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第4章ダイジェスト(1):1
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四月になると、遅咲きの桜以外の木はすっかり緑の葉が茂っている。
私は今日も精力的に仕事をこなしていた。
年度が変わっても、社内報に関する業務を担当。内容に大きな変更もなく、さしあたっての問題もない。
しかし、新入社員が入ってくれば、状況も違ってくる。
自分の時もそうだったけれど、新人が職場や業務に慣れるまでは、本人はもちろんのこと、周りもそれなりに大変になるものだ。
教えてもらう立場だった私にも、後輩という存在が出来る。先輩としての威厳を保つためにも、これまで以上に頑張って仕事をしなくては。
……と、その前にエネルギー補給だ。
仕事を頑張るためには、気分転換となる休息も重要。そして、脳のエネルギーとなる糖分も必要だ。
あ、あのね、これは食いしん坊だからって話じゃないよ。人間の脳はね、ブトウ糖をエネルギーにして動いているんだって。だから、甘いものは必要なの。ダイエットを忘れた訳じゃないんだよ!
と、誰に聞かせるでもない言い訳を心の中で繰り返しながら、私はバッグの中から小さな紙包みを取り出す。
午前中、部長に頼まれて外出した帰りに、通り沿いにあった和菓子屋さんで桜もちを買ったのだ。
ウェットティッシュで手を拭い、いそいそと包みを開く。すると、桜の葉の香りがほのかに漂ってフワリと鼻腔をくすぐった。
「はぁ、この香り。落ち着くなぁ」
しばらく独特の香りを堪能した後、大きく口を開けて葉っぱごと桜餅をパクリ。あんこの甘みと、塩漬けされた葉の風味が相まって好きなのだ。
「この生地、美味しいなぁ。あんこの甘さもちょうどいいし」
「タンポポちゃん、お疲れ様」
優しく声をかけられて顔を向ければ、留美先輩がやってくるところだった。
「あら、桜餅を食べてるの?」
「はい。お店に並んでいるのを見たら、急に食べたくなっちゃって。先輩の分も買ってありますよ」
再び手を拭ってバッグから紙包みを取り出した私の頭を、先輩がほっそりした指で優しく撫でた。
「じゃ、私からもタンポポちゃんにプレゼント」
「何ですか?」
「これ、好きでしょ。この前も大喜びして食べていたわよね」
そう言って先輩が差し出してきたのは、某有名パティスリーの名前が入った包装紙を纏った小箱。
「きゃーーーーー!」
それを見たとたん、私は思わず声を上げる。歓喜ではなく、羞恥による悲鳴だ。
「え?ちょっと、タンポポちゃん?」
大好物を前に悲鳴を上げて顔を真っ赤に染めている私に、先輩は意味が分からずに首を捻る。
「どうしたって言うのよ?このお店のマカロン、好きだったじゃない。っていうか、なんでマカロンを見て恥ずかしがってるのよ?」
「あ、あの、その、大好きですよ。ただ、今は、何て言いますか……」
赤く染まった顔を両手で押さえ、デスクに伏せてモゴモゴと口ごもる私に、留美先輩は困惑気味。
先輩が私にくれようとしたマカロンは今でも大好きではある。
ただ、その存在が今の私にとって羞恥極まりない代物なのだ。
それというのも……。
先月の十四日はホワイトデーだった。
平日であるその日の朝一番で届いた和馬さんからのメールには、
『バレンタインのお返しをユウカに渡したいです。仕事の後、都合はいかがですか?』とあった。
だが、バレンタインの時には和馬さんからもチョコを貰った。だから、私が彼からお返しを貰うのはおかしいと思う。
お返しはいらないとメールに書いて返信すれば、
『恋人である私に遠慮などしないでください。ユウカはもっと私に甘えて、もっと私に我が侭を言うべきですよ』
それを見て、ちょっと笑ってしまった。
私は少し考えた後、仕事の後に会うことを了承するメールを送る。
「和馬さんは私を甘やかしすぎるよ」
これ以上甘やかされてしまえば、それこそ和馬さん抜きでは生きていけなくなってしまいそうだ。
そんなことを考えていると、また携帯電話がメールの着信を告げた。
『ユウカが私抜きで生きていけないのであれば、それこそ望むところですよ』
その文面を見た途端、私の顔が軽く引き攣った。
「うわぁ!何、これ!?何で、和馬さんは私が考えていることが分かるの!?」
我が彼氏様は、今日も素晴らしく勘が冴えているのであった。
仕事が終わると、いつものように和馬さんが総務部まで迎えに来てくれるのを待ち、その後は一緒に夕飯の買い物。
そして、彼のマンションへとやってきた。
今夜のメニューは鶏肉と長ネギの雑炊に、中華風春雨サラダ。それに大根とツナの煮物だ。
ホワイトデーのプレゼントを用意してくれた和馬さんに、せめてものお礼として彼の好きなものを作ることに。
どれも簡単に作れるからお礼というには申し訳ないと思うんだけど、和馬さんが食べたいというのだから、まぁいいか。
私はさっそく調理に取り掛かった。
簡単なメニューだったから、あっという間に出来上がる。
和馬さんはいつものように美味しそうに食べてくれた。その幸せそうな表情で、私も幸せだ。
楽しい雰囲気の中で食事を終え、今はリビングのソファに腰を下ろして和馬さんと飲み物を口にしている。
私はミルクたっぷりのカフェオレ、和馬さんはブラックコーヒーを飲みながら、他愛のない話をあれこれとするのが食後の定番となっているのだ。
そこで、「バレンタインのお返しですよ」と、和馬さんが小ぶりの箱を差し出してきた。
品の良いサーモンピンクの包装紙を見ただけで、私には中身が分かってしまう。その中身とは、スィートパレスのマカロンだ。
「うわぁ、ありがとうございます!」
マグカップをローテーブルに置いた私は、満面の笑みで小箱を受け取った。
このスィートパレスのマカロンは、生地のサクッとした歯触りの良さといい、間に挟まれているクリームの種類の豊富さといい、そして彩りや味ももちろん抜群。
以前、留美先輩からそのマカロンをお裾分けしてもらって以来、私はすっかりこの店のマカロンに夢中なのだ。
だけど、そのことを和馬さんには話したことはない。下手に教えると、仕事で忙しいにもかかわらず、彼は店まで買いに走るだろうから。
和馬さんにわざわざ買ってもらうというのも悪いと思うし、何より、社長第一秘書であるのに、社長そっちのけで店に向かう和馬さんの話はこれまでに何度も聞いているのだ。
非常に、非常に申し訳ない。後で、社長の家の方に向かって土下座しておくか。
それにしても、内緒にしていたのに、どうしてこのお店のマカロンを?
