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- 漆 -
炎
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次の朝瑯鑽宮に戻り、薬湯に花を散らした浴槽に浸かっているときに、綉葩は汐諾にさりげなく訊いた。
「昨夜の迎えに来た者、新しい顔だったが、名前はなんと言う」
「李岳にございます。なんでも先月宦官になったばかりとか」
先例の煕佑のように、やはりまだ男性としての筋力のある者が、役割を継いだということか。
ただ、あまりにも急な交代に思える。
いくら綉葩に決定権がないとはいえ、事前にひとことの断りもないとは。
その不満が漏れ出さないように語調に気をつけながら、話を続ける。
「以前の者は役目を終えたのか」
「それが」
ここで、汐諾は声を潜めた。
「彼の者は火事で死んだそうです。なんでも、自ら住居に火をつけたとか」
「ど……、どういうことか」
綉葩は自分の声が震えないよう気をつけた。
「噂では、呪詛を行おうとしていたそうです。禁じられた呪符を持っているところを、見た者がいたようで」
「禁じられた……、呪符……」
頭のなかに、あの蝶の絵の紙が思い浮かぶ。
『誰にも、言ってはなりません』
たしかに、そう、言っていた。
他にも、なにかの咒を行おうとしていたのか。
「進言を受けた風紀担当の宦官たちが、住居を調べようとした際、思いあまって暴挙に出たようです」
「なんと……」
宦官たちがまとまって住む宿舎は、瑯鑽宮からは遠い。
そんなことになっているなど、知る由もなかった。
しかし、呪詛……?
似合わない。
「そもそも出身地が、前王朝の残党たちが大勢落ち延びたと言われる土地だったとか。皇上に従順に仕えるふりをして、実は二心があったに違いありません。怖ろしいこと」
汐諾はそう断言し、震えてみせた。
『私の出身地』。
さりげなく言っていたあの言葉には、そんな意味があったのか。
最初から綉葩に同情的だったのも、別の国からやってきて皇帝に仕える姿に、親近感を覚えたからなのかもしれない。
目頭が熱くなってきた。
涙が出そうだ。
だが、反逆の疑いを持たれた宦官の死に后妃が涙を流すなど、誰かに告げ口でもされれば、同志と誤解を受けかねない。
だから反応を悟らせまいと、綉葩は浴槽の湯を両手で掬い取り、それを何度も顔にかけた。
寝室に戻り、人払いをしたあと、隠してあった蝶の紙をそっと取り出す。
今ではすっかり元の白色の部分はなくなり、赤黒い地になってしまっている。筆書きの蝶が、まるで血の海に沈み込んでいるようだ。
もう、これは、捨てるべきなのかもしれない。
煕佑ゆかりの呪符を持っていると万が一にでも知られたら、自分も、いやそればかりか故郷の国の人々にさえも、どんな罰が下るかわからない。
それに、もう。
たとえ蝶になっても、煕佑の周りを飛ぶことはできない。
もう姿を変えても、そこに喜びはないのだ。
綉葩は心を決めると、枕元の燭台の蝋燭に火をつけた。
焼いて処分することに決めたのだ。
ゆらゆらと揺らめく炎は、あの長い廊下に灯された光を思い出させる。
この後宮に来て、たった一ヵ所だけ、自分でいられた場所。
だがもう、あの長い廊下を通う孤独な心の、唯一の理解者とも言うべき人間はいなくなってしまった。
また涙が出てくる。
嗚咽を聞かれてはならない。
綉葩は紙片を脇に置くと、棚の上に置いてあった手巾を取り、口に押し当てた。
ふわり。
ふと、その手になにかが纏わりついた。
見ると、一羽の蝶。
「なぐさめてくれるの」
蝶になったことがある仲間意識からだろうか。
つい、話しかけてしまった。
すると、その蝶は手から飛びたった。
驚かせてしまったかと悔やんだのもつかの間、その蝶は綉葩の肩に、二度、とまった。
トン、トン。
「昨夜の迎えに来た者、新しい顔だったが、名前はなんと言う」
「李岳にございます。なんでも先月宦官になったばかりとか」
先例の煕佑のように、やはりまだ男性としての筋力のある者が、役割を継いだということか。
ただ、あまりにも急な交代に思える。
いくら綉葩に決定権がないとはいえ、事前にひとことの断りもないとは。
その不満が漏れ出さないように語調に気をつけながら、話を続ける。
「以前の者は役目を終えたのか」
「それが」
ここで、汐諾は声を潜めた。
「彼の者は火事で死んだそうです。なんでも、自ら住居に火をつけたとか」
「ど……、どういうことか」
綉葩は自分の声が震えないよう気をつけた。
「噂では、呪詛を行おうとしていたそうです。禁じられた呪符を持っているところを、見た者がいたようで」
「禁じられた……、呪符……」
頭のなかに、あの蝶の絵の紙が思い浮かぶ。
『誰にも、言ってはなりません』
たしかに、そう、言っていた。
他にも、なにかの咒を行おうとしていたのか。
「進言を受けた風紀担当の宦官たちが、住居を調べようとした際、思いあまって暴挙に出たようです」
「なんと……」
宦官たちがまとまって住む宿舎は、瑯鑽宮からは遠い。
そんなことになっているなど、知る由もなかった。
しかし、呪詛……?
似合わない。
「そもそも出身地が、前王朝の残党たちが大勢落ち延びたと言われる土地だったとか。皇上に従順に仕えるふりをして、実は二心があったに違いありません。怖ろしいこと」
汐諾はそう断言し、震えてみせた。
『私の出身地』。
さりげなく言っていたあの言葉には、そんな意味があったのか。
最初から綉葩に同情的だったのも、別の国からやってきて皇帝に仕える姿に、親近感を覚えたからなのかもしれない。
目頭が熱くなってきた。
涙が出そうだ。
だが、反逆の疑いを持たれた宦官の死に后妃が涙を流すなど、誰かに告げ口でもされれば、同志と誤解を受けかねない。
だから反応を悟らせまいと、綉葩は浴槽の湯を両手で掬い取り、それを何度も顔にかけた。
寝室に戻り、人払いをしたあと、隠してあった蝶の紙をそっと取り出す。
今ではすっかり元の白色の部分はなくなり、赤黒い地になってしまっている。筆書きの蝶が、まるで血の海に沈み込んでいるようだ。
もう、これは、捨てるべきなのかもしれない。
煕佑ゆかりの呪符を持っていると万が一にでも知られたら、自分も、いやそればかりか故郷の国の人々にさえも、どんな罰が下るかわからない。
それに、もう。
たとえ蝶になっても、煕佑の周りを飛ぶことはできない。
もう姿を変えても、そこに喜びはないのだ。
綉葩は心を決めると、枕元の燭台の蝋燭に火をつけた。
焼いて処分することに決めたのだ。
ゆらゆらと揺らめく炎は、あの長い廊下に灯された光を思い出させる。
この後宮に来て、たった一ヵ所だけ、自分でいられた場所。
だがもう、あの長い廊下を通う孤独な心の、唯一の理解者とも言うべき人間はいなくなってしまった。
また涙が出てくる。
嗚咽を聞かれてはならない。
綉葩は紙片を脇に置くと、棚の上に置いてあった手巾を取り、口に押し当てた。
ふわり。
ふと、その手になにかが纏わりついた。
見ると、一羽の蝶。
「なぐさめてくれるの」
蝶になったことがある仲間意識からだろうか。
つい、話しかけてしまった。
すると、その蝶は手から飛びたった。
驚かせてしまったかと悔やんだのもつかの間、その蝶は綉葩の肩に、二度、とまった。
トン、トン。
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