東京大学野球部についての一考察~ただ一つ

西海 広

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頼む、投げさせてくれ

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《NNH速報》
「ええ、速報です。ただいま入って参りましたニュースをお伝えします。本日午後十時五分頃、郷田正吉首相が総理官邸で倒れてるのが発見されました。速報です。速報です。郷田首相は経団会との夕食会に出かけられ、会食後官邸に総理お一人で戻られました。その後官邸応接室で倒れられた様です。なお、総理が倒れているところを発見したのは、白鳥官房長官で、官邸に寄ったところ倒れている郷田総理を発見したとのことです。一時心肺が停止したようでありますが、白鳥官房長官の素早い対応で、現在は呼吸も正常に戻り意識もはっきりしているとのことです。ただ首相と言う激務のせいでしょうか、時折意識が混濁することもあるようで、『僕はまだ投げる。僕はまだ投げられるんだ。投げさせてくれ』と、うわ言を繰り返し言っているとこのことです。私、NNHのアナウンサーでありますが、倒れられても国と国民を思い、残された政治や経済の課題に果敢に取り組む強い意志を示している郷田首相の回復を心より願っております。国民の皆様にも郷田首相の早期回復を祈っていただけますよう、心からお願い申し上げます。速報です、郷田首相が日本国首相官邸にて倒れました。現在は〇〇病院に搬送され、意識は回復しているとのことです」

《病室》
「あなた、次の選挙は正直まさなおに出てもらいますよ」
「だめだ。あいつはまだまだだ」
 郷田正吉は妻に背を向けてそう言った。
「もう、おやめなさい。あなたは十分仕事をしたわ。あとは若い人たちに任せて、箱根で私と静かに暮らしましょ」
「……」
  郷田の耳が猫のように都の声の方に動いた。「私と静かに暮らしましょ」それも悪くはない。郷田の心もまた動いた。
「そんな体で国の舵取りなんてできませんよ」
「まだやれる。引退など絶対にしない」
官邸で倒れるなんてもう無理です」
「いや、まだ投げる!」
 郷田は体を起こし、都を見てそう言った。
「投げる? ……どういう意味ですか?」
「つまり、つまりだ、僕はまだ官邸に居続けるということだ」
「はぁ……、そんなに官邸が好きなんですか?」
「好きだとも……いや……僕以外に誰が国のリーダーになれると言うんだ。僕しかいないんだよ」
「孫の正清や正勝がじぃじと遊ぶのを楽しみにしているんですよ」
「誰がサッカーなんかするものか。大体お前が悪いんだ。正直に野球をさせなくてサッカー教室に通わせたりして。だから正清も正勝もサッカーをするようになったんだ。男は野球だ」
「男は野球。じゃあ、女が野球をしたらダメなんですか?」
「そんなことは言っていない」
「いいえ、そういうことをあなたは言っているんです。白鳥さんに何度注意をされたらわかるんですか? 男が、女が、今はそういう時代じゃないんです」
「ふん、あほくさい」
 郷田はそう言ってベッドに横になり都に背を向けた。
「それと、運動会応援部はありがたくフロリダ旅行にいかせてもらうことにしましたよ」
「そうか、うん、それでいいんだよ。それでいい」
 すぐさま郷田は顔を都に向けた。ほんの少し口角が上がっている。
「でも、神宮に応援には行きませんからね」
「何だと! それじゃ話が違う!」
 今度は郷田の顔が醜く歪む。
「話が違う? 何のお話? それよりこれ見てくださる?」
 都はそう言ってタブレットを郷田に渡した。
「何だこれは?」
 タブレットの画面には一人の外国人の男が、四人の女に囲まれて楽しそうにグラスを掲げていた。
「誰だこいつ?」
「リコちゃん人形」
「何?」
「トーマス・パットと言えばおわかりになるんじゃないの?」
「トーマス・パット? トーマス……あっ!」
「リーグ戦で東大のキャッチャーをしていた選手です」
「こいつは何をしているんだ?」
「六本木のキャバクラを満喫しているようですよ。国民の税金で」
「何だと!」
「もうおわかりですよね。あなただってインチキして東大が勝っても本当は嬉しくないんでしょ」
「インチキだと! 取り消しなさい。その言葉は受け入れられない! 取り消せ!」
「いいえ、取り消しません。あなたはインチキをして東大が有利になるようにルールを変えた。これは事実です」
「……」
 郷田には返す言葉がない。それに相手は都だ。
「あなた、東大野球部を信じましょうよ。あなたの後輩たちは、いつか必ず優勝します。必ず」
「いつか……必ず……」
「あなたならおわかりでしょ? 東大に入ることが、東大野球部に入ることが、そしてリーグ戦に出場することがどれだけ大変なことなのか、あなたならわかるはずです。だってあなたはそうしてきたんですから。あなたたち東大野球部は、甲子園出場経験の選手がたくさんいる早稲田や慶応や明治、それに法政や立教と正々堂々と戦ってきたんです」
「……」
 郷田の脳裏に若い頃の自分が走馬灯の蘇った。
 北陸に育った郷田は、地元の県立高校に入学した。もちろん野球が好きだった郷田は、迷うことなく野球部に入った。そして勉強も怠ることなく、成績は卒業するまで常にトップ。もちろん東大合格者がそうであるように、郷田も寝る時間を割いてまで勉強した。野球一筋の郷田に遊ぶ時間などなかった。そして目指していた東京大学教養学部文化一類を現役で合格した。
 入部した野球部には百人を超える学生たちがいた。ようやく背番号を貰えたのは四年の秋。そして投げた唯一のボールを日下部に完膚なきまでに打ち返された。悔しかった。惨めであった。だが、やり遂げたという自分だけが感じる達成感のようなものもあった。だから郷田には悔いはない。
「数年前東大は一切の推薦制度を失くしました。そしてスポーツ推薦をしてこなかったのは六大学で唯一東大だけです。野球だけの人生ならプロに行ってもらえばいいじゃないですか。学びながら野球をする、これこそ学生野球の本分です。東大野球部員のこの姿勢こそ尊いものです。あなた、そう思いませんか?」
「……」
 その通りだと郷田は思った。
「勉強しながら野球をする。負けても投げる。負けても打つ。そんな東大野球部はかっこいいです」
「かっこいい……」
「ええ、かっこいいですよ」
「負けてかっこいいわけないだろ」
 言葉とは裏腹に郷田の表情が少し緩んだ。
「いいえ、かっこいいです。あなたの妻、郷田都が言うんです」
「ふん」
「ところであなた、フロリダ旅行の幹事が私になりました」
「そうか。応援部の連中を連れて楽しんできなさい」
「はい、そうさせていただきます。あなたもいちいちつまらないことで癇癪を起してはいけませんよ」
「ああ」
「私の中にはあなたの投げた一球が今でも残っているんです」
「……」
「悔しかったと思いますが、あなたは立派でしたよ」
「……」
 郷田の表情がさらに柔らかくなる。笑みもこぼれた。
「あなたの背番号33、忘れませんからね」
「……?」

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