小箱を撫でながら首を傾げていると、和馬さんがクスリと笑う。
「ホワイトデーに贈るプレゼントの事で、中村君に相談したんですよ。このところ、ユウカが一番気に入っているのがこの店のマカロンだとか」
ああ、そうか。仲のいい留美先輩に聞いたのか。
それなら納得だ。今、本気で盗聴器の存在を疑ったよ。
いくら『ユウカの事を常に気にかけている証なんです』言われても、許可なく盗聴器を仕掛けることは犯罪だ。
――よかった。和馬さんが犯罪者じゃなくて。
微妙な笑顔を浮かべている私を、和馬さんが不思議そうに見遣ってくる。
「どうしました?」
「え?い、いえ、何でもないです。さっそく開けてみちゃおうかなぁ。わぁい、楽しみ~」
内心を悟られないうちに、私はいそいそとホワイトデー仕様の包装紙を解く。
以前食べたことのあるストロベリー味のマカロンよりも、少しピンク色が濃い。添えられているカードには、この時期限定のラズベリー味と書いてあった。
そのマカロンを眺めながら、私はあることに思い至る。
甘い菓子類を扱っている店は、総じて女性客が多い。和馬さんは女性客の多い店に自
分で足を運ぶことを、少しも恥ずかしいとは思わないのだろうか。
「あの……、ごめんなさい。私が食いしん坊なばっかりに、和馬さんには迷惑をかけているなぁって」
すると和馬さんは優しく目を細めて、ポンポンと私の頭を軽く叩いた。
「ユウカのためなら、私は何でもします」
マカロンの箱を手にシュンと俯く私を、彼は右腕で抱き寄せる。
「ユウカの笑顔を見るためでしたら、恥ずかしいと思うことなどありませんよ」
「そうは言っても……」
と、口にすれば、和馬さんの左人差し指がピトッと私の唇を塞ぐ。
「ユウカの笑顔が見たいという、自分の我が侭でしていることです」
穏やかな笑顔で優しく告げる和馬さん。
大好きなマカロンが食べられるということもあるけれど、何より、和馬さんの気持ちが嬉しくて。
私は心の底から感謝の気持ちを込めて、彼に笑顔を向けた。
そんな私を見て、和馬さんも満足げな笑みを浮かべる。
「やはり、ユウカの笑顔は最高に素敵ですね」
それにしても、私の笑顔一つでこんなに喜ぶなんて。私の笑顔なんて、ちっとも貴重なんかじゃないのに。
そのことを和馬さんに話してみれば、彼は形の良い瞳をユルリと細めて首を横に振った。
「私だけに見せてくれる特別な笑顔というものがあるのですよ」
「え?特別、ですか?」
不思議そうな顔をする私に彼の手が伸びてきた。そして大きな手の平が両頬をフワリと包み、そっと彼へと顔を向けさせられる。
「私の事が大好きだという気持ちが込められた笑顔なんですよ。美味しいものを前にした時の笑顔や可愛い動物を前にした時の笑顔とは、いくぶん表情が違うのです」
真っ直ぐに私を見つめ、和馬さんが穏やかに告げた。
頬に伝わる温もりと彼の発言が恥ずかしくて、私はちょっとだけ目を伏せる。
「もしかしたら、私の思い込みなのかもしれませんがね。まぁ、ユウカの笑顔が見られただけで私は十分満足ですから、実際のところとは違っていてもかまいませんけれど」
苦笑を零す彼に、私は小さく首を横に振る。それから頬に触れている和馬さんの手に、自分の手をオズオズと重ねた。
「お……、思い込みなんかじゃ、ない、ですよ。だって……、和馬さんの事が大好きなのは、ほ、ほ、本当のことですし……」
顔を真っ赤に染めてモゴモゴと話す。
恥かしがってばかりの私だけど、大事なことはきちんと言葉にしないといけないのだと、最近になってやっと気が付いた。
恥ずかしさではにかみながらも自分の気持ちを言葉にすれば、和馬さんは親指の腹で私の頬の丸みを優しく撫でてくる。
「こんなにも嬉しい告白を聞かせていただけるとは。今夜は浮かれてしまいそうですね」
伏せていた視線をチラッと上げて様子を窺えば、和馬さんは幸せそうに微笑んでいた。
そんな彼を見て、私はちょっとだけ罪悪感を抱く。
これまで一緒に過ごしてきた時間の中で、彼にばかり好きだと言わせている自覚は嫌というほどあるのだ。
「あの……。もっと、言った方がいいですか?」
そう尋ねると、和馬さんは
「あなたはそのようなことを気にしないでください。もちろん、言ってもらえることは大変嬉しいのですが、それが気負いになるのであれば、私の本意ではありません」
俯き気味だった私の顔を軽く上向きにさせ、和馬さんは視線を合わせてくる。
「恥ずかしがり屋のあなたの口から滅多に聞くことのできない告白だからこそ、価値があるのだと思います」
優しい表情を見つめ返しながら、私は感じた疑問を言葉にした。
「じゃあ、顔を合わせるたびに『和馬さん、大好き』って言うようになったら、価値がなくなってしまいますか?」
その言葉に、和馬さんは即座に首を横に振る。
「いいえ。たくさん言ってくださるようになっても、それはそれで、私はやはり嬉しく思います」
「えー?結局、私はどうしたらいいんですか?」
困惑の表情を浮かべる私に、彼はニコリと笑った。
「ですから、どうもしなくていいのですよ」
なんだか和馬さんには申し訳ない気もするが、ぎこちない告白は、かえって和馬さんに気遣わせてしまうかもしれない。うん、無理はやめておこう。
コクリと頷けば、頬にあった手がスルリと離れてゆく。
「私は、そのままのユウカを愛していますから。あなたが変わっても変わらなくても、ユウカを愛しいと思う気持ちは同じです」
そう言いながら、和馬さんが私と抱きしめてくる。
優しい言葉と優しい温もりに包まれ、私は耳まで真っ赤になりながらも、精いっぱい彼を抱き締め返したのだった。
恋人同士の甘い時間もいいけれど、目の前にあるマカロンを忘れた訳ではない。
私は改めてお礼を述べて、鮮やかなピンク色のマカロンに手を伸ばした。
「いただきます」
