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第5章ダイジェスト(1):4
五月も半ばを過ぎ、木々が鮮やかな緑の葉を纏っていた。
日差しを浴びて輝く葉の緑もいいけれど、夕暮れ時もこれまた素敵だと思う。
定時で仕事を終えた私は、会社近くにある公園にいた。まだ社内にいる和馬さんを待ちながら、相棒のカメラで写真を撮っているのだ。
これまでであれば、こんな時間帯にシャッターを切ることはほとんどなかった。
ところが、あえて色味の少ない世界を写真として収めるのも悪くないと、最近になって気が付いた。
たぶん、私が精神的に成長したからこそ、今まで目を向けていなかった世界を感じとることが出来たのだろう。葉を茂らせている桜の木を眺めながら、「桜餅、食べたいな」と思っていたとしても……
満足のいくまで写真を撮ったところで、バッグに入れていたスマートフォンが着信を告げてきた。このメロディーは和馬さんだ。
私が駐車場に向かうと言えば、「いいえ、そこにいてください」と、すごく近いところから、彼の声が聞えてきた。
ビックリして振り返ると、スーツ姿が決まっている和馬さんの姿がそこにある。彼は上着のポケットにスマートフォンをしまって、私へと歩み寄ってきた。
「だいぶ前に仕事は終わっていたんですよ。ですが、夢中になって写真を撮っているあなたが可愛かったので、しばらく眺めていました」
「そ、そう、でしたか……」
ここにいないはずの彼が突如として現れた驚きと、聞かされたセリフの照れくささから、みっともなくどもり口調になる私。
顔を真っ赤にしてスマートフォンを耳に当てたまま固まっている私を、和馬さんが長い腕で抱き締めてくる。
「真っ直ぐ真剣に見つめる視線の先に、私を映し出してもらえたら……。本気で、そう願いましたよ」
優しくて、穏やかで。でも、どこか切なさを漂わせる声音での告白は、私まで苦しくなってしまう。
どうしたらいいか分からくなった私は、スマートフォンを持っていない右手で和馬さんにしがみついた。
そんな私の頭上に、小さな苦笑が降ってくる。
「そろそろ帰りますよ。ああ、そうです。頂き物の桜餅を分けてもらいましたから、食後にどうぞ」
どうやら彼は私の心だけではなく、腹具合まで的確に読み取るスキルがあるようだ。
今夜は外食にしようということで、いつもと違う道を車で走っている。お店に行く途中、夜景がきれいな高台の公園に寄った。
しっかり景色を楽しんで、さぁ、次はピザを楽しむぞと車に乗り込んだ瞬間、私のお腹が盛大に鳴った。
「あ、あの、これは……」
真っ赤な顔でお腹を押さえる私に、和馬さんが優しく微笑んで桜餅のパックを差し出してくる。
「こちらをどうぞ。店に着くまでは、もうしばらくかかりますから」
「でも、桜餅を食べてしまったら、肝心のピザが存分に楽しめなくなりそうで」
すると、和馬さんはスッと目を細めた。
「でしたら、私のキスはいかがでしょうか? 甘いキスをすれば、少しはユウカのお腹も落ちつくかと」
「い、いや、そんなバカな……」
狼狽えているうちに、運転席に座る和馬さんが手を伸ばしてきて私の顎先を捉えると、クイッと上向きにさせた。
そして、抵抗する間もなく、私の唇が彼の唇で塞がれたのだ。
穏やかに舌を絡めて口内を数回くすぐったのちに、キスが解かれる。、
長い腕で小柄な私をギュウッと胸に抱き込み、和馬さんがクスリと笑った。
「いかがです? 甘かったですか?」
「甘かった、ですよ……。とても……」
私がボソボソと答えると、「それはよかったです」という嬉しそうな彼の声に、私の頬がいっそう熱を持った。
顔を伏せて身を小さくしていれば、つむじにキスが落とされる。
「恥ずかしがりながらも答えてくださるユウカは、なんとも可愛らしいですね」
もう一度つむじにキスをした和馬さんが、ふいに真剣な声を出す。
「あなたの無防備な姿は、私からすれば非常に愛おしいものですがね。私以外の人の前でそのような姿を見せるとなると、どうにも心配です」
まったく、和馬さんはなにを心配するというのだ。私の無防備な姿を見たところで、みんなは妹やペットのようにしか思われないだろうに。
「……それなら、私のほうが心配ですよ」
頬も耳も火照らせたまま、私はポツリと呟く。
この春に入社した後輩の女性たちは、一時期のように和馬さんに言い寄ることはなくなった。けれど、まったくなくなったわけではない。
それと、会社の外でだって、和馬さんに目を奪われる女性はたくさんいるのだから。
私に向けてくれる和馬さんの愛情を疑っていないし、たとえ打ち合わせの相手が女性だとしても、それは仕事だから仕方がない。
なのに、悲しいとか寂しいとか、そういったものとはまた違った感情が私の中に芽生えてしまった。
胸がツキツキと僅かな痛みを訴える。ううん、モヤモヤとした嫌な感情が胸の奥に湧き起こった。
――この気持ちって、なんだろう。怒りたいわけでもないし、泣きたいわけでもないしなぁ。
生まれた感情の正体は分からないけれど、よくないものだと感じる。
やりきれない思いがこれ以上大きくならないようにと、無意識で胸の辺りを軽く握った拳で押さえた。
「ユウカ? 急に黙り込んで、どうしたのですか?」
心配そうな声がかけられる。
「あ、いえ。なんでもないです」
私は咄嗟に胸元から手を離し、フルフルと首を横に振って笑ってみせた。
「本当に? キスをしてほしくなったのなら、隠さず、正直に教えてくださいね。すぐに応えてさしあげますから」
「そ、それは、違います」
即答すれば、形の良い彼の眉が片方だけヒョイと上がった。
「おや? 恥ずかしがり屋のあなたのことですから、言いたくても言えないのかと思ったのですが。違うんですか?」
「ええ、まぁ」
どうして、この人はそういう方向に思考が傾くのだろうか。相変わらず、宇宙人的思考回路は謎だ。
曖昧な笑顔を浮かべていると、和馬さんが右手で私の顎先を捉えてツイッと上向きにさせる。
「ユウカは自分の気持ちを押し殺してしまいがちですから、気になったことはなんでも言葉に出してください。いいですね?」
穏やかに微笑みつつも私の目をジッと見つめてくるのは、念を押しているのだろう。
「はい。これからも、言いたいことはきちんと言葉にします。だから、和馬さんも、私に色々言ってくださいね」
「ええ、そうします」
お互いの目を見て、微笑みを交わした。
「そろそろ、お店に行きませんか?」
照れ笑いを浮かべる私に、和馬さんが心配そうに眉を寄せる。
「ですが、空腹のまま車に乗っていると、気分が悪くなることもありますし」
心配してくれるのはありがたいが、やっぱりここで桜餅を食べるのは嫌だ。
そこで、和馬さんがハッとしたようにダッシュボードへと手を伸ばした。
「ああ、そうです。これなら、桜餅ほどお腹に溜まらないですよ」
なんだろうかと彼の動きを見守っていると、中から細長い箱を取り出す。それはポッキーの箱だった。
「この前、妹を車に乗せましてね。その時に、こちらを忘れていったんですよ」
和馬さんには、この春に高校一年生になった妹がいる。写真を撮るのが趣味とのこと。まだ会ったことはないけれど、これならば同じ趣味の話で盛り上がりそうだ。
そのことはとりあえず置いておいて、彼の提案にはすぐに頷けなかった。
勝手に食べてしまったら、『お兄ちゃんの彼女は食いしん坊だ』と、思われてしまわないだろうか。
そんな心配を和馬さんに話すと、
「妹に電話をしましたら、人にあげていいとのことでした。ですから、ユウカは安心して食べてください」
彼は開封したポッキーの箱を手にニコッと笑う。
「そうですか。じゃあ、いただきます」
早速、私は手を伸ばした。
ところが、ポッキーの箱がヒョイっと遠ざけられてしまう。
「え?」
彼の顔を見れば、取り出した一本のポッキーを軽く左右に振って見せてきた。
「ユウカ。ポッキーゲームをしましょうか」
晴れやかな笑顔に、私はポカンとなった。
「…………はい?」
――今、ポッキーゲームって言った?
ポッキーは食べたいけど、ポッキーゲームはお断りだ。恥ずかしいから、普通に食べたい。
隙をついてサッと手を伸ばすけれど、私よりも格段に素晴らしい反射神経の持ち主である和馬さんに敵うはずもない。ポッキーはスッと遠ざけられてしまった。
「なんで、意地悪するんですか! 食べさせてください!」
「意地悪などと、人聞きの悪い。私は食べさせないとは言っていませんよ」
「それが意地悪なんです! それに、和馬さんって甘い物が苦手ですよね。それなのに、ポッキーを食べられるんですか?」
「その点はご心配なく。ユウカがチョコの部分を食べてくだされば大丈夫ですよ」
――チョコの部分って、全体の九割近いですけど?
はたして、それはポッキーゲームなのだろうか。グダグダな攻防の末、結局はポッキーゲームをする羽目になった。だけど、私には秘策があるもんね!
和馬さんがポッキーのプレッツェル部分を銜えてこちらにと身を乗り出してきたので、私は彼の肩に手を置き、向けられている先端を静かに齧る。
ドキドキしながら、一口、また一口と齧ってゆく。
――よし、そろそろかな。
半分ほど進んだところで、私は少しだけ首を動かした。
すると、ポッキーは私と和馬さんの間でポキッと折れてしまう。おかげで、これ以上は和馬さんに接近しないで済むという訳だ。
銜えていたポッキーを指で押し込み、私はモグモグと口を動かす。
「あー、折れちゃいましたねぇ。失敗、失敗」
あまり残念そうではない口調で私が言うと、納得がいかないといった様子の和馬さんは銜えたポッキーを手に取った。
「ユウカにしてやられました。まさか、そのようなことを考えていたとは」
いつもは和馬さんにやられっぱなしの私が、こうやって彼をやり込めることができて、なんだか楽しい。
でも意地悪をしたかったわけじゃなくて、ただ、からかっただけなんだけどね。だから気落ちする和馬さんをこれ以上見ていたくなくて、素直に謝ることにした。
「ごめんなさい。ちょっと、いたずらをしてみたかっただけなんです」
すると、彼は不機嫌な表情を少し和らげる。
「もう一度ポッキーゲームをしてくださったら、あっという間に機嫌が直りますよ」
「え? いいですけど」
軽い調子で了承したのは、また途中で折ればいいやって思っていたから。
「いざゲームが始まって、やっぱりやらないというのは駄目ですよ」
「分かってます。私だってそこまで往生際は悪くないですし、やりますって」
「本当ですね?」
やたらと念を押してくる彼の様子に内心首を傾げるが、私はまた大きく頷いた。
「では……。折りたければ、どうぞ」
そう言って、和馬さんは手にしていたポッキーを自分で折ってしまう。……ポッキーとプレッツェルの境目を。
なんだろうかと目を瞠る私の前で彼がチョコの部分を箱に戻し、なおかつプレッツェルを銜えたものだから、さらに目を大きくしてしまった。
「ええっ!」
目を真ん丸にした私が固まっていると、和馬さんが左腕を私の背中に回してグッと引き寄せる。そして、右人差し指で私の唇をトントンと叩き、早くしろと促してくる。
――そんなの、すぐに唇が当たっちゃうよーーー!
「そ、それは、無理! 無理ですって!」
逞しい胸に手を着いて突っぱねるが、それ以上の力で抱き寄せられ、さらに唇をノックされる。
お互いの鼻先がぶつかる距離で浴びる彼の視線は、微笑んでいるのに目が笑っていなかった。例の反論を許さない笑みである。
おまけに『さっき、言いましたよね? やりますって』というセリフがありありと聞こえてきそうなほど、視線が訴えている。
――からかったりして、ごめんなさい! お願いします、許してーーー!
