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三.
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男の名は宮瀬春人というのを知ったのは屋敷に入ってからのことだった。
案内された、これから泊めてもらう和室は、3人寝てもまだまだ余るくらい広い部屋で、しっかり昼寝して元気いっぱいの佐奈はすぐにはしゃいでいたが、奈津は学校の教室くらいの部屋に20枚以上の畳が敷かれた部屋など初めての経験だったから、まずは驚きのあまりに声が出なかった。この屋敷には、そんな部屋がまだいくつかあるらしい。
そこに3人分の荷物を置いてから、庭が見える座敷――この部屋は、ちょっとした宴会場くらいの広さがあったー―で大きなテーブルを囲んで、ちょっと早めの昼食ということになった。そこで藤次が奈津と佐奈を紹介し、春人もちょっとした自己紹介を始めた。
「ここ『飾森神社』の現当主で29歳」
春人はそう言いながら菜箸でざるに盛られたそうめんをすくい器にとりながら、「一応、画家としてもそれなりの評価をいただいているが、代々の先祖が貯めてきた財産を食いつぶしながら、好き放題にやらせてもらっている感じだな」と笑った。
奈津の目の前の大きな竹笊には、5人でも食べきれなさそうなそうめんが入れられ、その上には氷が乗ってひんやりとした空気が漂っているような気がする。5人、というのは、もう一人、見た目から多分20代そこそこだろうと思われる若い女性が混じっているからだ。
左右に垂らした黒髪を三つ編みにした、テレビドラマでしか見たことのない田舎の優等生タイプの女学生といった表現がしっくりくる感じの女性だった。保科瑞穂と名乗ったこの女性は、通いで来ている家政婦だと自己紹介した。土日を除いたほぼ毎日、朝の9時から夕方の5時まで、宮瀬家の家事を行っているらしい。
「刻み葱と山葵はお好みでどうぞ」
と瑞穂が二枚の皿を奈津のほうに渡してきたので、奈津は苦手な山葵を申し訳程度に箸の先でとってつゆに溶いた。奈津の前にも、笊から取ったそうめんが器に盛られて置いてある。ハムや錦糸卵、キュウリの細切りと刻み海苔が皿に盛られて目の前に置かれていて、食べきれるかな、と内心思いつつ、そうめんを口に運ぶ。
それにしても、縁側の引き戸を開け放していると、涼しい空気が入ってきて、クーラーはおろか扇風機もついていないのに、涼しく感じる。
自然豊かな田舎だからか、気温は同じでも体感する暑さは都会とは全く異なって感じる。縁側につけられた風鈴の涼やかな音色が、周りの気温を2,3度は下げているようにも感じられた。
畳に座布団を敷いて正座をするというのが初めての経験の奈津は、早々に正座を諦めて足を崩した。奈津はちらりと隣に座る瑞穂に目を向けた。正座姿の彼女は背筋がピンと伸びた佇まいで正座している。先程の田舎の女学生みたいと考えたことを心の中で訂正する。合気道とか剣道とか、凛とした武道家のようだ。
春人と藤次との会話が、聞く気はなくても自然に耳に入ってきた。
「宮瀬家は代々、『飾森神社』の神主を継いでいるのだと伺いましたが」
と尋ねた藤次に、
「俺も、いずれ神社を継ぐことは決まっていたんですが、どうしても大学に行って絵の勉強をしたくて。ところが、大学卒業の直前で親父が急逝しまして。急いで神職の資格を取る勉強やら、親父が懇意にしていた宮司の人たちに協力をしてもらったりして準備を整えて……。急ぎ奉職することになったのです」
「ほうしょく?」
と奈津は横から口を挟んだ。
「神社の神職――神主のことだけれど――どこかの神社に就職することを奉職というんだ。辞書を引いたら公務員など、公の職に就くことを奉職と呼ぶと書いてある。神職だって、立派な公の仕事だろう」
そう言ってから、春人は湯のみのお茶を飲み干した。
「どうぞ」
と、瑞穂は空になった春人の湯飲みに、ヤカンから麦茶を注いだ。飲み物は、あまり冷やさないようにしているらしく、麦茶は生暖かいが、そうめんが冷えているのでむしろちょうどいい。
「奈津さんも、お代わりをどうぞ」
器の中のそうめんがなくなったのに気づいたらしく、瑞穂が今度は奈津の方に声をかけてくれた。
「いえ。私は十分頂きました」
と断った奈津の声に被さって、
「お代わり」
と、空の器が付き出される。沙奈の器だった。子供の頃は好きなものを好きなだけ食べたほうがいいという藤次の教育方針のせいか、佐奈は食べることにほとんど遠慮をしない。というよりも自制をしない。箸の使い方はちゃんとしているし、決して食べ散らかすような恥ずかしい食べ方はしていないが、その食べっぷりに思わず赤面してしまう。
微笑んで器を受け取る瑞穂に、奈津は小さく目礼した。