一口齧って、思わず顔が綻ぶ。じっくり噛みしめて、また顔が綻ぶ。
「はぁ、美味しい~」
あっという間に一つ目を食べ終え、即座に二つ目へと手が伸びた。
満面の笑みで食べ進める私を、横にいる和馬さんがなにやら熱心に見つめている。
そんなにマジマジと見られると、少し居心地が悪い。
しかし、彼の表情に少し違和感を覚えた。なんだろうか。
二つ目を食べ切った私は、こっそり彼の様子を観察する。
そこで気が付いた。
和馬さんは私が食べているマカロンを見つめているのだ。
甘いものが苦手な彼にしては珍しい。私が美味しい美味しいと騒ぐから、食べてみたくなったのだろうか。
三つ目を食べ終えてカフェオレを飲んだ私は、箱から一つ摘み上げて彼の口元に差し出す。
「食べてみます?」
「いえ、私はけっこうです。ユウカがすべて食べてください」
和馬さんはやんわりと辞退してくる。それならば、あの視線は何だったのだろうか。
首を捻る私の耳に、ぼそりと漏らした彼の呟きが届いた。
「そのマカロンの色が、あなたの肌に付けたキスマークの色に似ていると思いましてね」
「コフッ!」
いきなりそんなことを言われ、思わずむせた。苦しくて涙が滲む。
拳で胸元をドンドンと叩くものの、それでもつかえが取れないので、慌ててカフェオレで流し込む。
「ケホッ。な、何を、言うんですか!?コホッ」
咳を繰り返す私の背中を片手で撫でながら、もう一方の手で箱からマカロンを摘み上げる和馬さん。しげしげと眺め、大きく頷く。
「この赤みは、まさしくキスマークですね」
「そ、そ、そうですか!?ち、違うんじゃないかなぁ、あははっ。あ、そうだ!和馬さん、コーヒーのお替りはいかかですか?」
何とか話題を逸らそうと、するけれど……。
「違うかどうか、確かめてみましょう」
マカロンを片手に微笑む和馬さんの目には、艶めく光がありありと浮かんでいたのだった。
「や、あの……」
若干顔を引き攣らせる私に、彼は形の良い瞳をユルリと細める。
「私は一度気になってしまったことは、ハッキリさせないと落ち着かない性分ですので。それに……」
言葉を区切った和馬さんは右手で私の頬に触れ、親指の腹で瞼をじっくりとなぞる。
その指の動きがなんとなく熱を孕んでいて、私の心臓はますます早くなっていった。
「か……、和馬さん?」
私の呼びかけに、彼はニッコリと笑みを深める。
「涙に濡れた瞳のユウカは、可愛らしいのに色っぽいですね。すっかり煽られてしまいましたよ」
グイッと抱き寄せられ、鼻先が触れ合う距離までお互いの顔が近づく。
私の視線の先にある彼の瞳の奥で揺れる光は、肉食獣が捕食前に見せるものと同じだった。
私の視線の先にある彼の瞳が、優しく、だけど、艶っぽく細められている。
「ユウカ」
囁くような小さな声で和馬さんが私を呼んだ。その声も艶っぽくて、トクンと私の心臓が跳ねる。
目を合わせていられなくなり、スッと顔を伏せれば、おでこにキスをされた。
「ユウカ」
もう一度私の名前を口にした彼は、おでこに当てていた唇を徐々にずらし、さっきと同様に瞼や目尻にキスをしてくる。
恋愛初心者の私は、いつまで経っても彼に振り回されっぱなしだ。
それがなんだか悔しくて変な意地を張る私は、何度名前を呼ばれても視線を逸らし続けた。
すると、和馬さんが小さく笑う。
「ユウカ」
それでもまだ彼と目を合わせられない私を責めることなく、やんわりとほっぺに唇を押し当てながら、和馬さんがさらに私を抱き寄せた。
彼は私の鼻先にキスを落とした。二回、三回と唇を寄せ、四回目にはペロリと舐められる。
「ふひゃっ」
ビックリして思わず声が出てしまった。
和馬さんに舐められたことも恥ずかしいし、ちっとも色っぽくない声を出してしまったことも恥ずかしい。
二重の羞恥にカアッと耳まで赤くなり、そんな自分を見られたくなくて、和馬さんの肩口に顔を埋めた。
ギュッとしがみつく私に、彼は微かに笑みを零す。
「ふふ、可愛い」
その言葉に対して、私はボソボソと呟く。
「……和馬さんはかっこいいです」
この言葉に、彼がハッと息を呑んで手の動きを止めた。
チロリと彼を見遣れば、切れ長の目の淵が赤くなっている。どうやら照れているようだ。
「不意打ちはズルいですよ、ユウカ」
眉を寄せ、どことなく困った様に微笑む和馬さん。
珍しく反撃できたことに嬉しくなっていると、彼との距離がいっそう縮まってゆく。
アッと思った時には、和馬さんの唇が私の唇に重なっていた。
痛くない程度に吸われると、今度は僅かに甘噛みされた。ヒクリと肩を震わせれば、歯を立てられたところを宥めるように舌先が這う。
まるで壊れ物に触れるように、とにかく優しいキスが繰り返された。
やがて和馬さんの舌が、スルリと私の口内に忍び込んでくる。
いまだ深いキスに慣れていない私を怖がらせないように、舌を重ねながら大きな手が私の頭や肩を優しく撫でた。
私の体から力が抜けきったところで、ようやく彼の舌が私の口内から抜け出した。
「甘酸っぱいですね」
マカロンのクリームのことを言っているのだろう。味が分かるほど深いキスをされたことがたまらなく恥ずかしい。
だけど反撃する余力は、今の私にはこれっぽっちも残されていなかった。
それでもせめてもの意地で睨み上げれば、和馬さんは口の端を楽しそうに上げた。
「さて、確かめさせていただきましょうか」
そう言って、私を横抱きにして立ちあがる。彼は足を進め、そして、迷うことなく寝室へと入っていった。
広いベッドの中央に降ろされ、背中が僅かに沈む。
ボンヤリしていた頭でも、これからの展開は即座に判断できた。
「か、和馬さん?」
私の肩を押さえつけて馬乗りになっている彼に呼びかければ、また口角を上げる。
「私を煽った責任、取ってくださいね」
――煽ってない!私は少しも煽ってない!