もちろん、私の心の声は無視された。
いつの間にか右手が私の後頭部を捉えていて、ガッチリ抱すくめられている私は身じろぎどころか、顔を動かすことさえままならなかった。
「ひぇぇっ」
真っ赤な顔で間抜けな声を上げた瞬間、和馬さんが銜えるプレッツェルが私の唇に当たる。
それとほぼ時を同じくして、彼の唇が私の唇に重なった。
和馬さん。これ、ポッキーゲームじゃないです……
日差しを浴びて輝く葉の緑もいいけれど、夕暮れ時もこれまた素敵だと思う。
定時で仕事を終えた私は、会社近くにある公園にいた。まだ社内にいる和馬さんを待ちながら、相棒のカメラで写真を撮っているのだ。
これまでであれば、こんな時間帯にシャッターを切ることはほとんどなかった。
ところが、あえて色味の少ない世界を写真として収めるのも悪くないと、最近になって気が付いた。
たぶん、私が精神的に成長したからこそ、今まで目を向けていなかった世界を感じとることが出来たのだろう。葉を茂らせている桜の木を眺めながら、「桜餅、食べたいな」と思っていたとしても……
満足のいくまで写真を撮ったところで、バッグに入れていたスマートフォンが着信を告げてきた。このメロディーは和馬さんだ。
私が駐車場に向かうと言えば、「いいえ、そこにいてください」と、すごく近いところから、彼の声が聞えてきた。
ビックリして振り返ると、スーツ姿が決まっている和馬さんの姿がそこにある。彼は上着のポケットにスマートフォンをしまって、私へと歩み寄ってきた。
「だいぶ前に仕事は終わっていたんですよ。ですが、夢中になって写真を撮っているあなたが可愛かったので、しばらく眺めていました」
「そ、そう、でしたか……」
ここにいないはずの彼が突如として現れた驚きと、聞かされたセリフの照れくささから、みっともなくどもり口調になる私。
顔を真っ赤にしてスマートフォンを耳に当てたまま固まっている私を、和馬さんが長い腕で抱き締めてくる。
「真っ直ぐ真剣に見つめる視線の先に、私を映し出してもらえたら……。本気で、そう願いましたよ」
優しくて、穏やかで。でも、どこか切なさを漂わせる声音での告白は、私まで苦しくなってしまう。
どうしたらいいか分からくなった私は、スマートフォンを持っていない右手で和馬さんにしがみついた。
そんな私の頭上に、小さな苦笑が降ってくる。
「そろそろ帰りますよ。ああ、そうです。頂き物の桜餅を分けてもらいましたから、食後にどうぞ」
どうやら彼は私の心だけではなく、腹具合まで的確に読み取るスキルがあるようだ。
今夜は外食にしようということで、いつもと違う道を車で走っている。お店に行く途中、夜景がきれいな高台の公園に寄った。
しっかり景色を楽しんで、さぁ、次はピザを楽しむぞと車に乗り込んだ瞬間、私のお腹が盛大に鳴った。
「あ、あの、これは……」
真っ赤な顔でお腹を押さえる私に、和馬さんが優しく微笑んで桜餅のパックを差し出してくる。
「こちらをどうぞ。店に着くまでは、もうしばらくかかりますから」
「でも、桜餅を食べてしまったら、肝心のピザが存分に楽しめなくなりそうで」
すると、和馬さんはスッと目を細めた。
「でしたら、私のキスはいかがでしょうか? 甘いキスをすれば、少しはユウカのお腹も落ちつくかと」
「い、いや、そんなバカな……」
狼狽えているうちに、運転席に座る和馬さんが手を伸ばしてきて私の顎先を捉えると、クイッと上向きにさせた。
そして、抵抗する間もなく、私の唇が彼の唇で塞がれたのだ。
穏やかに舌を絡めて口内を数回くすぐったのちに、キスが解かれる。、
長い腕で小柄な私をギュウッと胸に抱き込み、和馬さんがクスリと笑った。
「いかがです? 甘かったですか?」
「甘かった、ですよ……。とても……」
私がボソボソと答えると、「それはよかったです」という嬉しそうな彼の声に、私の頬がいっそう熱を持った。
顔を伏せて身を小さくしていれば、つむじにキスが落とされる。
「恥ずかしがりながらも答えてくださるユウカは、なんとも可愛らしいですね」
もう一度つむじにキスをした和馬さんが、ふいに真剣な声を出す。
「あなたの無防備な姿は、私からすれば非常に愛おしいものですがね。私以外の人の前でそのような姿を見せるとなると、どうにも心配です」
まったく、和馬さんはなにを心配するというのだ。私の無防備な姿を見たところで、みんなは妹やペットのようにしか思われないだろうに。
「……それなら、私のほうが心配ですよ」
頬も耳も火照らせたまま、私はポツリと呟く。
この春に入社した後輩の女性たちは、一時期のように和馬さんに言い寄ることはなくなった。けれど、まったくなくなったわけではない。
それと、会社の外でだって、和馬さんに目を奪われる女性はたくさんいるのだから。
私に向けてくれる和馬さんの愛情を疑っていないし、たとえ打ち合わせの相手が女性だとしても、それは仕事だから仕方がない。
なのに、悲しいとか寂しいとか、そういったものとはまた違った感情が私の中に芽生えてしまった。
胸がツキツキと僅かな痛みを訴える。ううん、モヤモヤとした嫌な感情が胸の奥に湧き起こった。
――この気持ちって、なんだろう。怒りたいわけでもないし、泣きたいわけでもないしなぁ。
生まれた感情の正体は分からないけれど、よくないものだと感じる。
やりきれない思いがこれ以上大きくならないようにと、無意識で胸の辺りを軽く握った拳で押さえた。
「ユウカ? 急に黙り込んで、どうしたのですか?」
心配そうな声がかけられる。
「あ、いえ。なんでもないです」
私は咄嗟に胸元から手を離し、フルフルと首を横に振って笑ってみせた。
「本当に? キスをしてほしくなったのなら、隠さず、正直に教えてくださいね。すぐに応えてさしあげますから」
「そ、それは、違います」
即答すれば、形の良い彼の眉が片方だけヒョイと上がった。
「おや? 恥ずかしがり屋のあなたのことですから、言いたくても言えないのかと思ったのですが。違うんですか?」
「ええ、まぁ」
どうして、この人はそういう方向に思考が傾くのだろうか。相変わらず、宇宙人的思考回路は謎だ。
曖昧な笑顔を浮かべていると、和馬さんが右手で私の顎先を捉えてツイッと上向きにさせる。
「ユウカは自分の気持ちを押し殺してしまいがちですから、気になったことはなんでも言葉に出してください。いいですね?」
穏やかに微笑みつつも私の目をジッと見つめてくるのは、念を押しているのだろう。
「はい。これからも、言いたいことはきちんと言葉にします。だから、和馬さんも、私に色々言ってくださいね」
「ええ、そうします」
お互いの目を見て、微笑みを交わした。
「そろそろ、お店に行きませんか?」
照れ笑いを浮かべる私に、和馬さんが心配そうに眉を寄せる。
「ですが、空腹のまま車に乗っていると、気分が悪くなることもありますし」
心配してくれるのはありがたいが、やっぱりここで桜餅を食べるのは嫌だ。
そこで、和馬さんがハッとしたようにダッシュボードへと手を伸ばした。
「ああ、そうです。これなら、桜餅ほどお腹に溜まらないですよ」
なんだろうかと彼の動きを見守っていると、中から細長い箱を取り出す。それはポッキーの箱だった。
「この前、妹を車に乗せましてね。その時に、こちらを忘れていったんですよ」
和馬さんには、この春に高校一年生になった妹がいる。写真を撮るのが趣味とのこと。まだ会ったことはないけれど、これならば同じ趣味の話で盛り上がりそうだ。
そのことはとりあえず置いておいて、彼の提案にはすぐに頷けなかった。
勝手に食べてしまったら、『お兄ちゃんの彼女は食いしん坊だ』と、思われてしまわないだろうか。
そんな心配を和馬さんに話すと、
「妹に電話をしましたら、人にあげていいとのことでした。ですから、ユウカは安心して食べてください」
彼は開封したポッキーの箱を手にニコッと笑う。
「そうですか。じゃあ、いただきます」
早速、私は手を伸ばした。
ところが、ポッキーの箱がヒョイっと遠ざけられてしまう。
「え?」
彼の顔を見れば、取り出した一本のポッキーを軽く左右に振って見せてきた。
「ユウカ。ポッキーゲームをしましょうか」
晴れやかな笑顔に、私はポカンとなった。
「…………はい?」
――今、ポッキーゲームって言った?
