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十一.
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「察しているとは思うが2階の例の部屋は妹の――葉月の部屋だ。葉月は俺が17の時に突然、何の前触れも無くいなくなった。今の君と同じ年齢だったな。さっき、君も歩いた階段の途中に、葉月の髪留めが落ちていて、ここに来たのは間違いなさそうだった。森に迷い込んだのかもしれないと捜索はされたが何の手掛かりも見つからず、もちろん遺体も見つからず仕舞いだった。どうにも、葉月がこの世界からいなくなったという実感が沸かず、今でも、ひょっこりと戻ってくるんじゃないか……そんな風に思って、部屋も葉月の本も、捨てるに捨てられずにいるんだ」
「ひょっとして、今も、葉月さんを探しに来たんですか?」
「いや……」
春人は言葉を切ると、太い幹の巨大な樹を見上げた。
「これは……ご神木ですか?」
「ああ……樹齢は優に1000年は超えているらしい」
「なんていう種類の樹ですか?」
「カツラだ。興味があったらあとで調べてみればいい」
奈津の両腕で抱えたくらいではとても届かない太い幹。奈津が3人いても、多分とどかないだろう……と、思わず両手を開いてみる。
「信じられない……こんな太い樹があるなんて」
「これは神木だけれど……墓標でもある」
「葉月さんの? ですか?」
「葉月のことを聞いたのなら、他のことも聞いているんじゃないか? 父の妹や、祖父の姉や、曾祖父の弟や――宮瀬の家の者にはこの森でいなくなった人間が沢山いるんだ」
奈津は小さく頷いた。
「お店のおばあさんは……森に食われたって言っていました」
「俺の父親も祖父も曾祖父も、森に還ったって言っていたけれど、俺も食われたって方が正しいと思うよ」
「……」
「宮瀬の家での考えでね。宮瀬の家は森を守り、森に守られている。森にあらゆるものを与えられている。だから失ったとしても、それは森に還っただけなんだ……て」
「そうなんですか……」
奈津は呟いて、神木を見上げる。それから、足元に気を付けながら、神木の周りを歩いてみた。何だか、その陰から誰かが姿を現しそうで薄気味が悪いというのが本音だった。
初めて、この森を見たときに感じた、森が人を拒絶しているような不思議な感覚が蘇ってきた。神木と言えばエネルギーをもらえる存在のように思うのに、ここではむしろエネルギーを吸い取られてしまったようだ。この下に、エネルギーを吸い取られて干からびた子供たちが埋まっているのではないかと不謹慎なことを考え、背筋がぞくりとした。
「まだ、脇を通っただけですけれど、この森は私が知っている森とは何かが違うような気がします」
それが何なのか奈津には分からず首を傾げながら言った。春人はすぐにその理由に気づいたようで「君の言う、知っている森っていうのは、いわゆる里山のことだろう」と言った。
「人間の手が日常的に入る山林を里山、奥深く人の手があまり入っていない山林を深山と言う。里山に植えられていたのは木炭に利用するクヌギやナラ、建材に利用されたアカマツなどだったんだが、日中戦争や太平洋戦争があって日本中から軍需物資として木材が集められたために、日本中の山から山林が消えてしまった。そこで戦後の日本政府はスギやヒノキによる造林を推し進めた」
「父から少し聞いたことがあります。そのせいで、日本中でスギやヒノキの花粉症に悩まされる人が増えたって」
「戦後の林業政策とその誤りについては、興味があったら調べてみるといい。――話を戻すが、この森の大半を構成しているのはブナの樹なんだ。ブナは日本の温帯林を代表する樹で、樹齢は約300年くらいと言われている。繁殖力が旺盛なこともあって、かつては広い範囲で見られたけれど、戦後の乱伐採で多くが失われてしまった。今残っているブナの原生林の多くは標高1000mから1500mくらいで、この山林のように低地で残っているのは珍しい」