しかし、心の叫びは彼に届くことなく。いや、届いていても、まるっと無視をされる。
力の入らない足でジタバタしていると、首を傾けた和馬さんがクスリと笑う。
「どうして恥ずかしがるのです?それとも、明るいリビングであなたを抱いてしまっても良かったのですか?」
それを聞いて、ブルブルと首を横に振った。そんなの、絶対に無理!!
慌てふためく私を見て、和馬さんがまた笑う。
「ユウカのために、わざわざ寝室に移動したのですよ。ほら、私は優しいでしょう?」
そういって笑う彼は、肉食獣そのものだった。
痛くはないけれど、逃げ出すことは出来ない絶妙な力の入れ具合で私の肩を押さえている和馬さん。
寝室の明かりは消えているものの、ベッドヘッドにある小さな明りが灯っていた。だから、近づいてくる彼がどんな表情をしているのかよく見える。
真っ直ぐな意思の強さを表しているスッとした眉。その眉の下にあるのは、切れ長で形の良い目。
それがすごく綺麗だったから、薄闇に浮かぶ彼の表情に見入っていた。
「ユウカ」
その声は、今日聞いた中でも一番の甘さと艶を放っていて、私の心臓がキュウッと切なく締め付けられる。
私は静かに目を閉じた。
私の体に負担がかからない体勢で、和馬さんが覆いかぶさってくる。
そして唇が塞がれると、すぐさま舌が入ってきた。それに対して、またビクッと体が震えてしまう。
いつになったら、私はスマートにキスが出来るようになるのだろうか。
自分のお子様具合に落ち込んでいると、和馬さんの舌が私の舌に絡みついてきた。クチュリという水音を伴った動きに、またしても体がビクッとなった。
嫌なわけでもない。
怖いわけでもない。
ただ、慣れないだけ。和馬さんとこうしてキスをすることを拒んでいるわけではないのだ。
口を塞がれているので、そのことを言葉で伝えることが出来ない。だから私は彼のワイシャツにしがみついた。
そんな私の頭を大きな手で優しく撫でると、和馬さんの舌は静かに後退してゆく。
浅く息を吐いた私は彼の肩口に擦り寄り、改めてワイシャツを握り締める。
すると、和馬さんは声を出すことなく、フッと笑った。
「あなたの可愛らしさは、どうしてこうも私の心臓を貫くのでしょうか。ユウカの仕草だけで、心臓が止まってしまいそうですよ」
耳元に口を寄せ、和馬さんが苦笑まじりに囁く。そして、私の耳にパクリとかじりついた。
「は、んっ。や、やめて……」
ギュッと目を閉じて刺激を堪えるけれど、和馬さん甘噛みをやめるどころか、耳の輪郭に沿って舌先を這わし始めてしまう。
いっそうゾクゾクとした感覚に襲われ、体の震えが止まらない。
いつの間にかボタンが外されていたブラウスは前身ごろが大きく左右に開かれ、サラリとした生地のキャミソールが露わになっている。
彼は鎖骨より少し下の辺りに唇を寄せ、そこにきつく吸い付いた。
「んっ」
チリッとした僅かに刺すような痛みを感じ、ビクン、と私の体が大きく跳ねる。
「綺麗な薄紅色になりましたね。やはり、あのマカロンの色とキスマークの色は同じですよ」
そう言って顔を上げた和馬さんは、その場所をじっくりと指でなぞった。
そうだ、これが目的で寝室に連れ込まれたのだった。でも目的を達成したのだから、もうこれで終わりのはず。
内心ホッと胸を撫で下ろした。
ところが。
和馬さんがまた顔を近づけてきたのだ。しかもキャミソールの襟元を指で引き下げ、さっきよりもきわどい場所に。
唇を強く押し当ててきた彼は、同じように肌を吸い上げる。
「あ、あ、あ、あのっ、か、か、和馬さん?」
慌てて首を起こして彼を見遣れば、上目遣いの和馬さんとバッチリ視線が合う。その目は少しも艶を失ってはいなかった。むしろ、その艶は倍増している。
「え、ええと、マカロンと同じ色だって分かったんですよね?じゃ、じゃあ、もう、終
「いいえ」
即座に否定の言葉が返された。
「な、なんで!?」
上半身を起こした私は、ベッドヘッドの方へとずり上がる。その私をすぐさま追っかけ、押し倒す和馬さん。
わずかに息を呑むと、和馬さんの笑みが深まった。
「ユウカはあのマカロンを味わいましたよね?ですから、今度は薄紅色に染まったユウカを、私が味わってもいいですよね?」
「はい?!」
ギョッと目を見開く私に、和馬さんはクツクツと喉の奥で笑った。
「いいですよね?」
「い、いや、それはっ」
戸惑う私にかまわず、和馬さんは私からキャミソールを素早く引き抜いた。同じように、スカートもストッキングも素早く脱がされてしまう。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「嫌です、待てません」
「そ、そんな!んっ……」
私の抗議の声は彼の唇で封じ込まれ、その後、私は全身くまなく和馬さんに美味しく(?)食べられてしまったのだった。
ということがあり、『マカロン』という言葉を聞くだけであの晩の羞恥が蘇り、食べたいのに食べられないというジレンマに襲われる始末。
「ねぇ。タンポポちゃん、どうしたのよ?なんでマカロンが恥ずかしいの?教えてよ」
「い、いえ、それは……」
心配そうな顔で詰め寄られても、私は言葉を濁すしかない。
留美先輩は優しくて頼りになって、何でも話せる先輩。だけど、これだけは話せないのだ。
――和馬さんのバカーーーーー!
