聖娼王女の結婚

渡波みずき

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 神殿の石床は、ことのほか冷える。時間の経過とともに、薄手の麻越しに腰と足の熱を奪われていく。敷物か掛け物でもあればよいのに。よぎった考えをすぐに打ち消して、ライラは目を閉じた。

 床に直接座るのは、この儀式の決まりだ。衣装だって決められている。客人まれびとに声をかけられるまではこのままだし、下手すれば、一晩ずっと座ったきりかもしれない。

 地母神の巫女は、そうしたものだ。三日勤めあげれば、正式に巫女として神殿仕えができる。言い換えれば、客人のだれにも夜の相手を求められない者や、一晩二晩だけで回数が満たせなければ、永遠に巫女にはなれず、本人の望む限りは神殿の床を温め続けることになる。

 そう、『本人の望む限り』。そのことばの都合の良さを笑って、ライラは薄目を開けた。

 純潔を失った者に、まずまともな縁談など来ない。他国には離婚や再婚などと言う制度があるらしいが、この国には無い。せいぜいが、子のない未亡人を夫の兄弟が娶るくらいで、それとて、両家が合意しなければ成り立たない。

 神殿に一晩でも座れば、そこに何がなくとも、俗世の価値観のなかでは穢れてしまう。神殿の教義上は、巫女が地母神、客人が天からの客人として契りを交わすことで、三日三晩の創世神話を再現する儀式とされているが、教主の生誕から千年も経った今では、形骸化も甚だしいらしい。

 貧しさから衣食住を求めて巫女となる者は、特に多いと聞く。神殿入りの手続きをしてくれた神殿長マイヤは、本音ではライラをどう思ったのだろう。王宮で過ごせるドレスと靴、仕立ての良い絹の下着。どこをどう切り取っても、苦労とは無縁の令嬢にしか見えなかったろうに。

 貫頭衣の生成りの麻は、灰色ともごく薄い茶色や橙色ともつかない色をしている。数人見受けられる巫女見習いの貫頭衣の色味の違いを興味深く観察していると、ひとりめの客人が現れた。靴音高く現れたのは、見上げるほどの偉丈夫だった。首から上は、黒い布の被り物で明らかではないが、やや丈の足りない白い衣を身につけている。顔を隠すのは仮面だと聞いていたぶん、その風体に面食らった。

 客人はすぐ近くの見習いの膝に銭を投げ、決まり文句を告げる。そのようすはいかにも横柄だった。巫女の顔にも興味がないのか、よそを向いたままの所業に、ざわりと背筋が粟立つ。見習いの女たちは巫女になりたいが、客人はその手助けをしにきたわけではない。目の前で繰り広げられた一件で自らの置かれた状況を悟って、ライラはいまさらながら怖くなった。

 見習いは黙って俯きながら、足早にライラの前を通り過ぎる。客人はのっそりと彼女の背を追うが、そのさまはまるで、小動物を追い詰めることを楽しむ狩人のようだった。

 二人目の客人があまり大柄でなかったことに安堵したのは、きっとライラだけではなかっただろう。息をつく音がそこここで聞こえた。客人の身のこなしは、少年といってもよいくらいのしなやかさを備えていた。彼は、ライラと同じく場に慣れていないのか、キョロキョロと視線を巡らせながら神殿の奥までくると、ライラに目を留めて、息を呑んだ。

 被り物越しに、目が合った気がした。客人はさっと片膝をつくと、丁寧な仕草でライラの膝のうえに貨幣を置いた。その輝きに、ハッとする。あろうことか金貨だった。相場は中銀貨三枚と教えられている。貨幣に触れたことのないライラに価値の差はわからないが、銀貨でないことだけは色でわかる。だが、儀式の途中だ、指摘はできなかった。

 顔を上げたライラのまえで跪いたまま、求婚でもするかのように客人は告げた。

「母なる神の御名のもとに、お相手願いたい」

 耳に心地よい低音で告げられた決まり文句に、否やはない。元より相手を選ぶ権利は、こちらにはなかった。ライラは小金貨を手に立ち上がると、神殿を出て、あらかじめ割り当てられた部屋へと、男をいざなった。