ポッキーは食べたいけど、ポッキーゲームはお断りだ。恥ずかしいから、普通に食べたい。
隙をついてサッと手を伸ばすけれど、私よりも格段に素晴らしい反射神経の持ち主である和馬さんに敵うはずもない。ポッキーはスッと遠ざけられてしまった。
「なんで、意地悪するんですか! 食べさせてください!」
「意地悪などと、人聞きの悪い。私は食べさせないとは言っていませんよ」
「それが意地悪なんです! それに、和馬さんって甘い物が苦手ですよね。それなのに、ポッキーを食べられるんですか?」
「その点はご心配なく。ユウカがチョコの部分を食べてくだされば大丈夫ですよ」
――チョコの部分って、全体の九割近いですけど?
はたして、それはポッキーゲームなのだろうか。グダグダな攻防の末、結局はポッキーゲームをする羽目になった。だけど、私には秘策があるもんね!
和馬さんがポッキーのプレッツェル部分を銜えてこちらにと身を乗り出してきたので、私は彼の肩に手を置き、向けられている先端を静かに齧る。
ドキドキしながら、一口、また一口と齧ってゆく。
――よし、そろそろかな。
半分ほど進んだところで、私は少しだけ首を動かした。
すると、ポッキーは私と和馬さんの間でポキッと折れてしまう。おかげで、これ以上は和馬さんに接近しないで済むという訳だ。
銜えていたポッキーを指で押し込み、私はモグモグと口を動かす。
「あー、折れちゃいましたねぇ。失敗、失敗」
あまり残念そうではない口調で私が言うと、納得がいかないといった様子の和馬さんは銜えたポッキーを手に取った。
「ユウカにしてやられました。まさか、そのようなことを考えていたとは」
いつもは和馬さんにやられっぱなしの私が、こうやって彼をやり込めることができて、なんだか楽しい。
でも意地悪をしたかったわけじゃなくて、ただ、からかっただけなんだけどね。だから気落ちする和馬さんをこれ以上見ていたくなくて、素直に謝ることにした。
「ごめんなさい。ちょっと、いたずらをしてみたかっただけなんです」
すると、彼は不機嫌な表情を少し和らげる。
「もう一度ポッキーゲームをしてくださったら、あっという間に機嫌が直りますよ」
「え? いいですけど」
軽い調子で了承したのは、また途中で折ればいいやって思っていたから。
「いざゲームが始まって、やっぱりやらないというのは駄目ですよ」
「分かってます。私だってそこまで往生際は悪くないですし、やりますって」
「本当ですね?」
やたらと念を押してくる彼の様子に内心首を傾げるが、私はまた大きく頷いた。
「では……。折りたければ、どうぞ」
そう言って、和馬さんは手にしていたポッキーを自分で折ってしまう。……ポッキーとプレッツェルの境目を。
なんだろうかと目を瞠る私の前で彼がチョコの部分を箱に戻し、なおかつプレッツェルを銜えたものだから、さらに目を大きくしてしまった。
「ええっ!」
目を真ん丸にした私が固まっていると、和馬さんが左腕を私の背中に回してグッと引き寄せる。そして、右人差し指で私の唇をトントンと叩き、早くしろと促してくる。
――そんなの、すぐに唇が当たっちゃうよーーー!
「そ、それは、無理! 無理ですって!」
逞しい胸に手を着いて突っぱねるが、それ以上の力で抱き寄せられ、さらに唇をノックされる。
お互いの鼻先がぶつかる距離で浴びる彼の視線は、微笑んでいるのに目が笑っていなかった。例の反論を許さない笑みである。
おまけに『さっき、言いましたよね? やりますって』というセリフがありありと聞こえてきそうなほど、視線が訴えている。
――からかったりして、ごめんなさい! お願いします、許してーーー!
もちろん、私の心の声は無視された。
いつの間にか右手が私の後頭部を捉えていて、ガッチリ抱すくめられている私は身じろぎどころか、顔を動かすことさえままならなかった。
「ひぇぇっ」
真っ赤な顔で間抜けな声を上げた瞬間、和馬さんが銜えるプレッツェルが私の唇に当たる。
それとほぼ時を同じくして、彼の唇が私の唇に重なった。
和馬さん。これ、ポッキーゲームじゃないです……
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