羞恥とジレンマのコンボを食らう私は、心の中で大きく叫んだのだった。
私は今日も精力的に仕事をこなしていた。
年度が変わっても、社内報に関する業務を担当。内容に大きな変更もなく、さしあたっての問題もない。
しかし、新入社員が入ってくれば、状況も違ってくる。
自分の時もそうだったけれど、新人が職場や業務に慣れるまでは、本人はもちろんのこと、周りもそれなりに大変になるものだ。
教えてもらう立場だった私にも、後輩という存在が出来る。先輩としての威厳を保つためにも、これまで以上に頑張って仕事をしなくては。
……と、その前にエネルギー補給だ。
仕事を頑張るためには、気分転換となる休息も重要。そして、脳のエネルギーとなる糖分も必要だ。
あ、あのね、これは食いしん坊だからって話じゃないよ。人間の脳はね、ブトウ糖をエネルギーにして動いているんだって。だから、甘いものは必要なの。ダイエットを忘れた訳じゃないんだよ!
と、誰に聞かせるでもない言い訳を心の中で繰り返しながら、私はバッグの中から小さな紙包みを取り出す。
午前中、部長に頼まれて外出した帰りに、通り沿いにあった和菓子屋さんで桜もちを買ったのだ。
ウェットティッシュで手を拭い、いそいそと包みを開く。すると、桜の葉の香りがほのかに漂ってフワリと鼻腔をくすぐった。
「はぁ、この香り。落ち着くなぁ」
しばらく独特の香りを堪能した後、大きく口を開けて葉っぱごと桜餅をパクリ。あんこの甘みと、塩漬けされた葉の風味が相まって好きなのだ。
「この生地、美味しいなぁ。あんこの甘さもちょうどいいし」
「タンポポちゃん、お疲れ様」
優しく声をかけられて顔を向ければ、留美先輩がやってくるところだった。
「あら、桜餅を食べてるの?」
「はい。お店に並んでいるのを見たら、急に食べたくなっちゃって。先輩の分も買ってありますよ」
再び手を拭ってバッグから紙包みを取り出した私の頭を、先輩がほっそりした指で優しく撫でた。
「じゃ、私からもタンポポちゃんにプレゼント」
「何ですか?」
「これ、好きでしょ。この前も大喜びして食べていたわよね」
そう言って先輩が差し出してきたのは、某有名パティスリーの名前が入った包装紙を纏った小箱。
「きゃーーーーー!」
それを見たとたん、私は思わず声を上げる。歓喜ではなく、羞恥による悲鳴だ。
「え?ちょっと、タンポポちゃん?」
大好物を前に悲鳴を上げて顔を真っ赤に染めている私に、先輩は意味が分からずに首を捻る。
「どうしたって言うのよ?このお店のマカロン、好きだったじゃない。っていうか、なんでマカロンを見て恥ずかしがってるのよ?」
「あ、あの、その、大好きですよ。ただ、今は、何て言いますか……」
赤く染まった顔を両手で押さえ、デスクに伏せてモゴモゴと口ごもる私に、留美先輩は困惑気味。
先輩が私にくれようとしたマカロンは今でも大好きではある。
ただ、その存在が今の私にとって羞恥極まりない代物なのだ。
それというのも……。
先月の十四日はホワイトデーだった。
平日であるその日の朝一番で届いた和馬さんからのメールには、
『バレンタインのお返しをユウカに渡したいです。仕事の後、都合はいかがですか?』とあった。
だが、バレンタインの時には和馬さんからもチョコを貰った。だから、私が彼からお返しを貰うのはおかしいと思う。
お返しはいらないとメールに書いて返信すれば、
『恋人である私に遠慮などしないでください。ユウカはもっと私に甘えて、もっと私に我が侭を言うべきですよ』
それを見て、ちょっと笑ってしまった。
私は少し考えた後、仕事の後に会うことを了承するメールを送る。
「和馬さんは私を甘やかしすぎるよ」
これ以上甘やかされてしまえば、それこそ和馬さん抜きでは生きていけなくなってしまいそうだ。
そんなことを考えていると、また携帯電話がメールの着信を告げた。
『ユウカが私抜きで生きていけないのであれば、それこそ望むところですよ』
その文面を見た途端、私の顔が軽く引き攣った。
「うわぁ!何、これ!?何で、和馬さんは私が考えていることが分かるの!?」
我が彼氏様は、今日も素晴らしく勘が冴えているのであった。
仕事が終わると、いつものように和馬さんが総務部まで迎えに来てくれるのを待ち、その後は一緒に夕飯の買い物。
そして、彼のマンションへとやってきた。
今夜のメニューは鶏肉と長ネギの雑炊に、中華風春雨サラダ。それに大根とツナの煮物だ。
ホワイトデーのプレゼントを用意してくれた和馬さんに、せめてものお礼として彼の好きなものを作ることに。
どれも簡単に作れるからお礼というには申し訳ないと思うんだけど、和馬さんが食べたいというのだから、まぁいいか。
私はさっそく調理に取り掛かった。
簡単なメニューだったから、あっという間に出来上がる。
和馬さんはいつものように美味しそうに食べてくれた。その幸せそうな表情で、私も幸せだ。
楽しい雰囲気の中で食事を終え、今はリビングのソファに腰を下ろして和馬さんと飲み物を口にしている。
私はミルクたっぷりのカフェオレ、和馬さんはブラックコーヒーを飲みながら、他愛のない話をあれこれとするのが食後の定番となっているのだ。
そこで、「バレンタインのお返しですよ」と、和馬さんが小ぶりの箱を差し出してきた。
品の良いサーモンピンクの包装紙を見ただけで、私には中身が分かってしまう。その中身とは、スィートパレスのマカロンだ。
「うわぁ、ありがとうございます!」
マグカップをローテーブルに置いた私は、満面の笑みで小箱を受け取った。
このスィートパレスのマカロンは、生地のサクッとした歯触りの良さといい、間に挟まれているクリームの種類の豊富さといい、そして彩りや味ももちろん抜群。
以前、留美先輩からそのマカロンをお裾分けしてもらって以来、私はすっかりこの店のマカロンに夢中なのだ。
だけど、そのことを和馬さんには話したことはない。下手に教えると、仕事で忙しいにもかかわらず、彼は店まで買いに走るだろうから。
和馬さんにわざわざ買ってもらうというのも悪いと思うし、何より、社長第一秘書であるのに、社長そっちのけで店に向かう和馬さんの話はこれまでに何度も聞いているのだ。
非常に、非常に申し訳ない。後で、社長の家の方に向かって土下座しておくか。
それにしても、内緒にしていたのに、どうしてこのお店のマカロンを?
