら、相手がだれでもよいわけではありません」
この先を告げてよいものか、捨松は迷った。だが、大山との結婚をいずれ考えるのであれば、隠し立てできるものでもない。さて、どこからは話すべきか。
「留学中は女子教育を志しておりましたが、日本はまだ環境が整っておりません。他国に後れをとっているという意識が生まれなければ、世間は女子を教育する気にはならないでしょう。先に手をつけるべきは、日本という国の土台をしっかりと固めることですわ。踏みしめる地面が不安定なうちは、決して、外には目が向きません」
「それが、結婚とどう結びつくのですか」
いじわるな大山の質問に、捨松はくちびるをとがらせる。捨松自身も、いまの説明は迂遠に過ぎたとわかっている。
「土台を固めるには、旧藩同士のいがみ合いを終わらせねばなりませんし、外国と同等の文化や知識を備えねばなりません。そうして、そののち、さらに外国と交流し、日本の国際的な地位を築いていく必要があります」
「それで?」
茶々を入れるようなあいづちに、大山を軽くにらんで、捨松はようやく本題に入った。
「私は、自分の結婚が『いがみ合い』を止める一助になればうれしく思いますし、私が政府高官やその奥様がたと交流することで、アメリカの文化や知識を広めることができればと考えます。また、土台が整ったのち、外国と交流する際には、自分の語学力や社交の能力がきっと国のお役にたてると信じています」
「──あなたのおっしゃることを実現するには、条件に当てはまる人物が非常に少ないのでは? いまのは、ほとんどプロポーズに聞こえましたが」
声をたてて笑いながらのひとことに、頬が熱くなる。そのとおりだ。
「それなら、婚約の儀を急ぎましょう。夏には沢子の喪が明けます。祝言はそのあとにはなりますが、」
「お待ちください、大山様」
捨松のひと声に、大山の暴走はぴたりと止まった。捨松は、敢えてささやくような声音で彼をいさめた。
「あくまで私は、希望を述べたまでですわ。大山様との結婚はまだ検討段階にあります」
「これはこれは」
やられたと言いたげなようすで大山は笑い、額をぴしゃりと打った。
0
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる