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- 肆 -
思いがけない寵
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次の日の夜も、綉葩は寝所へと呼ばれた。
続けてなど、初めてのことだった。
「綉葩さまは近頃いっそう美しくなられましたから」
筆頭侍女の黄汐諾が誇らしそうに言う。
「皇上もお気づきになられたのでしょう」
後宮でもかなり古参の女官だが、この国の習慣に不慣れな綉葩の教育係兼お目付け役として、側仕えに抜擢された中年の女性だ。
つまりは、綉葩自身の望みや幸せを思って、喜んでいるわけではない。
辺境から来た田舎者を、皇帝が気に入るほどの女性に仕込めたとあれば、己の評判があがる。
それが嬉しいのだ。
「美しく……?」
誉め言葉にぴんとこない綉葩が鸚鵡返しに訊くと、頷いた。
「愛されることで、女性としての華がお開きになられたのでしょう。肌をよりお磨きになられるよう、新しい薬湯を調合させましょう」
あの爺のために肌を磨くなど……と言いかけ、やめた。
もしも薄衣で隔てていたとしても、皮膚の感触を煕佑が感じてくれているのなら。
心地よい肌触りを彼に与えるためなら、そうするのも悪くないように思えた。
それから一週間、寝所へと呼ばれ続けた。
つまり、煕佑とも毎日会うことができた。
「今日はずいぶん、お顔の色がいいようだ」
トン、トン。
「いつもこんな風に、お身体の調子が良ければいいのになあ」
トン、トン。
「皇上もさぞかしお喜びだろう」
スゥ。
そんな他愛もないやり取りが繰り返される時間が来ることを、いつしか綉葩は何時間も前から楽しみにするようになった。
しかしそうなってくると反面、続く後の時間がいよいよ苦痛になってきた。
長い夜のあいだ執拗に弄ばれ、くたくたになった身体で、迎えに来た煕佑に身体を預けるとこには、自分の汚れを彼に押しつけているような気にさえなった。
煕佑でさえ、疲れ切った様子の綉葩を気遣ってか、そのときには独り言さえ口にしないほどだ。
食はどんどん細くなり、椅子に座っているだけでも疲れるようになった。
結局、薄暗い寝室にこもりきりになり、ほとんどの時間を横になって過ごすようになった。
寝台の枕元のすぐ脇には、小さな透かし窓があった。
硝子の代わりに、精巧な葉の透かし彫りの木枠が全面に施された窓は、その隙間から庭が見えるようになっている。
それが手の込んだ物なのはわかるが、今の綉葩には、この狭まった世界の象徴であるようにしか思えない。
夢に見るのは故郷の広い空。満天の星。砂漠から吹く乾いた風。
せめてこの窓の向こう、庭を歩くことができたなら。
自分の動きがままならないことを、綉葩はますます気に病むようになっていた。
弱っていることが伝わったのか、皇帝からの夜伽の要請はぴたりと止んだ。
つまり煕佑にも、会えなくなった。
綉葩の心はいよいよ内に籠り、身体は骨が浮くようになった。侍女たちなど、死期が近いのではないかと囁き合う始末だ。
そんな折だった。
真夜中、誰もが寝静まった時間。
窓の向こうから、かすかな声が聞こえた。
「綉葩さま」
煕佑の声だった。
綉葩は飛び起きた。
隣の部屋に控えている女官たちに気づかれてはならないと、声は出さず、窓の木枠を指先で二度叩く。
トン、トン。
すると彫物の隙間から、小さな紙片が差し込まれた。
受け取り、月明かりを頼りに見てみると、そこには蝶の絵が筆で描かれている。
「特別な調合の墨で描かれた蝶です。それに一滴だけ血を垂らして染み込ませると、わずかのあいだではありますが、魂が蝶に化けます」
囁く声が、窓の外から聞こえる。
「蝶に……?」
「賢帝と誉れ高かった、古のとある皇帝が、ある日夢で蝶になったという伝承があります。それにちなんで、『翅の夢』と呼ばれている咒です」
「咒……」
思いがけない提案に、惹かれるよりも戸惑いのほうが先にきた。
「誰にも、言ってはなりません。私の出身地の一部の人々だけに伝わる、秘術ですので」
用心深く、そう言い添える声。
それほどまでのものを渡してくれることに戸惑い、思わず訊いてしまった。
「なぜ、私に……?」
「綉葩さまがご自分で動いて出歩きたがっていると、私にはわかります。もしもお心からくる病ならば、気晴らしがあれば、またお元気になられるかと」
「そう、ありがとう」
綉葩の目に、涙が滲む。
この宮では、誰も、自分の心を気遣ってくれる者はいなかった。
女官たちは一見、優しく礼儀正しく心配してくれているように見える。
しかしその本音といえば、ただ皇帝お気に入りの玩具が壊れないか、飽きられることで自分たちの立場が悪くはならないか、そういったことを気にしているだけだった。
だが、煕佑は違う。
それが今、はっきりとわかった。
「では私は、誰かに見つからないうちに戻ります」
綉葩の状態に気づいているのかいないのか、そっと声が呟き、窓のすぐ外にあった気配が遠ざかっていくのを感じる。
煕佑の言葉をそのまま信じるのは難しい。
ただ、声が聞けただけでも嬉しかった。
綉葩は乗り出していた身体をまた戻し、手にした紙を改めて広げてみた。
窓からはわずかな月の光が射しこんでいる。
