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十.
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会計を済ませて、逃げるように商店をでた奈津と瑞穂は、車に乗り込む。助手席でシートベルトを締める奈津の指が微かに震えた。
森に“食われた”という言葉が、先ほど屋敷の周りを歩いていた時に感じた森に吸い込まれそうな奇妙な感覚と重なった。自分も食われるところだったのではないか、などと思い背筋に冷たいものが走った。
「発車しますよ」
車のエンジンがかけられ、瑞穂の声が聞こえた。
ゆっくりとバックした車は方向転換して、本道へと出る。
「妹さんのことは瑞穂さんも知っていたんですか?」
本堂に出て、運転が安定したあたりで奈津は尋ねてみた。
「私の家と宮瀬の家は親戚筋とはいえほとんど血の繋がりはないのですけれど、家が近いこともあって時々はお邪魔していました。葉月ちゃんは私と同い年でおとなしいお人形さんみたいな女の子でした。いつも春人さんの――旦那様の後ろに隠れているような子だったので、あまり一緒に遊んだことはなかったですね」
瑞穂の年齢は知らなかったが、見た感じ20代前半くらい。葉月が居なくなったのが十余年前で11歳だったのなら、生きていたら瑞穂と同じように成長して、奇麗な大人の女性になっていたのだろう。
「あのお部屋は妹さんの部屋で、妹さんの名前は葉月――」
回りくどい言い方をせずに、最初からそう言ってくれればいいのにと、ちょっとだけ逆恨みでむくれた。
「お屋敷には出る、という話をしたのを覚えていますか?」
「あ……はい」
「私は短大を卒業してから家政婦の派遣をしている会社に登録していたので、宮瀬の家に行ったのは偶然でした。私の前に、何人かあのお屋敷に派遣されて働いていた家政婦がいたんですけれど、不思議な人影を見たとか、変な話声を聞いた、とか不思議な体験をして辞めてしまう人が続出して……。旦那様自身は、家政婦はあまり年の若い人は避けるように派遣会社に求めていたようなのですが、結局誰も行きたがらないので、縁故とは関係なく派遣されることになったんです」
「瑞穂さんは、それが妹さん――葉月さんだと思っているんですか?」
瑞穂はYESともNOとも言わなかった。しかし、とても悲しそうな眼を奈津の方に向けてきた。
* * *
屋敷に戻り、荷物を屋敷に運ぶ。
「奈津さんも遊んできてください。夕飯の支度まで少し私も休憩ですから」
「あ……はい」
「今日は助かりました。奈津さんがいてくれて仕事がはかどりました」
「私も勉強になりました。明日もお手伝いさせてください」
「ええ。ぜひ」
そう言うと、奈津はまず書斎を覗きに行った。入って沙奈を探してみるが、そこには人の気配はなかった。
春人のアトリエだろうかと思ったが、さすがに仕事部屋に子供を入れないだろうと考える。春人と一緒なのだから心配はいらないだろうけれど……と思いながら屋敷の周りを歩いていると、屋敷の裏手に出た。
森までほとんど垂直に削られている中で、唯一下りることができる階段が整備されている場所だった。初日に見たときは気付かなかったが足元に、小さな祠が設置されている。その横を通って、黒い服の男が下りていく後ろ姿が見えた。
……あれは春人さんだよね? 佐奈はどうしたんだろう?
