黒豹注意報

京 みやこ

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第5章ダイジェスト(2):1

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 五月の下旬ともなると、だんだん日中の気温が上がってくる。
寒がりな私にしてみれば、温かくなることは非常にありがたい。早く夏になってくれないかなと、ワクワクと心待ちにしてくらいである。
 でも、冬はアツアツで美味しいものがたくさんあるから、嫌いに離れない。
 おっと、またしても食べ物のことばかりに意識がいってしまった。すぐに食べ物の事を考えてしまうところを直せればいいのにと思う。そうすれば、ダイエットだって成功するだろうに。
 なかなか理想通りのスタイルにはなれないが、せめて現状維持をしなくては。
 そうでなければ、『運動が足りてないのでは? では、一晩かけて、じっくり運動しましょう。……寝室でね』という提案を和馬さんがすかさず持ち出してきますから!
 思い出したら、頭のてっぺんから湯気が噴き出してきた。
「うわぁ、もう!」
 短く叫んで、バンとデスクを叩く。その音にハッと我に返った。
 顔を上げて周囲を素早く見渡せば、まだ昼休憩に入っていない数人の同僚たちと目が合った。
 気まずさを浮かべつつ、こちらを見ている人たちに頭をペコペコと下げる。
「あの、大丈夫ですか?」
 仲の良い後輩が小走りに寄ってきて、心配そうに声をかけてきた。
 私は慌てて笑顔を作る。
「ちょっと仕事が煮詰っちゃって、つい、声に出ちゃっただけ。気にしないでいいから、お昼ご飯、食べた方がいいよ」
 ヘラリと笑って、彼女の背中を優しく追いやった。
 彼女は私を気にしながら何度も振り返っていたけれど、やがて持参したお弁当を手に総務部を出ていった。
――私ったら、なにをやってんだろう。
 ハァとため息を零し、また苦く笑う。
 実際に声を出してしまったのは仕事が原因ではないけれど、煮詰っているのは本当だ。煮詰り過ぎて、違うことを考えてしまったのだ。
 だからといって和馬さんとのことを思い出すなんて、仕事中なのに大失敗である。
「これ以上考え込んでも、いい案が浮かんできそうにないなぁ。よし、私もお昼ご飯にしようっと」
 腕を大きく上げて背筋を伸ばすと、中途半端なところで止まっていたデータを保存して席を立った。

 お弁当を持って、いつもの公園に向かう。
「さてと、いただきます」
 パチンと手を合わせて、モリモリとお弁当を食べ進める。
 ダイエットも大事だけど、お昼ご飯をしっかり食べておかないと、午後の仕事に差し支えるからね。食べることも仕事の内ってことで。えへへ。
 お弁当の中身を綺麗に食べ終え、水筒から麦茶を注いでゴクンと飲み干す。
「我ながら、今日のお弁当も美味しかったぁ」
 満足げに大きく息を吐いた。
 自画自賛なんて笑われるだろうが、自分の好みに合わせて作った料理はやっぱり美味しい。
 それもあるだろうが、これまでにも増して料理に熱を注ぐ様になったため、腕が上がっていると思う。
 私の手料理を楽しみにしてくれている和馬さんのためにも、もっと上達したいという気持ちがある。和馬さんの『美味しいですよ』という言葉が聞きたいがために、日々、頑張っているのだ。
「レーズンを入れたカボチャサラダは初めて作ったけど、なかなかいい味だったよなぁ。近いうちに、和馬さんに作ってあげよっと」
 お弁当箱と水筒を手提げに仕舞いながら、そんなセリフが自然に口から零れた。
 その時。
「では、早速今夜にでも作っていただけますか?」
 耳に心地よい美声が間近で聞こえたかと思うと、後ろから黒いスーツを纏った長い腕が伸びてきて、ギュッと抱き締められる。
「えっ?」
 ビックリして右肩越しに振り返れば、ニッコリ笑う和馬さんと目が合った。
――い、いつの間に!?