小箱を撫でながら首を傾げていると、和馬さんがクスリと笑う。
「ホワイトデーに贈るプレゼントの事で、中村君に相談したんですよ。このところ、ユウカが一番気に入っているのがこの店のマカロンだとか」
ああ、そうか。仲のいい留美先輩に聞いたのか。
それなら納得だ。今、本気で盗聴器の存在を疑ったよ。
いくら『ユウカの事を常に気にかけている証なんです』言われても、許可なく盗聴器を仕掛けることは犯罪だ。
――よかった。和馬さんが犯罪者じゃなくて。
微妙な笑顔を浮かべている私を、和馬さんが不思議そうに見遣ってくる。
「どうしました?」
「え?い、いえ、何でもないです。さっそく開けてみちゃおうかなぁ。わぁい、楽しみ~」
内心を悟られないうちに、私はいそいそとホワイトデー仕様の包装紙を解く。
以前食べたことのあるストロベリー味のマカロンよりも、少しピンク色が濃い。添えられているカードには、この時期限定のラズベリー味と書いてあった。
そのマカロンを眺めながら、私はあることに思い至る。
甘い菓子類を扱っている店は、総じて女性客が多い。和馬さんは女性客の多い店に自
分で足を運ぶことを、少しも恥ずかしいとは思わないのだろうか。
「あの……、ごめんなさい。私が食いしん坊なばっかりに、和馬さんには迷惑をかけているなぁって」
すると和馬さんは優しく目を細めて、ポンポンと私の頭を軽く叩いた。
「ユウカのためなら、私は何でもします」
マカロンの箱を手にシュンと俯く私を、彼は右腕で抱き寄せる。
「ユウカの笑顔を見るためでしたら、恥ずかしいと思うことなどありませんよ」
「そうは言っても……」
と、口にすれば、和馬さんの左人差し指がピトッと私の唇を塞ぐ。
「ユウカの笑顔が見たいという、自分の我が侭でしていることです」
穏やかな笑顔で優しく告げる和馬さん。
大好きなマカロンが食べられるということもあるけれど、何より、和馬さんの気持ちが嬉しくて。
私は心の底から感謝の気持ちを込めて、彼に笑顔を向けた。
そんな私を見て、和馬さんも満足げな笑みを浮かべる。
「やはり、ユウカの笑顔は最高に素敵ですね」
それにしても、私の笑顔一つでこんなに喜ぶなんて。私の笑顔なんて、ちっとも貴重なんかじゃないのに。
そのことを和馬さんに話してみれば、彼は形の良い瞳をユルリと細めて首を横に振った。
「私だけに見せてくれる特別な笑顔というものがあるのですよ」
「え?特別、ですか?」
不思議そうな顔をする私に彼の手が伸びてきた。そして大きな手の平が両頬をフワリと包み、そっと彼へと顔を向けさせられる。
「私の事が大好きだという気持ちが込められた笑顔なんですよ。美味しいものを前にした時の笑顔や可愛い動物を前にした時の笑顔とは、いくぶん表情が違うのです」
真っ直ぐに私を見つめ、和馬さんが穏やかに告げた。
頬に伝わる温もりと彼の発言が恥ずかしくて、私はちょっとだけ目を伏せる。
「もしかしたら、私の思い込みなのかもしれませんがね。まぁ、ユウカの笑顔が見られただけで私は十分満足ですから、実際のところとは違っていてもかまいませんけれど」
苦笑を零す彼に、私は小さく首を横に振る。それから頬に触れている和馬さんの手に、自分の手をオズオズと重ねた。
「お……、思い込みなんかじゃ、ない、ですよ。だって……、和馬さんの事が大好きなのは、ほ、ほ、本当のことですし……」
顔を真っ赤に染めてモゴモゴと話す。
恥かしがってばかりの私だけど、大事なことはきちんと言葉にしないといけないのだと、最近になってやっと気が付いた。
恥ずかしさではにかみながらも自分の気持ちを言葉にすれば、和馬さんは親指の腹で私の頬の丸みを優しく撫でてくる。
「こんなにも嬉しい告白を聞かせていただけるとは。今夜は浮かれてしまいそうですね」
伏せていた視線をチラッと上げて様子を窺えば、和馬さんは幸せそうに微笑んでいた。
そんな彼を見て、私はちょっとだけ罪悪感を抱く。
これまで一緒に過ごしてきた時間の中で、彼にばかり好きだと言わせている自覚は嫌というほどあるのだ。
「あの……。もっと、言った方がいいですか?」
そう尋ねると、和馬さんは
「あなたはそのようなことを気にしないでください。もちろん、言ってもらえることは大変嬉しいのですが、それが気負いになるのであれば、私の本意ではありません」
俯き気味だった私の顔を軽く上向きにさせ、和馬さんは視線を合わせてくる。
「恥ずかしがり屋のあなたの口から滅多に聞くことのできない告白だからこそ、価値があるのだと思います」
優しい表情を見つめ返しながら、私は感じた疑問を言葉にした。
「じゃあ、顔を合わせるたびに『和馬さん、大好き』って言うようになったら、価値がなくなってしまいますか?」
その言葉に、和馬さんは即座に首を横に振る。
「いいえ。たくさん言ってくださるようになっても、それはそれで、私はやはり嬉しく思います」
「えー?結局、私はどうしたらいいんですか?」
困惑の表情を浮かべる私に、彼はニコリと笑った。
「ですから、どうもしなくていいのですよ」
なんだか和馬さんには申し訳ない気もするが、ぎこちない告白は、かえって和馬さんに気遣わせてしまうかもしれない。うん、無理はやめておこう。
コクリと頷けば、頬にあった手がスルリと離れてゆく。
「私は、そのままのユウカを愛していますから。あなたが変わっても変わらなくても、ユウカを愛しいと思う気持ちは同じです」
そう言いながら、和馬さんが私と抱きしめてくる。
優しい言葉と優しい温もりに包まれ、私は耳まで真っ赤になりながらも、精いっぱい彼を抱き締め返したのだった。
恋人同士の甘い時間もいいけれど、目の前にあるマカロンを忘れた訳ではない。
私は改めてお礼を述べて、鮮やかなピンク色のマカロンに手を伸ばした。
「いただきます」