それを頼りに、描かれている複雑な文様の翅をした蝶の絵を、じっくりと眺めた。
続けてなど、初めてのことだった。
「綉葩さまは近頃いっそう美しくなられましたから」
筆頭侍女の黄汐諾が誇らしそうに言う。
「皇上もお気づきになられたのでしょう」
後宮でもかなり古参の女官だが、この国の習慣に不慣れな綉葩の教育係兼お目付け役として、側仕えに抜擢された中年の女性だ。
つまりは、綉葩自身の望みや幸せを思って、喜んでいるわけではない。
辺境から来た田舎者を、皇帝が気に入るほどの女性に仕込めたとあれば、己の評判があがる。
それが嬉しいのだ。
「美しく……?」
誉め言葉にぴんとこない綉葩が鸚鵡返しに訊くと、頷いた。
「愛されることで、女性としての華がお開きになられたのでしょう。肌をよりお磨きになられるよう、新しい薬湯を調合させましょう」
あの爺のために肌を磨くなど……と言いかけ、やめた。
もしも薄衣で隔てていたとしても、皮膚の感触を煕佑が感じてくれているのなら。
心地よい肌触りを彼に与えるためなら、そうするのも悪くないように思えた。
それから一週間、寝所へと呼ばれ続けた。
つまり、煕佑とも毎日会うことができた。
「今日はずいぶん、お顔の色がいいようだ」
トン、トン。
「いつもこんな風に、お身体の調子が良ければいいのになあ」
トン、トン。
「皇上もさぞかしお喜びだろう」
スゥ。
そんな他愛もないやり取りが繰り返される時間が来ることを、いつしか綉葩は何時間も前から楽しみにするようになった。
しかしそうなってくると反面、続く後の時間がいよいよ苦痛になってきた。
長い夜のあいだ執拗に弄ばれ、くたくたになった身体で、迎えに来た煕佑に身体を預けるとこには、自分の汚れを彼に押しつけているような気にさえなった。
煕佑でさえ、疲れ切った様子の綉葩を気遣ってか、そのときには独り言さえ口にしないほどだ。
食はどんどん細くなり、椅子に座っているだけでも疲れるようになった。
結局、薄暗い寝室にこもりきりになり、ほとんどの時間を横になって過ごすようになった。
寝台の枕元のすぐ脇には、小さな透かし窓があった。
硝子の代わりに、精巧な葉の透かし彫りの木枠が全面に施された窓は、その隙間から庭が見えるようになっている。
それが手の込んだ物なのはわかるが、今の綉葩には、この狭まった世界の象徴であるようにしか思えない。
夢に見るのは故郷の広い空。満天の星。砂漠から吹く乾いた風。
せめてこの窓の向こう、庭を歩くことができたなら。
自分の動きがままならないことを、綉葩はますます気に病むようになっていた。
弱っていることが伝わったのか、皇帝からの夜伽の要請はぴたりと止んだ。
つまり煕佑にも、会えなくなった。
綉葩の心はいよいよ内に籠り、身体は骨が浮くようになった。侍女たちなど、死期が近いのではないかと囁き合う始末だ。
そんな折だった。
真夜中、誰もが寝静まった時間。
窓の向こうから、かすかな声が聞こえた。
「綉葩さま」
煕佑の声だった。
綉葩は飛び起きた。
隣の部屋に控えている女官たちに気づかれてはならないと、声は出さず、窓の木枠を指先で二度叩く。
トン、トン。
すると彫物の隙間から、小さな紙片が差し込まれた。
受け取り、月明かりを頼りに見てみると、そこには蝶の絵が筆で描かれている。
「特別な調合の墨で描かれた蝶です。それに一滴だけ血を垂らして染み込ませると、わずかのあいだではありますが、魂が蝶に化けます」
囁く声が、窓の外から聞こえる。
「蝶に……?」
「賢帝と誉れ高かった、古のとある皇帝が、ある日夢で蝶になったという伝承があります。それにちなんで、『翅の夢』と呼ばれている咒です」
「咒……」
思いがけない提案に、惹かれるよりも戸惑いのほうが先にきた。
「誰にも、言ってはなりません。私の出身地の一部の人々だけに伝わる、秘術ですので」
用心深く、そう言い添える声。
それほどまでのものを渡してくれることに戸惑い、思わず訊いてしまった。
「なぜ、私に……?」
「綉葩さまがご自分で動いて出歩きたがっていると、私にはわかります。もしもお心からくる病ならば、気晴らしがあれば、またお元気になられるかと」
「そう、ありがとう」
綉葩の目に、涙が滲む。
この宮では、誰も、自分の心を気遣ってくれる者はいなかった。
女官たちは一見、優しく礼儀正しく心配してくれているように見える。
しかしその本音といえば、ただ皇帝お気に入りの玩具が壊れないか、飽きられることで自分たちの立場が悪くはならないか、そういったことを気にしているだけだった。
だが、煕佑は違う。
それが今、はっきりとわかった。
「では私は、誰かに見つからないうちに戻ります」
綉葩の状態に気づいているのかいないのか、そっと声が呟き、窓のすぐ外にあった気配が遠ざかっていくのを感じる。
煕佑の言葉をそのまま信じるのは難しい。
ただ、声が聞けただけでも嬉しかった。
綉葩は乗り出していた身体をまた戻し、手にした紙を改めて広げてみた。
窓からはわずかな月の光が射しこんでいる。
それを頼りに、描かれている複雑な文様の翅をした蝶の絵を、じっくりと眺めた。
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