 ピクッと肩が震え、続いて私の口から大きな悲鳴が……、零れることはなかった。
 お弁当を食べながら、昼休みに入る前の出来事を反省していた私。いくら恋愛経験値が低いとはいえ、和馬さんの言動にいちいち驚きすぎではないだろうかと思ったのだ。
 見た目やスタイルはそう簡単に変わらないけれど、せめて内面からでも少しずつ大人の女性に近付きたい。
 そう考えた私は、とりあえずむやみやたらに騒ぎ立てないように気をつけようと決めたのだ。余裕がある人って、大人って感じがするからね。
 そういう訳で、寸でのところで悲鳴を飲み込んだのだった。
 そんな私に、和馬さんは不思議そうな顔をしてくる。
「おや? あまり驚いてはくださらないようですね。せっかく気配を消して、ユウカの後ろに回り込んだというのに」
――気配を消すとか、普通の恋人同士だったら、しないと思うんですけど……
 残念そうに呟きながら苦笑する彼に、私もなんとか笑みを返す。いくらか引き攣っていただろうが、今回は悲鳴を上げなかっただけでも褒めてほしい。
 こっそり深呼吸を繰り返し、「落ち着け、落ち着け」と自分に言い聞かせる。
 ようやく心臓のドキドキが少し落ち着いたところで、和馬さんに話しかけた。
「お疲れ様です。こんなところで、どうしたんですか? 社長に頼まれて、近くのコンビニまで買い出しですか?」
「いえ、違います。ユウカに会いに来たんですよ。確かに社長から頼みごとをされましたが、本来の目的はあなたですから」
 切れ長の目を細める彼の様子に、私の笑顔は微妙なものになる。
 本来ならば、私がオマケなのだ。なにしろ彼は社長第一秘書なのだから、上司である社長をないがしろにしてはいけないのだ。
 私と社長のどちらがオマケかということは置いておいて、和馬さんに抱き締められているこの状況を心配するべきだ。
 立っている時に正面から抱き締められる場合は、身長差があるので顔の位置がけっこう離れている。
 ところが今はベンチに座っている私を、中腰になっている彼が後ろから抱き締めているのだ。さっき彼が頬にキスしたように、顔の位置はほぼ同列。しかも近い。
 必死に平常心を保とうと心がけるものの、顔も耳も赤くなっているはず。恥ずかしさのあまり、彼の腕から逃げ出すのも時間の問題だ。
「あ、あの、和馬さん。いつまで、このかっこうでいるんですか?」
 お弁当箱が入った手提げの持ち手をモジモジと弄りながら声をかける。
 そこで、なぜか彼がいっそう強く抱きしめてきた。
「そうですね、ユウカが逃げ出すことを諦めるまで、でしょうか」
 今日は左側にシュシュで纏めた髪を流しているので、右耳は無防備なのだ。そんな耳に唇が触れんばかりの至近距離で囁くものだから、どうしたって顔から火が出そうなほど心臓が暴れてしまう。
 そういう理由のほかに、逃げ出したいと考えていたことが見抜かれていたので、これにもドキッとしたのだが。
 それでも、『大人の女性たるもの、余裕をみせるべし!』という言葉が頭の中でグルグルと回っていた。 
――落ち着け、私。大丈夫、私はやれば出来る子なんだから!