一口齧って、思わず顔が綻ぶ。じっくり噛みしめて、また顔が綻ぶ。
「はぁ、美味しい~」
あっという間に一つ目を食べ終え、即座に二つ目へと手が伸びた。
満面の笑みで食べ進める私を、横にいる和馬さんがなにやら熱心に見つめている。
そんなにマジマジと見られると、少し居心地が悪い。
しかし、彼の表情に少し違和感を覚えた。なんだろうか。
二つ目を食べ切った私は、こっそり彼の様子を観察する。
そこで気が付いた。
和馬さんは私が食べているマカロンを見つめているのだ。
甘いものが苦手な彼にしては珍しい。私が美味しい美味しいと騒ぐから、食べてみたくなったのだろうか。
三つ目を食べ終えてカフェオレを飲んだ私は、箱から一つ摘み上げて彼の口元に差し出す。
「食べてみます?」
「いえ、私はけっこうです。ユウカがすべて食べてください」
和馬さんはやんわりと辞退してくる。それならば、あの視線は何だったのだろうか。
首を捻る私の耳に、ぼそりと漏らした彼の呟きが届いた。
「そのマカロンの色が、あなたの肌に付けたキスマークの色に似ていると思いましてね」
「コフッ!」
いきなりそんなことを言われ、思わずむせた。苦しくて涙が滲む。
拳で胸元をドンドンと叩くものの、それでもつかえが取れないので、慌ててカフェオレで流し込む。
「ケホッ。な、何を、言うんですか!?コホッ」
咳を繰り返す私の背中を片手で撫でながら、もう一方の手で箱からマカロンを摘み上げる和馬さん。しげしげと眺め、大きく頷く。
「この赤みは、まさしくキスマークですね」
「そ、そ、そうですか!?ち、違うんじゃないかなぁ、あははっ。あ、そうだ!和馬さん、コーヒーのお替りはいかかですか?」
何とか話題を逸らそうと、するけれど……。
「違うかどうか、確かめてみましょう」
マカロンを片手に微笑む和馬さんの目には、艶めく光がありありと浮かんでいたのだった。
「や、あの……」
若干顔を引き攣らせる私に、彼は形の良い瞳をユルリと細める。
「私は一度気になってしまったことは、ハッキリさせないと落ち着かない性分ですので。それに……」
言葉を区切った和馬さんは右手で私の頬に触れ、親指の腹で瞼をじっくりとなぞる。
その指の動きがなんとなく熱を孕んでいて、私の心臓はますます早くなっていった。
「か……、和馬さん?」
私の呼びかけに、彼はニッコリと笑みを深める。
「涙に濡れた瞳のユウカは、可愛らしいのに色っぽいですね。すっかり煽られてしまいましたよ」
グイッと抱き寄せられ、鼻先が触れ合う距離までお互いの顔が近づく。
私の視線の先にある彼の瞳の奥で揺れる光は、肉食獣が捕食前に見せるものと同じだった。
私の視線の先にある彼の瞳が、優しく、だけど、艶っぽく細められている。
「ユウカ」
囁くような小さな声で和馬さんが私を呼んだ。その声も艶っぽくて、トクンと私の心臓が跳ねる。
目を合わせていられなくなり、スッと顔を伏せれば、おでこにキスをされた。
「ユウカ」
もう一度私の名前を口にした彼は、おでこに当てていた唇を徐々にずらし、さっきと同様に瞼や目尻にキスをしてくる。
恋愛初心者の私は、いつまで経っても彼に振り回されっぱなしだ。
それがなんだか悔しくて変な意地を張る私は、何度名前を呼ばれても視線を逸らし続けた。
すると、和馬さんが小さく笑う。
「ユウカ」
それでもまだ彼と目を合わせられない私を責めることなく、やんわりとほっぺに唇を押し当てながら、和馬さんがさらに私を抱き寄せた。
彼は私の鼻先にキスを落とした。二回、三回と唇を寄せ、四回目にはペロリと舐められる。
「ふひゃっ」
ビックリして思わず声が出てしまった。
和馬さんに舐められたことも恥ずかしいし、ちっとも色っぽくない声を出してしまったことも恥ずかしい。
二重の羞恥にカアッと耳まで赤くなり、そんな自分を見られたくなくて、和馬さんの肩口に顔を埋めた。
ギュッとしがみつく私に、彼は微かに笑みを零す。
「ふふ、可愛い」
その言葉に対して、私はボソボソと呟く。
「……和馬さんはかっこいいです」
この言葉に、彼がハッと息を呑んで手の動きを止めた。
チロリと彼を見遣れば、切れ長の目の淵が赤くなっている。どうやら照れているようだ。
「不意打ちはズルいですよ、ユウカ」
眉を寄せ、どことなく困った様に微笑む和馬さん。
珍しく反撃できたことに嬉しくなっていると、彼との距離がいっそう縮まってゆく。
アッと思った時には、和馬さんの唇が私の唇に重なっていた。
痛くない程度に吸われると、今度は僅かに甘噛みされた。ヒクリと肩を震わせれば、歯を立てられたところを宥めるように舌先が這う。
まるで壊れ物に触れるように、とにかく優しいキスが繰り返された。
やがて和馬さんの舌が、スルリと私の口内に忍び込んでくる。
いまだ深いキスに慣れていない私を怖がらせないように、舌を重ねながら大きな手が私の頭や肩を優しく撫でた。
私の体から力が抜けきったところで、ようやく彼の舌が私の口内から抜け出した。
「甘酸っぱいですね」
マカロンのクリームのことを言っているのだろう。味が分かるほど深いキスをされたことがたまらなく恥ずかしい。
だけど反撃する余力は、今の私にはこれっぽっちも残されていなかった。
それでもせめてもの意地で睨み上げれば、和馬さんは口の端を楽しそうに上げた。
「さて、確かめさせていただきましょうか」
そう言って、私を横抱きにして立ちあがる。彼は足を進め、そして、迷うことなく寝室へと入っていった。
広いベッドの中央に降ろされ、背中が僅かに沈む。
ボンヤリしていた頭でも、これからの展開は即座に判断できた。
「か、和馬さん?」
私の肩を押さえつけて馬乗りになっている彼に呼びかければ、また口角を上げる。
「私を煽った責任、取ってくださいね」
――煽ってない!私は少しも煽ってない!