「春人さんの先祖の方が頑張って守ったんですね」
先ほど春人の口から出た「宮瀬の家は森を守り、森に守られている」という言葉を奈津は思い、それがどれだけ大変なことなのだろうと先人の苦労に思いを巡らせる。しかし春人は、少し顔をしかめただけだった。
「だいぶ日が落ちてきたな。暗くなる前に帰ろう。あんまり長居していい場所じゃない」
「あ……はい」
森が空気を冷やすのだろうか。夏の夕時だというのに少し肌寒くなってきていた。奈津には、その肌寒さが、さっさと帰れと森に言われているような気がして「そうですね。帰りましょう」と屋敷の方に向かって歩き出した。
「この通路は、あのご神木の所まで整備されている。森には手を付けてはいけないと、子供の頃から言い聞かされてきたけれど、この道と階段だけは別なんだ。それだけは、ちゃんと雑草が生えないように手入れをして、掃除しておかないといけない。……なぜなら、本来は神様が通る道だから」
「神様……昨日も、そんなことを言っていましたね」
「勝手口の話だったっけな。あれは別に嘘じゃない。森の神様が、この道を通って、あの階段を上がって来れるようになっているんだ。本来は神社の本殿へのルートだったんだが、いつの頃からか、屋敷にも神様が入って来れるように、絶対に締めない扉を用意するようになったらしい」
奈津はもう一度足を止めて振り返る。振り返って、はっとした。神木の下に、誰かが立っているような気がした。その人影は白く、そして頭の部分が緑色で。他の部分はぼやけているのにその緑だけくっきりとして見えた。
「!」
思わず2、3度瞬きした瞬間、その人影は消えてしまっていた。
白昼夢……。
と思った瞬間、びゅうっと一陣の風が過ぎ去った。奈津の体感温度が一気に氷点下まで下がったような気がした。奈津の肩を、何か人外の者が触れた。そんな風に錯覚した。
目の前には先ほどまでと変わらぬ巨木が、先ほどまでと変わらず風に任せて枝を揺らしている。普段なら風が通り抜けただけと思うだけだろうが、ここの重苦しい空気が落ち葉の舞う微かな音さえ怪異に感じさせた。そういうことなのだろうと、奈津は思おうとした。
「どうした?」
という春人の問いに、「いえ、何も」としか答えられなかった奈津だったが、春人を見上げると、彼の顔も、少し強張っているのに気付いた。
「今、何か通ったな」
春人の断定するような口調に、奈津はぶるっと身震いした。
* * *
「ひょっとして、今も、葉月さんを探しに来たんですか?」
「いや……」
春人は言葉を切ると、太い幹の巨大な樹を見上げた。
「これは……ご神木ですか?」
「ああ……樹齢は優に1000年は超えているらしい」
「なんていう種類の樹ですか?」
「カツラだ。興味があったらあとで調べてみればいい」
奈津の両腕で抱えたくらいではとても届かない太い幹。奈津が3人いても、多分とどかないだろう……と、思わず両手を開いてみる。
「信じられない……こんな太い樹があるなんて」
「これは神木だけれど……墓標でもある」
「葉月さんの? ですか?」
「葉月のことを聞いたのなら、他のことも聞いているんじゃないか? 父の妹や、祖父の姉や、曾祖父の弟や――宮瀬の家の者にはこの森でいなくなった人間が沢山いるんだ」
奈津は小さく頷いた。
「お店のおばあさんは……森に食われたって言っていました」
「俺の父親も祖父も曾祖父も、森に還ったって言っていたけれど、俺も食われたって方が正しいと思うよ」
「……」
「宮瀬の家での考えでね。宮瀬の家は森を守り、森に守られている。森にあらゆるものを与えられている。だから失ったとしても、それは森に還っただけなんだ……て」
「そうなんですか……」
奈津は呟いて、神木を見上げる。それから、足元に気を付けながら、神木の周りを歩いてみた。何だか、その陰から誰かが姿を現しそうで薄気味が悪いというのが本音だった。
初めて、この森を見たときに感じた、森が人を拒絶しているような不思議な感覚が蘇ってきた。神木と言えばエネルギーをもらえる存在のように思うのに、ここではむしろエネルギーを吸い取られてしまったようだ。この下に、エネルギーを吸い取られて干からびた子供たちが埋まっているのではないかと不謹慎なことを考え、背筋がぞくりとした。