 すうっと大きく吸った息をゆっくりと吐き出してから、私はクスッと笑った。
「私が逃げたいなんて、思うはずないですよ」
 さも平然さを装って(今さら感は拭えないけれど)、私は自分に回されている彼の腕をポンポンと軽く叩いた。
 そこで、すかさず和馬さんが口を開く。
「本当に、逃げたいとは思っていないんですね?」
 さっきよりも幾分低い声で問い掛けてきた。
 内心ギクリ、としつつも、私はポンポンと彼の腕を叩き続ける。
「恋人に抱き締められているのに、逃げたいと思う人なんていませんからね」
 フフッと小さく笑い、今度は私のお腹の辺りで交差している和馬さんの手をキュッと握った。
「思いがけなく和馬さんに会えて、私は嬉しいですよ」
――どうよ。この、余裕のある態度。
 落ち着いた態度で、しかも、気持ちを自然に口にする。これはまさに『大人の女性』ではないだろうか。
――やった、出来た。これで私も、少しは大人の女性らしく見えるよね。
 と、喜んだのもつかの間。
 こともあろうに、和馬さんが私の右耳をペロッと舐めてきたのだ。
「ひゃっ!」
 慌てて手で口を押えるけれど、出してしまった声は戻らない。
 せっかく落ち着いた態度で和馬さんと接してきたのに、ここに来て失敗だ。
 いや、いきなり耳を舐められて、驚かない人はいないだろう。ならば、これはノーカウント。失敗の内には入らないってことで。
 スーハーと深呼吸を繰り返して、心臓を宥める。
 ところが、和馬さんのいたずらはまだ終わっていなかったのだ。
 しばらく私の耳を刺激していた和馬さんの唇は、耳の付け根に移動した。そこに唇を押し当て、チュッと吸い付く。
 この程度の力加減なら痕になることはないだろうが、もう少し強く吸われたら、キスマークが付いてしまう。
 髪を下ろしてしまえば隠せるだろうが、キスマークを意識せずに仕事ができる気がしない。そうなれば、目ざとい留美先輩にバレてしまう。
 洗いざらい薄情させられて、恥ずかしい思いをするか。
 もしくは、なにも言わない先輩にニヤニヤと見守られ、恥ずかしい思いをするか。
 結局のところ、キスマークを付けられたら、どのみち恥ずかしい思いをすることになるのだ。
 それは困る。断じて困る。大人の女性初心者の私は、上手く誤魔化せるスキルをまだ習得していない。
「や、やめて、ください。和馬さん、お願い……」
 彼の手を強く握り締め、涙が滲み始めた目をギュッと閉じて必死に声をかける。
 そこで、ようやくいたずらがとまった。
「すみません。少々、やり過ぎたようですね」
 和馬さんは私に回していた腕を解くと、ベンチをグルリと回ってくる。俯いている私の左隣に腰を掛け、右腕で優しく私の肩を抱き寄せてきた。
「ユウカ、なにかありましたか? 先ほどのあなたは、いつもと様子が違いましたよ」
「え? 別に、私は、なにも……」
 羞恥から立ち直り切れていない私は、顔を伏せてモゴモゴと呟いた。
「では、私の目を見なさい」
 ここまで言われて俯き続ければ、嘘をついていると態度で示していることになる。私は恐る恐る視線を上げた。
「ええと、それは、その……。なんと言いますか……」
 小さく息を呑んだ私は、しどろもどろになりながらも、必死に頭を巡らせる。
 『大人の女性とは、余裕がある人のことだ』という自論を口にするのは、ちょっと恥ずかしかった。
「心配かけて、ごめんなさい。本当に、疲れているだけなんです」
「そういうことでしたか。まったく、あなたは頑張り過ぎです。仕事に励むユウカは素敵ですが、何事も『過ぎる』のは、よくありませんよ」
 俯く私の肩をさらに抱き寄せ、和馬さんが自身の頬を私の頭に乗せる。
「そんなに疲れているようでしたら、後で甘い物を差し入れしますよ。プリンがいいですか? それとも、チョコレートがいいでしょうか。今日は気温が上がっていますし、アイスにしましょうか」
 私を心配するセリフと、こちらを甘やかす仕草に、良心がギリギリと締め付けられる。
 それでも本当のことを告げるのは気恥ずかしいので、ひたすら俯き続けた。