 部屋の戸を閉め、人目を避けてから口を開く。

「ご存じないかもしれませんが、神殿へのお布施は中銀貨三枚が妥当です。こちらはお返ししますから、どうぞ適正な額をお納めくださいませ」
「あなたを得られるなら、大金貨とて安いくらいだ。気にすることはありません」
「わたくしは神に仕えようとする身。いくら積まれようと、一個人が得ることはかないません。今夜一晩かぎり、お相手をいたしましょう」

 にべもなく切り捨て、ライラはひたと被り物越しの男を見つめた。

 ──この男、わたくしを見知っていてのね。

 確かに、一国の王に連なる娘を一晩買おうと言うのなら、小金貨では釣り合わない。時と場合によっては──たとえば、父王が存命のころであれば、この命で一国を贖うことだってできたかもしれない。だが、いまのライラにそれほどの価値はなかった。

 父王は薨去し、長兄がじきに即位するであろう現在において、捨て置かれた腹違いの王妹にいかほどの価値があるだろうか。

「いまからでも遅くありません。王宮へお戻りになりませんか。神殿には私から話をします。王宮がお嫌なら、私の屋敷においでください。王都にも別邸がございますから」
「先程も述べましたとおり、わたくしは御母にお仕えしたいのです。三晩客人と契れば、見習いではなく、巫女になれますもの。あなた様が客人の務めを果たさず、途中で儀式を放棄なさるなら、わたくしはもう一度、神殿の床に座りなおすまでです」

 傲然と言い、彼を追い出そうと部屋の戸に手をかけると、男は急に焦ったようすで、その場に跪いた。捧げ持つようにライラの手を取り、懇願する。

「お考えなおしください、殿下。あなたが他の男に穢されるのなんて、見たくない!」
「穢される? いまのわたくしは地母神そのもの。神殿においでの殿方は天からの客人そのものです。わたくしたちの豊穣の祈りを穢しているのは、あなた様のそのお考えではありませんこと?」

 被り物の下から、歯軋りするような音がした。男はライラの手をしっかりと握って、声を絞りだした。

「──私がこのまま儀式を続けなければ、あなたはこの部屋に他の客人を招き入れるんですね?」
「ええ、そのとおりですわ」
「もうひとつ率直に聞きますが、殿下は、その……男女の契りについて、どの程度ご存じなのですか」
「先刻、絵本を使って、神殿長からご指南いただきました。服を脱いで、客人に子種を注いでもらえばよいのだと」

 男はライラの手を離し、被り物越しに顔を両手で押さえてうめいた。取り乱したようすで立ち上がって、大きな身振りで制止しようとする。

「そんなことをして、孕んだらどうするんですか!」
「産めばよいのよ。まさか、ご存じないの? わたくしだって、王と巫女とので生まれたのよ?」
「それは──ッ! それとこれとは違います! 国の祭事と巫女になるための儀式を同じ重みで語らないでください」
「そうね、同じわけがないわ。わたくしの人生なんて、それこそ羽根のように軽いもの。ある日突然呼びつけられて嫁げと命じられるくらいに」

 男は一瞬押し黙り、静かに問うた。

「降嫁がお嫌だったのですか」
「いいえ、わたくしにはお相手の顔も名前もわからないもの。でも、兄がお父様が亡くなったとたんにわたくしを追い出す算段を立てるかただとは思っていなかったから、びっくりしたの」
「びっくりして、神殿に?」

 今度は、ライラが黙る番だった。男の思い違いを正すため、ゆっくりとことばを吟味する。

「ここには連れてこられたの。こんな低俗な嫌がらせをされるほど嫌われているとは考えてもみなかったわ。わたくしが先に結婚するのが許せないのかしら?」
「だれがそんなことを」
「たぶん、次姉よ。わたくしが神殿の前に投げ出されたあとに、わざわざ馬車で通りがかったの。目が合って、笑われたから、きっとそう」

 口にしたときだ、思いがけず涙が出た。
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