春人らしき後ろ姿は、階段を下りて、森へと入っていく。駆け寄ると、下が見えないほど長い階段を人影はどんどんと降りていっていた。奈津も、つい後を追って、階段に一歩足を踏み出した。
その階段は崖を切り足場にしたものだった。優に100段以上はある階段は、いったいどうやって作ったのかと思えるくらいに幅も広くしっかりした足場だった。とはいえ石の階段は滑りやすく、足元に気を付けながら歩かなければならない。崖側に落下防止用のロープが張ってあり、それを掴みながら、おっかなびっくりで下りていく。あっという間に黒い服の背中は見えなくなっていた。
階段が終わると、化粧石を敷いたそれなりに綺麗な道が出来ていた。その道を進んだ先に、巨大な樹があるのが見える。そして、その前に、黒い服の男が立っているのも、かろうじて見えた。
道の両脇には樹木が生い茂り、森が広がっている。その中に人の手が加えられたようには見えなかった。この道だけが人の手を加えられた異質な空間。幻想的な自然の世界と、幾何学的な人間の世界。その隔たりを乗り越えるのは、容易いだろうけれど、それをしようという気にはならなかった。
奈津は早足で黒服の男の所へ向かう。
その距離は400mくらいあっただろうか。舗装されているわけではないのでスニーカーの靴底越しに小石の感触を感じて足の裏が痛い。
辿り着く前に、男の方が振り返った。
「……君は、何をしに来た?」
不快そうな声で言ったのは、やはり春人だった。
「この森には……」
「ごめんなさい!」
先手を打って奈津は大きく頭を下げた。
「沙奈を探していたら春人さんの後ろ姿が見えたので、それで……」
「それで?」
「……」
奈津は結局沈黙し、それからもう一回頭を下げた。
「本当にごめんなさい」
「なぜ、人がそれを“やるな”と言うのか。自分にとってはくだらないとかどうでもいいとか思うことでも、理由というのはあるものだ。自分がくだらないとか大丈夫だとか思ったとしても、そういう理由を軽んじてはいけない。それでなくても、万が一、君があの石段から落ちたら、皆が悲しむことが分からないのか?」
後半の言葉をとってつけたようなものだと感じたのは、先ほど商店のおばあさんが言った「田舎の根拠のない迷信というのは、意外にバカにできない」という言葉を思い出したからだった。似たような言葉だが春人は別の次元で、物を言っているように思える。それは葉月のことがあるからなのだろうと思った。
「君の妹は、お父さんと一緒に蔵にいるよ。書庫の漫画に飽きたみたいだ」
「書庫にあった漫画は妹さんのですか」
言ってしまってから、またやってしまったと思う。春人の顔が、すっと険しくなったからだ。
「保科さんに聞いたのか?」
「買い物に行ったときに、お店のおばあさんに……」
「田舎の人は口が軽いからな」
春人は小さくため息をついた。
森に“食われた”という言葉が、先ほど屋敷の周りを歩いていた時に感じた森に吸い込まれそうな奇妙な感覚と重なった。自分も食われるところだったのではないか、などと思い背筋に冷たいものが走った。
「発車しますよ」
車のエンジンがかけられ、瑞穂の声が聞こえた。
ゆっくりとバックした車は方向転換して、本道へと出る。
「妹さんのことは瑞穂さんも知っていたんですか?」
本堂に出て、運転が安定したあたりで奈津は尋ねてみた。
「私の家と宮瀬の家は親戚筋とはいえほとんど血の繋がりはないのですけれど、家が近いこともあって時々はお邪魔していました。葉月ちゃんは私と同い年でおとなしいお人形さんみたいな女の子でした。いつも春人さんの――旦那様の後ろに隠れているような子だったので、あまり一緒に遊んだことはなかったですね」
瑞穂の年齢は知らなかったが、見た感じ20代前半くらい。葉月が居なくなったのが十余年前で11歳だったのなら、生きていたら瑞穂と同じように成長して、奇麗な大人の女性になっていたのだろう。
「あのお部屋は妹さんの部屋で、妹さんの名前は葉月――」
回りくどい言い方をせずに、最初からそう言ってくれればいいのにと、ちょっとだけ逆恨みでむくれた。
「お屋敷には出る、という話をしたのを覚えていますか?」
「あ……はい」
「私は短大を卒業してから家政婦の派遣をしている会社に登録していたので、宮瀬の家に行ったのは偶然でした。私の前に、何人かあのお屋敷に派遣されて働いていた家政婦がいたんですけれど、不思議な人影を見たとか、変な話声を聞いた、とか不思議な体験をして辞めてしまう人が続出して……。旦那様自身は、家政婦はあまり年の若い人は避けるように派遣会社に求めていたようなのですが、結局誰も行きたがらないので、縁故とは関係なく派遣されることになったんです」
「瑞穂さんは、それが妹さん――葉月さんだと思っているんですか?」
瑞穂はYESともNOとも言わなかった。しかし、とても悲しそうな眼を奈津の方に向けてきた。
* * *
屋敷に戻り、荷物を屋敷に運ぶ。
「奈津さんも遊んできてください。夕飯の支度まで少し私も休憩ですから」
「あ……はい」
「今日は助かりました。奈津さんがいてくれて仕事がはかどりました」
「私も勉強になりました。明日もお手伝いさせてください」
「ええ。ぜひ」
そう言うと、奈津はまず書斎を覗きに行った。入って沙奈を探してみるが、そこには人の気配はなかった。
春人のアトリエだろうかと思ったが、さすがに仕事部屋に子供を入れないだろうと考える。春人と一緒なのだから心配はいらないだろうけれど……と思いながら屋敷の周りを歩いていると、屋敷の裏手に出た。
森までほとんど垂直に削られている中で、唯一下りることができる階段が整備されている場所だった。初日に見たときは気付かなかったが足元に、小さな祠が設置されている。その横を通って、黒い服の男が下りていく後ろ姿が見えた。
……あれは春人さんだよね? 佐奈はどうしたんだろう?