「だ、大丈夫です。ご心配なく」
 すると、和馬さんは私のつむじにキスを落とす。
「なにを言うのですか。恋人である私が、あなたを心配するのは当然ですよ。さぁ、遠慮しないで、食べたいものを言ってください。シュークリームがいいですか? ああ、和菓子もいいですね。あんこがたっぷり入った大福はいかがです?」
 好物のオンパレードに、ゴクリと喉が鳴る。
 しかし、その提案には頷けない。ダイエットを心がけているのに、それでは台無しである。
「いえ、あの、本当に大丈夫です。机の引き出しに飴が入っているので、甘い物はそれで十分です」
 そう断りを入れれば、彼が嬉々とした声で言った。
「つまり、差し入れよりも、私とのキスを希望するということですね」
「はぁっ!?」
 あまりに突拍子もない言葉に、私は思わずガバッと顔を上げる。
「な、な、なにを言ってるんですか!?」
「なにをって。先日、ユウカが言ったではありませんか。私とのキスは甘いと、確かにそう言いましたよ」
「で、で、で、でもっ。歩道を歩く人からは、見えちゃうかもしれませんし! 社会人として、まして、自分が勤める会社の近くて、そういうことをしてはいけないと思います!」
 なんとか回避しようと懸命に説得しようとすれば、鼻先が触れそうな距離で和馬さんが声もなく笑った。
「ユウカ。『心頭滅却すれば、火もまた涼し』と言うではありませんか。私たち以外の人間がこの世界にいないと思えば、見られて恥ずかしいと感じる気持ちも消えますよ」
――ああ、なるほど。心頭滅却すれば……
「って、消える訳ないですよ! 馬鹿なことを言わないでください! うわぁん、はーなーしーてーーー!」
 余裕たっぷりな大人の女性になってみせるという決意は、一時間も経たずに木端微塵となった。

 なんだかんだの攻防の末、キスは阻止しました
「……そんなにも、私とのキスは嫌なのですか?」
 声を落とし、寂し気な視線を向けてくる和馬さん。あるはずのない犬耳と犬しっぽがヘショリとなっている幻影が見えそうなほどである。
 こちらの同情心にがっつり訴えかけてきたけれど、そこは流されませんからね! なんたって、この人の本性は従順なワンコじゃなくて、獰猛な黒豹ですから!
「和馬さんとキスをするのが嫌なんじゃなくて、場所が問題なんですってば」
「ユウカの愛らしさが、私の理性を狂わせるのです。それでも、無体を働いてあなたを泣かせるつもりはありませんよ」
――ほんの少し前に、無理やり迫ってきた人が言うセリフじゃないですよね!
 ムウッと不機嫌たっぷりにむくれていれば、私の唇を和馬さんの右人差し指がチョンと突っつく。
「わっ」
 大げさに驚いて仰け反る私を、彼がクスクスと笑う。
「よかった。それでこそ、いつものユウカです」
 どうやら、余裕のある大人の女性バージョンの私(まだ習得していないけど)は、彼のお気に召さなかったらしい。
 だけど、自分なりに目指すイメージがある私としては、もう少し頑張ってみようと思う。もちろん、和馬さんには内緒で。
 そう決意した時、「ユウカ?」と驚くべきタイミングで和馬さんが名前を呼んでくる。
 この人、本当に読心術をマスターしているのではないだろうか。勘がいいと言える範疇では収まらない気がする。
「な、なんですか?」
 ドキドキしながら返事をすれば、「私は、あなたの魅力的な部分をたくさん知っています」と言われた。
「中でも、最大の魅力は素直なところですよ」
「……え?」
 視線を上げれば、意味ありげに笑っている和馬さんと目が合った。
「素直なユウカは、恋人である私に隠し事なんてしないですよね」
「は、はい! もちろんです!」
 咄嗟に返事をしたけれど、声が見事に裏返ってしまった。
――うっ、これはバレてる?
 私はビクビクしながら、彼の反応を待った。
 ところが。
「さて、そろそろ会社に戻りましょうか。間もなく昼休みが終わりますよ」
 穏やかな口調で、そう言っただけ。
――あ、あれ? バレて……ないの?