しかし、心の叫びは彼に届くことなく。いや、届いていても、まるっと無視をされる。
力の入らない足でジタバタしていると、首を傾けた和馬さんがクスリと笑う。
「どうして恥ずかしがるのです?それとも、明るいリビングであなたを抱いてしまっても良かったのですか?」
それを聞いて、ブルブルと首を横に振った。そんなの、絶対に無理!!
慌てふためく私を見て、和馬さんがまた笑う。
「ユウカのために、わざわざ寝室に移動したのですよ。ほら、私は優しいでしょう?」
そういって笑う彼は、肉食獣そのものだった。
痛くはないけれど、逃げ出すことは出来ない絶妙な力の入れ具合で私の肩を押さえている和馬さん。
寝室の明かりは消えているものの、ベッドヘッドにある小さな明りが灯っていた。だから、近づいてくる彼がどんな表情をしているのかよく見える。
真っ直ぐな意思の強さを表しているスッとした眉。その眉の下にあるのは、切れ長で形の良い目。
それがすごく綺麗だったから、薄闇に浮かぶ彼の表情に見入っていた。
「ユウカ」
その声は、今日聞いた中でも一番の甘さと艶を放っていて、私の心臓がキュウッと切なく締め付けられる。
私は静かに目を閉じた。
私の体に負担がかからない体勢で、和馬さんが覆いかぶさってくる。
そして唇が塞がれると、すぐさま舌が入ってきた。それに対して、またビクッと体が震えてしまう。
いつになったら、私はスマートにキスが出来るようになるのだろうか。
自分のお子様具合に落ち込んでいると、和馬さんの舌が私の舌に絡みついてきた。クチュリという水音を伴った動きに、またしても体がビクッとなった。
嫌なわけでもない。
怖いわけでもない。
ただ、慣れないだけ。和馬さんとこうしてキスをすることを拒んでいるわけではないのだ。
口を塞がれているので、そのことを言葉で伝えることが出来ない。だから私は彼のワイシャツにしがみついた。
そんな私の頭を大きな手で優しく撫でると、和馬さんの舌は静かに後退してゆく。
浅く息を吐いた私は彼の肩口に擦り寄り、改めてワイシャツを握り締める。
すると、和馬さんは声を出すことなく、フッと笑った。
「あなたの可愛らしさは、どうしてこうも私の心臓を貫くのでしょうか。ユウカの仕草だけで、心臓が止まってしまいそうですよ」
耳元に口を寄せ、和馬さんが苦笑まじりに囁く。そして、私の耳にパクリとかじりついた。
「は、んっ。や、やめて……」
ギュッと目を閉じて刺激を堪えるけれど、和馬さん甘噛みをやめるどころか、耳の輪郭に沿って舌先を這わし始めてしまう。
いっそうゾクゾクとした感覚に襲われ、体の震えが止まらない。
いつの間にかボタンが外されていたブラウスは前身ごろが大きく左右に開かれ、サラリとした生地のキャミソールが露わになっている。
彼は鎖骨より少し下の辺りに唇を寄せ、そこにきつく吸い付いた。
「んっ」
チリッとした僅かに刺すような痛みを感じ、ビクン、と私の体が大きく跳ねる。
「綺麗な薄紅色になりましたね。やはり、あのマカロンの色とキスマークの色は同じですよ」
そう言って顔を上げた和馬さんは、その場所をじっくりと指でなぞった。
そうだ、これが目的で寝室に連れ込まれたのだった。でも目的を達成したのだから、もうこれで終わりのはず。
内心ホッと胸を撫で下ろした。
ところが。
和馬さんがまた顔を近づけてきたのだ。しかもキャミソールの襟元を指で引き下げ、さっきよりもきわどい場所に。
唇を強く押し当ててきた彼は、同じように肌を吸い上げる。
「あ、あ、あ、あのっ、か、か、和馬さん?」
慌てて首を起こして彼を見遣れば、上目遣いの和馬さんとバッチリ視線が合う。その目は少しも艶を失ってはいなかった。むしろ、その艶は倍増している。
「え、ええと、マカロンと同じ色だって分かったんですよね?じゃ、じゃあ、もう、終
「いいえ」
即座に否定の言葉が返された。
「な、なんで!?」
上半身を起こした私は、ベッドヘッドの方へとずり上がる。その私をすぐさま追っかけ、押し倒す和馬さん。
わずかに息を呑むと、和馬さんの笑みが深まった。
「ユウカはあのマカロンを味わいましたよね?ですから、今度は薄紅色に染まったユウカを、私が味わってもいいですよね?」
「はい?!」
ギョッと目を見開く私に、和馬さんはクツクツと喉の奥で笑った。
「いいですよね?」
「い、いや、それはっ」
戸惑う私にかまわず、和馬さんは私からキャミソールを素早く引き抜いた。同じように、スカートもストッキングも素早く脱がされてしまう。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「嫌です、待てません」
「そ、そんな!んっ……」
私の抗議の声は彼の唇で封じ込まれ、その後、私は全身くまなく和馬さんに美味しく(?)食べられてしまったのだった。
ということがあり、『マカロン』という言葉を聞くだけであの晩の羞恥が蘇り、食べたいのに食べられないというジレンマに襲われる始末。
「ねぇ。タンポポちゃん、どうしたのよ?なんでマカロンが恥ずかしいの?教えてよ」
「い、いえ、それは……」
心配そうな顔で詰め寄られても、私は言葉を濁すしかない。
留美先輩は優しくて頼りになって、何でも話せる先輩。だけど、これだけは話せないのだ。
――和馬さんのバカーーーーー!
羞恥とジレンマのコンボを食らう私は、心の中で大きく叫んだのだった。
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