春人らしき後ろ姿は、階段を下りて、森へと入っていく。駆け寄ると、下が見えないほど長い階段を人影はどんどんと降りていっていた。奈津も、つい後を追って、階段に一歩足を踏み出した。
その階段は崖を切り足場にしたものだった。優に100段以上はある階段は、いったいどうやって作ったのかと思えるくらいに幅も広くしっかりした足場だった。とはいえ石の階段は滑りやすく、足元に気を付けながら歩かなければならない。崖側に落下防止用のロープが張ってあり、それを掴みながら、おっかなびっくりで下りていく。あっという間に黒い服の背中は見えなくなっていた。
階段が終わると、化粧石を敷いたそれなりに綺麗な道が出来ていた。その道を進んだ先に、巨大な樹があるのが見える。そして、その前に、黒い服の男が立っているのも、かろうじて見えた。
道の両脇には樹木が生い茂り、森が広がっている。その中に人の手が加えられたようには見えなかった。この道だけが人の手を加えられた異質な空間。幻想的な自然の世界と、幾何学的な人間の世界。その隔たりを乗り越えるのは、容易いだろうけれど、それをしようという気にはならなかった。
奈津は早足で黒服の男の所へ向かう。
その距離は400mくらいあっただろうか。舗装されているわけではないのでスニーカーの靴底越しに小石の感触を感じて足の裏が痛い。
辿り着く前に、男の方が振り返った。
「……君は、何をしに来た?」
不快そうな声で言ったのは、やはり春人だった。
「この森には……」
「ごめんなさい!」
先手を打って奈津は大きく頭を下げた。
「沙奈を探していたら春人さんの後ろ姿が見えたので、それで……」
「それで?」
「……」
奈津は結局沈黙し、それからもう一回頭を下げた。
「本当にごめんなさい」
「なぜ、人がそれを“やるな”と言うのか。自分にとってはくだらないとかどうでもいいとか思うことでも、理由というのはあるものだ。自分がくだらないとか大丈夫だとか思ったとしても、そういう理由を軽んじてはいけない。それでなくても、万が一、君があの石段から落ちたら、皆が悲しむことが分からないのか?」
後半の言葉をとってつけたようなものだと感じたのは、先ほど商店のおばあさんが言った「田舎の根拠のない迷信というのは、意外にバカにできない」という言葉を思い出したからだった。似たような言葉だが春人は別の次元で、物を言っているように思える。それは葉月のことがあるからなのだろうと思った。
「君の妹は、お父さんと一緒に蔵にいるよ。書庫の漫画に飽きたみたいだ」
「書庫にあった漫画は妹さんのですか」
言ってしまってから、またやってしまったと思う。春人の顔が、すっと険しくなったからだ。
「保科さんに聞いたのか?」
「買い物に行ったときに、お店のおばあさんに……」
「田舎の人は口が軽いからな」
春人は小さくため息をついた。
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