「ところで……」
そうめんを持った器を沙奈に返しながら、瑞穂が話題を変えた。
案内された、これから泊めてもらう和室は、3人寝てもまだまだ余るくらい広い部屋で、しっかり昼寝して元気いっぱいの佐奈はすぐにはしゃいでいたが、奈津は学校の教室くらいの部屋に20枚以上の畳が敷かれた部屋など初めての経験だったから、まずは驚きのあまりに声が出なかった。この屋敷には、そんな部屋がまだいくつかあるらしい。
そこに3人分の荷物を置いてから、庭が見える座敷――この部屋は、ちょっとした宴会場くらいの広さがあったー―で大きなテーブルを囲んで、ちょっと早めの昼食ということになった。そこで藤次が奈津と佐奈を紹介し、春人もちょっとした自己紹介を始めた。
「ここ『飾森神社』の現当主で29歳」
春人はそう言いながら菜箸でざるに盛られたそうめんをすくい器にとりながら、「一応、画家としてもそれなりの評価をいただいているが、代々の先祖が貯めてきた財産を食いつぶしながら、好き放題にやらせてもらっている感じだな」と笑った。
奈津の目の前の大きな竹笊には、5人でも食べきれなさそうなそうめんが入れられ、その上には氷が乗ってひんやりとした空気が漂っているような気がする。5人、というのは、もう一人、見た目から多分20代そこそこだろうと思われる若い女性が混じっているからだ。
左右に垂らした黒髪を三つ編みにした、テレビドラマでしか見たことのない田舎の優等生タイプの女学生といった表現がしっくりくる感じの女性だった。保科瑞穂と名乗ったこの女性は、通いで来ている家政婦だと自己紹介した。土日を除いたほぼ毎日、朝の9時から夕方の5時まで、宮瀬家の家事を行っているらしい。
「刻み葱と山葵はお好みでどうぞ」
と瑞穂が二枚の皿を奈津のほうに渡してきたので、奈津は苦手な山葵を申し訳程度に箸の先でとってつゆに溶いた。奈津の前にも、笊から取ったそうめんが器に盛られて置いてある。ハムや錦糸卵、キュウリの細切りと刻み海苔が皿に盛られて目の前に置かれていて、食べきれるかな、と内心思いつつ、そうめんを口に運ぶ。
それにしても、縁側の引き戸を開け放していると、涼しい空気が入ってきて、クーラーはおろか扇風機もついていないのに、涼しく感じる。
自然豊かな田舎だからか、気温は同じでも体感する暑さは都会とは全く異なって感じる。縁側につけられた風鈴の涼やかな音色が、周りの気温を2,3度は下げているようにも感じられた。
畳に座布団を敷いて正座をするというのが初めての経験の奈津は、早々に正座を諦めて足を崩した。奈津はちらりと隣に座る瑞穂に目を向けた。正座姿の彼女は背筋がピンと伸びた佇まいで正座している。先程の田舎の女学生みたいと考えたことを心の中で訂正する。合気道とか剣道とか、凛とした武道家のようだ。
春人と藤次との会話が、聞く気はなくても自然に耳に入ってきた。
「宮瀬家は代々、『飾森神社』の神主を継いでいるのだと伺いましたが」
と尋ねた藤次に、
「俺も、いずれ神社を継ぐことは決まっていたんですが、どうしても大学に行って絵の勉強をしたくて。ところが、大学卒業の直前で親父が急逝しまして。急いで神職の資格を取る勉強やら、親父が懇意にしていた宮司の人たちに協力をしてもらったりして準備を整えて……。急ぎ奉職することになったのです」
「ほうしょく?」
と奈津は横から口を挟んだ。
「神社の神職――神主のことだけれど――どこかの神社に就職することを奉職というんだ。辞書を引いたら公務員など、公の職に就くことを奉職と呼ぶと書いてある。神職だって、立派な公の仕事だろう」
そう言ってから、春人は湯のみのお茶を飲み干した。
「どうぞ」
と、瑞穂は空になった春人の湯飲みに、ヤカンから麦茶を注いだ。飲み物は、あまり冷やさないようにしているらしく、麦茶は生暖かいが、そうめんが冷えているのでむしろちょうどいい。
「奈津さんも、お代わりをどうぞ」
器の中のそうめんがなくなったのに気づいたらしく、瑞穂が今度は奈津の方に声をかけてくれた。
「いえ。私は十分頂きました」
と断った奈津の声に被さって、
「お代わり」
と、空の器が付き出される。沙奈の器だった。子供の頃は好きなものを好きなだけ食べたほうがいいという藤次の教育方針のせいか、佐奈は食べることにほとんど遠慮をしない。というよりも自制をしない。箸の使い方はちゃんとしているし、決して食べ散らかすような恥ずかしい食べ方はしていないが、その食べっぷりに思わず赤面してしまう。
微笑んで器を受け取る瑞穂に、奈津は小さく目礼した。
「ところで……」
そうめんを持った器を沙奈に返しながら、瑞穂が話題を変えた。
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