 これほどまでに勘のいい和馬さんが、どうしたのだろうか。いやいやいや、バレていない方がありがたいんだけどね。
 藪をつついて蛇を出すことにならないように、私は「そうですね」と返すに留めた。
 やたらにいい笑顔を浮かべている彼の様子が心配になるが、ここで気にしたら絶対にボロが出るだろう。
 誤魔化せる自信がこれっぽっちもない私にとって、余計なことを言わないことが一番の得策なのである。

 内心ハラハラしながらベンチから立ち上がったところで、私はあることを思い出す。
「和馬さん。社長に頼まれて、コンビニに行こうとしていたんですよね」
 彼が現れてから中座することもなかったし、手には買い物袋を持っていない。つまり、まだ用事を済ませていないという訳だ。
 社長秘書が、社長からの頼まれごとを放棄していいはずがない。
 チラリと腕時計に視線を落とせば、午後の始業時間までは十分弱しかない。それでも足が速くて体力のある彼が走れば、大幅な遅刻をしないで済む。
「あのっ、今からでも行ってきた方がいいですよ! 私は和馬さんが少し遅れることを、社長に話してきますから!」
 社長室までひとっ走り、と意気込んだ瞬間。手提げを持っている方の手を、やんわりと掴まれた。
「社長の用事など、どうでもいいのですよ。まったく。あなたの気遣いは、余すとことなく私だけに向けられるべきですのに。……後ほど、社長を一蹴りしておきますか」
 ボソボソと低い声が降ってきた。
 小さな声なので聞き取れず、見上げて首を傾げる。
「あ、あの、ともかく買い物を」
「心配しなくても大丈夫ですよ。あなたに会う前に、買い物は済ませてきましたから」
 差し出された大きな手の平の上には、パッケージされた単三の乾電池が。
「なんだ、そういうことだったんですね」
 ヘラッと苦笑いを浮かべる私に、彼もクスリと笑みを零す。
「それはそうと、ユウカに気遣われる社長が心底腹立たしいですね。一蹴りでは怒りが収まりそうにありません」
「……はい?」
 またしても、彼から不穏な空気が漂ってきた。
「和馬さん。どうしたんですか?」
 私の呼びかけには答えず、口元に手を当てた彼がブツブツと呟き続ける。
「いっそ、亡き者にしてしまいましょうか。……いえ、社長がいてくださらないと、社長室にインタビューに来るユウカと会えなくなってしまいますね。仕方がないので、生かしておきますか」
 なんだか、とんでもない独り言が繰り広げられていますけど!?
「あ、あ、あ、あのっ、和馬さん! 和馬さん!」
 呼びかけても、地面を見つめている彼が顔を上げることはない。私から視線を逸らし、ひたすら独り言を続ける。
「ああ、そうですね。私が社長になれば、インタビューの時間にあなたを独占できます。やはり、生かしておくべきではありませんね」
「和馬さんってば!!」
 ドンドンと彼の胸を拳で叩くと、ようやく顔を上げた彼と目が合った。
「ユウカ、どうしました?」
 不思議そうな顔をして私を見つめる彼の胸を改めて叩いてやる。
「どうしました、……じゃないです! 社長に対して、ひどいことを言ってましたよ!」
「おや、そうでしたか? まぁ、これも冗談のうちですから、そんなに怒らないでください。それから、怒ったユウカが可愛いので、キスをしてもいいですか?」
「冗談でも、言っていいことと悪いことがあります! それと、どさくさに紛れて、訳の分からないことを言わないでください!」
 基本的に紳士な態度を崩さない彼が、どうして社長に対しては辛辣なのだろうか。
 仲がいいからこそ言いたい放題ができるのかもしれないけれど、それにしたって、社長がかわいそうになってくる。
 社長。近いうちにカボチャサラダを差し入れしますから、和馬さんに負けないでくださいね。
 こんなやり取りをしているうちに、午後の始業時間ギリギリになってしまった。
 これでは、私がどんなに速く走っても間に合わないかもしれない。
 そうなると……、和馬さんが私を横抱きにして全力疾走した。
 どさくさに紛れて和馬さんが私のホッペにキスをしたけれど、とりあえず始業一分前に通用口に到着。総務部は一階だから、小走りで向かえば滑り込みセーフだろう。二人で慌ただしく廊下を進む。
 総務部と社長室の分岐点にやってくると、風に煽られて乱れた前髪を和馬さんが直してくれた。
「ありがとうございます。どうぞ、和馬さんも早く行ってください」
 私の言葉に、和馬さんは爽やかな笑みを浮かべる。 
「では、これから社長に引導を渡してきます」
「渡すのは、電池だけにしておいてくださいね!?」
 ことさら楽しそうに言ってきたセリフは、それこそ冗談なのだろうと、私はしきりに自分へと言い聞かせたのだった。
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