「まだ、脇を通っただけですけれど、この森は私が知っている森とは何かが違うような気がします」
それが何なのか奈津には分からず首を傾げながら言った。春人はすぐにその理由に気づいたようで「君の言う、知っている森っていうのは、いわゆる里山のことだろう」と言った。
「人間の手が日常的に入る山林を里山、奥深く人の手があまり入っていない山林を深山と言う。里山に植えられていたのは木炭に利用するクヌギやナラ、建材に利用されたアカマツなどだったんだが、日中戦争や太平洋戦争があって日本中から軍需物資として木材が集められたために、日本中の山から山林が消えてしまった。そこで戦後の日本政府はスギやヒノキによる造林を推し進めた」
「父から少し聞いたことがあります。そのせいで、日本中でスギやヒノキの花粉症に悩まされる人が増えたって」
「戦後の林業政策とその誤りについては、興味があったら調べてみるといい。――話を戻すが、この森の大半を構成しているのはブナの樹なんだ。ブナは日本の温帯林を代表する樹で、樹齢は約300年くらいと言われている。繁殖力が旺盛なこともあって、かつては広い範囲で見られたけれど、戦後の乱伐採で多くが失われてしまった。今残っているブナの原生林の多くは標高1000mから1500mくらいで、この山林のように低地で残っているのは珍しい」
「春人さんの先祖の方が頑張って守ったんですね」
先ほど春人の口から出た「宮瀬の家は森を守り、森に守られている」という言葉を奈津は思い、それがどれだけ大変なことなのだろうと先人の苦労に思いを巡らせる。しかし春人は、少し顔をしかめただけだった。
「だいぶ日が落ちてきたな。暗くなる前に帰ろう。あんまり長居していい場所じゃない」
「あ……はい」
森が空気を冷やすのだろうか。夏の夕時だというのに少し肌寒くなってきていた。奈津には、その肌寒さが、さっさと帰れと森に言われているような気がして「そうですね。帰りましょう」と屋敷の方に向かって歩き出した。
「この通路は、あのご神木の所まで整備されている。森には手を付けてはいけないと、子供の頃から言い聞かされてきたけれど、この道と階段だけは別なんだ。それだけは、ちゃんと雑草が生えないように手入れをして、掃除しておかないといけない。……なぜなら、本来は神様が通る道だから」
「神様……昨日も、そんなことを言っていましたね」
「勝手口の話だったっけな。あれは別に嘘じゃない。森の神様が、この道を通って、あの階段を上がって来れるようになっているんだ。本来は神社の本殿へのルートだったんだが、いつの頃からか、屋敷にも神様が入って来れるように、絶対に締めない扉を用意するようになったらしい」
奈津はもう一度足を止めて振り返る。振り返って、はっとした。神木の下に、誰かが立っているような気がした。その人影は白く、そして頭の部分が緑色で。他の部分はぼやけているのにその緑だけくっきりとして見えた。
「!」
思わず2、3度瞬きした瞬間、その人影は消えてしまっていた。
白昼夢……。
と思った瞬間、びゅうっと一陣の風が過ぎ去った。奈津の体感温度が一気に氷点下まで下がったような気がした。奈津の肩を、何か人外の者が触れた。そんな風に錯覚した。
目の前には先ほどまでと変わらぬ巨木が、先ほどまでと変わらず風に任せて枝を揺らしている。普段なら風が通り抜けただけと思うだけだろうが、ここの重苦しい空気が落ち葉の舞う微かな音さえ怪異に感じさせた。そういうことなのだろうと、奈津は思おうとした。
「どうした?」
という春人の問いに、「いえ、何も」としか答えられなかった奈津だったが、春人を見上げると、彼の顔も、少し強張っているのに気付いた。
「今、何か通ったな」
春人の断定するような口調に、奈津はぶるっと身震いした。
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